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fumi_saeki’s blog

とらのあなほど厳しくはないどころかゆるゆるの文章修行道場にするつもりです。

地のもの

 フシに呼び出されたセキの前に,焚物を手にした怪し(あやし)の者が侍(じ)の間に鎮座している。綿毛のような柔らかい衣肌(きぬはだ)の,木朽葉色に似た色の被り(かむり)。その上から白布を額に巻いている。首から下も同じ色の衣をまとい,腰帯で締めている。履物も同じ素(もと)と見える。宮のものではない,地のものか——お主は……

 「お使いの目的,と言えば良いかな。」——少し遠ざかって控えているオミが,首を深く垂れた。

 測量士様——

 「お前が今の「天(あま)の司」か。うん。なるほど。言と文を使って,理の力を少し借りているのだな。お前たちが,いや,お前たちの祖先が歴史書「フミ」を編纂したときの初代エイは,まだその力が使えなかった。それから何年経ったのかわからないが,「作りしもの」が蓄積したようだ。ここまでよく頑張った,と言いたいが,それが災いを招いたようだな。」

 測量士様,何を申されているのか。我らが「フミ」を編みしゆえに災いを招いたと。「フミ」は理の志(こころざし)ではなかったのか。万が一にも災いを招いた因であれば,なぜそなたはそれと知りながら「フミ」編まれし折に立ち会われたのか。

 「理の意志は,世界の創生を,この地の成り立ちを,それぞれの世界に委ねたということに尽きる。どのように世界を創るかは,お前たちが選んだ,いや,お前たちが選ぶのに任せられた。そして,お前たちは言と文を重んじ,それを管理する「宮」を建立した。

 だが,ものは言い様だ。管理と称しながら,それらを独占した。何から独占したか。「地のもの」からだ。地のものが「フミ」や他の伝承に記されながら,いま誰一人知らないのはそのためだ。地のものは言を失い,文を失い,地に沈んだ。」

 我らが「フミ」を重んじるあまり,地のものをないがしろにした,そう測量士様は仰るのか。宮に我らが仕え,いかように地のものを慮ってきたか,貴殿はご存知なのか。

 「ああ,知っているよ。どこまでの代だったか忘れたが,「フミ」に頼りながらも,地のものとの「つながり」をきちんと意識していた者もいたようだな。お前の代に至ると,そのつながりは抽象的になり,「なんとなく」守るべき対象ぐらいになってしまったようだが。

 まあ,無理もないだろう。言と文が地と乖離すればするほど,言と文の縛りは強くなるからな。縛りが強くなれば,それだけそこから得られる力も強くなる。宮はそのための装置であり,お前たちはその「依り代」にすぎない。」

 なに!測量士様と言えど,宮とそれに仕える者への愚弄はお控えいただきたい。私は天を司る者にて,宮の守護を任されておる。ここにおる者はみな,この地を守る使命をそれぞれに帯びておりまする。それを愚弄なさるか。

 「お前は「他の地」を見たことがあるのだろう。「封印玉」などという大仰な名の宝物を使って。他の地はどうであった。言と文に頼りきっていたか。それとも地と共に生きていたか。他の地では,地のものはどうなっていたか。」

 ——それは……

 「まあ良い,愚弄ととっても構わない。で,どうする。その力を試してみるか。お前たちの「創生」を見て以来だ,お前たちが以来どれだけ自分たちを知ったか,試してみるがいい。こちらにも,言と文,お前たちが作り出し,お前たちを「統べてきた」ものを試してみたい気もある。さあ,いつでも。」

 然らばと,セキは赤装束から両腕を出し,胸の前で交差させた。右と左のひじから手の甲にかけて,無数の右卍と左卍が浮かび上がった。——測量士と言えど,容赦はせぬ,これまで境界石を守りし天の力を知るが良い。——セキの体が大きく波打った,周囲もそれに呼応するように波打つ。床に張られた縄文杉の板が波立ち,その波が測量士に迫る。だが——

 波は測量士に達する前に忽然と消えた。——どういうことだ,天の力が利かぬのか——と,セキは身構えた。——なに,測量士がすぐ目の前に。なぜ……

 「そうか,エイなら分かっただろうが,あれからずいぶん経っているものな。お前が「天の力」と言っているのは,お前たちが言と文によって作り出した力,そして言と文によって守ってきた力に他ならない。あの水にいた間は,それも影響することはできた。この地ではそのような規則だからな。でも,使いが来て解放された時点で,「もと」の存在に戻っている。

 この測りごとについては,お前が遣わした使いの方が詳しい。あいつに後で聞いてくれ。それよりも,今はことを急ぐ。いいか,お前たちが測量士と呼ぶものは,もともとここの規則とは無縁なのだ。ただ,面倒な世界をこしらえるなあ,と気まぐれで下に住むために,その規則を仕方なく受け入れただけだ。けっきょく,これも理の仕組んだことだと思うと,多少はむかつくが。——」

 セキは両手から両肘にかけて血を滴らせながら,その場に佇んでいた。——これまで行使してきた法式がまったく役に立たぬ……これが理の真の力なのか。我々は何のために……

 「「天の司」。今は境界石が先決だ。他の世界にこの世界が干渉し始めている。それを止めないと。とにかく「フミ」を始めとする,この地について書かれたものを持ってこい。この「刻」のあり方も残しながら,上書きを始めるぞ。これは,お前たちがもしかしたら,辿っていたかもしれない歴史だ。境界石はそれで元に戻る。」

 「セキ様——あの者が申しておるのは——

 アヤか。どうやら私たち「天」を司る者は,いな,宮の建立は間違っていたと見える。「フミ」を,宮を守ってきた,地のものも守ってきたはずだったのだが……境域の標消えしとき,地の理(ことわり)変わりぬ……

 ——どうやら,このフミ師も読み解けぬ箇所は,測量士様の顕現とこれまでの地のあり様を異にするの意だったのだ……アヤよ,境域の標が戻りし刻は,お前に代を譲り,もって新しき地の創生に励め,それが私の最後の言伝(ことづて)となろう。

 「お前の娘か。アヤと言うのか。名付けたのはお前か。面白い。言の綾,文の彩。新しい世界の象徴となろう。アヤ,お前の母親が見た第七世界は,一つの模範となる。あの世界の理が元にもどれば,の話だが。

 「地のものと共に生まれながら,共に生きていかないのは,それ自体が世界の理から外れる。当分休むつもりだから,言っておくぞ。言と文は,地のものがあって成り立つ。今ある言と文が解放されれば,沈んでいた地のものが現れる。そのときに,契約を新たに結びなおすのだ。」

 「セキ様,フミ師,オミ,符術師,卜師,それぞれ伝え記ししを持ち寄りました。——

 ……測量士様,これに集まりましてございます。

 「うん。それでは始めよう。少し離れていてくれるか。少しだけ理に干渉する。「天の司」,測りごとの間は力を使わないでくれ。理の力を借りながら,干渉するのは,息を吐きながら吸うのに似ているからな。」

 セキはその刹那,右手が冷たくなるのを覚えた。これは……また……

 測量士様,コトカタが迫っております。いかがいたしましょう。放っておけば地には傷み(いたみ)となりましょう。

 「大丈夫。「コトカタ」を待っていた。宮で開けているのは「天文丘」だったな。そちらへ案内してくれ。言と文も全部そちらへ持って行くのだ。——よし,ではここに置いてくれ。先に言った通り,少し離れてくれ。「天の司」も良いな。じっとしててくれよ。」

 セキたちは開けた蒼穹に,ふたたび巨大な伽藍が浮かんでいるのを目にした。フシたちは驚きに口を手で覆い,フミ師,卜師たちは顔を覆っている布を震わせた。符術師は赤い面の下からセキの指図を待っていた。セキはそれに気づき,首を振った。——お前たちの想いは分かる。だが,今や事は我々の手を離れてしまったのだ。

 測量士が山積みにされた言と文を少しの間見つめ,そのまま目を蒼穹の伽藍に向けた。伽藍全体を包み込むように文字(もんじ)が飛び交いはじめた。どこから文字が,とセキが振り返ると,天文丘に積み重ねられた「フミ」から,他の述べ伝えから,まるで蛹の殻を捨てる蜻蛉のように,文字が音もなく一つまた一つと翔び出てゆく。——ハッとして伽藍に目を戻すと,伽藍の下方を支えるような大気の塊が文字によって黒く染まっていく。

 ——あれは……

 「お前たちが「コトカタ」と呼ぶものだ。浮かんでいる伽藍は,あれに支えられてここまで飛んできたのだ。そうか,実体として見るのは初めてか。ならば,あれはお前たちの呼ぶ「地のもの」だと言ったら,さらに驚くかな。」

 ——なに!地のものが——

 「やはり,か。「コトカタ」は,もともとは地のものだった。それにエイたちが「コトカタ」と名を与え,それを記して封じた。その名が書かれた場所,それがあの境界石だ。ここであれを見たことがあるのは,「天の司」だけだな。そうか,やはり。あの境界石の表面に刻まれているのは模様のように見えるが,あれは「紋字」と同じく,力の封じ込めと発動に関わる。そして,その封じ込めに用いられたのが「封印玉」だ。」

 ——……ゆえに「封印玉」と……理に触れる何かしらが封じられていると見ていたが,この地のものを封じるのに用いたか。もって封印玉と名を与え,我々がかつて作りし則(のり)に触れる忌としたのか……これも測量士の言われる「言」と「文」の縛りか……

 「そうだ。もはやお前たちの規則は,「この地の理」と思えるほど強固なものになっている。だが,その強固さが,返って理に反することとなり,境界石の喪失,つまり,コトカタの解放,ひいては地のものの解放につながることとなった。では書き換えるぞ。アヤとやら,お前の母まで受け継がれた「歴史」の一つの形を覚えておけよ。」

 アヤ,お前は——測量士の解きに肯(がえ)んずるのか……そうか,この地の,これまでのあり様は私の代までだな……

 測量士が文字で包まれたコトカタ,いな,地のものへ眼(まなこ)をそそぐ,そして,あれは中心丘を見遣るか。宮が揺れてきた。降るのだな。——天(あま)の司(つかさ),地より離れ,天(あま)に土なせり。これもて,この地,蒼穹に宮(みや)を抱けり。——「フミ」の創生語(かたり)か。アヤの世には別の語(かたり)が紡がれよう。

 セキはまだ血の滴るのもそのまま,両手を縄文杉の板についてうなだれた。

糸巻コト

 その門をくぐるのは二度目だった。一度目のときに期待していた桜は,遅くまで居座った寒波のせいで,満開とはいかなかったのだった。——写真を撮ったのはあの辺りか。入学してから,あいつはよく帰省したものだ。正月,ゴールデンウィーク,お盆。いつ頃からだろう,帰省はおろか,連絡をしても出ず,荷物を送っても返送し始めたのは。

 自分が卒業した地方の総合大学に比べると, この大学の敷地は「こじんまり」している。昔病院だったのを改築したとかいう噂は,あいつが五月に帰省したときに口にしたことだったか。建物の密集具合は,たしかにそう思えなくもないな。共同研究室。懐かしい響きだ。「人文棟」の,あれの三階か。

 コンクリート打ちっ放しの建物の,入ってすぐ横に事務室があった。照会は正門で済ませていたので,ここでは用意された名札を渡されただけだった。名札を手にした事務員が,申し訳なさそうな表情で会釈した。その表情はここ一ヶ月以上,誰彼なく自分に見せたものだった。親族,警察,地域の住民,そして大学関係者。ノックして開けた三階の共同研究室は,自分の想像していたものよりもずっと清潔で空気が綺麗だった。

 「初めまして。ゼミを担当していた——している伸野と申します。この度は——」

 入り口で出迎えたのは,白髪の混じる,だが日焼けした顔は精悍な印象を与える男性だった。「この度は」——そうだ,あの表情,そしてこのフレーズ。悪気はない,いや,それどころか労り(いたわり)の言葉なのだが,釈然としない自分がいる。

 「私からお話できることをお伝えしても良いのですが,最近の学生さんは教員よりも先輩や友人と親しくしているものでして。飲み会を催すなどして何かと話す機会は設けているのですが,それにも参加しない学生さんが多く——」

 伸野という先生の主張は,つまるところ「友人や知人」の方が事情により詳しいのでは,ということらしい。自分たちの世代は,金がなくなっては教員をつかまえて「たかって」いたものだ。二十年も経つといろいろ変わる。ただ,そそくさとドアの外に消えた伸野の言い方は,自らの監督不行き届きではないと念を押すようにも感じられた。

 八畳くらいの縦長の空間の手前に白いテーブルがいくつか組み合わされている。それを取り囲むように四人ほど学生が座ってこちらを見ている。——この「先輩や友人」に知っていることを尋ねる,ということか。——みなさん,申し訳ありません,私どもも今回の件についてはまったく心当たりがなくて。警察には届け出ましたが,どうやら捜査は難しいようです。それでも自分たちでできることをと思い——

 「いえ,お話できることはすべてお話します,それでお役に立てるのでしたら。」静井です,と名乗った修士課程二回生の男子学生が切り出した。「みんなも,ね」と落ち着いて,他の者に促す口調からして,この中では年長者なのだろう。

 ありがとうございます。よろしくお願いします。ふだんの生活も把握していなかったものですから。あいつが,いえ,コトがどんな風にここで過ごしていたかだけでも分かると——

 「ぼくは学年的には彼の三つ上に当たります。学部生ではありませんから,今は修士論文に集中していまして,研究室に寄った時に挨拶を交わす程度です。ただ,一年前に勉強会をしたときは,話しをする機会がありました。」

 静井によると,あいつは同じ学科の学生とは少し変わった考え方をしていたという。勉強会で「ポリフォニー」という「一つの観点からではなくて,いろいろな側面から別の媒体で記録しようとする」——そう静井は説明した——学問用語を扱った会で,あいつは会の前提を否定するように,誰がどこから話しても「変わらない側面」があるのではと発言したそうだ。

 「このポリフォニーは記述対象を一元的な語りの力に委ねない,というこの学問の要諦——すみません,要はいろいろな側面から見ないと,社会や文化はきちんと書けないということです。それなのに彼は,本当に重大なことは,一つの圧倒的な側面しか持たない,と反論したんです。たしかに,ポリフォニーの手法はこの学問を批判する意味で,根底から揺るがしましたが——」

 あいつは頑固なところがありましたから,先輩に反論するとは,ご迷惑をおかけしたみたいですね。——幼い頃から何かにつけ自己主張が強かった。祖父もそうだったので,家系かと半ば諦めていた。大学に入ってからは,自分たち夫婦にはあまり見せなかったので,ようやく大人になったのものだと思っていたが,先輩に噛みつくとは。

 「いえ,そうではないんです。ぼくもその会の間は,ポリフォニーの重要性を理解していないのに,それに気づかずに反論したと思っていました。会の後に呑み行った先で,ぼくのところへ来て言ったんです,「先輩,ポリフォニーの重要性は分かっています。『ドストエフスキー詩学』は読んでいましたし。ですが,ぼくは思うんです。情報の提供者を変えても,変わらないような圧倒的な事実もあると。むしろその変わらなさに圧倒されるような事実が——」

 何かを書き記す一人の人物。その人の書いたことを補うような側面ではなくて,確認すれば確認するほど圧倒的になる事実。あいつは一体何を言ってるのか。静井の話の理屈は何となく分かる。代議士がテレビで発言した内容が,別の代議士たちの証言や資料によって補足されるようなもの。だが,あいつの「圧倒的な事実」というのは,分からない。

 「静井さんはああ言っていますが,ぼくの印象では,二回生のときはふつうに専攻の科目に打ち込んでいましたよ。学問史を扱う授業で取り上げられた著書とかには一通り目を通そうとするので,二回生なのにずいぶん真面目だなと思っていました。他の必修科目でも質問もたくさん受けましたし。」

 修士一回生の鴻巣という学生は,あいつがここに頻繁に出入りしていて,他に趣味はないのかと思うくらい熱心に勉強していた,と話した。これには他の学生もうなずいていた。意外だった。帰省しているときに,あいつが勉強している姿を見たことはない。少し時間をかけて朝刊を読む他は,自分についてきて野良仕事を手伝うか,母親の料理を手伝うか——そう言えば,野良作業や手伝いを嫌がった高校時代までとは人が変わったようだった——

 「三回生の後半じゃないですかね,静井さん。あ,静井さんは修論の準備で忙しかったんでした。ぼくもその頃は卒論に追われていたので詳しくはないのですが,雰囲気が変わったなと久しぶりに会って思いました。のめり込むような感じではなかったです。ここの学部では二回生で専攻を選ぶので,最初は興味があったのが,もしかしたら合わないと思うようになったのかもしれません。」

 鴻巣の話には自分にも思い当たるところがあった。教育の職に就きたくて苦虫を噛むように,現場とかけ離れた教職課程を修めた。だが,準備万端で向かった実習先で,よりによって当の現場で,自分の思い描いていた教育が甘い理想に過ぎなかったことを実感させられた。子どもたち一人一人に分け隔てなく接する,そんなこと自分にはできなかったのだ。お前もだったのか——

 「私は一つ下でしたので,鴻巣先輩の仰っていることは,少し分かります。私が二回生になったとき,人生初めての専門科目がすごく不安でした。一回生のときは共通教養科目と第二外国語ばかりでしたから,二回生になってシラバスを読んで,難しい言葉が並んでいるのを見て,これ自分にできるのかなと。でも,先輩が大丈夫,きちんと授業に出て教科書を読んでいれば分かるから,とアドバイスしてくれて——」

 先の二人の男子学生とは異なり,こちらに同情するような,いや,あいつの身を案じるような感じで,学部三回生の女子学生の進藤は付け加えた。短い言葉だったが,その口調からあいつが親身になったことがうかがえた——たしかに,あいつは妹想いだった。嫌な顔ひとつせず,読書感想文の添削をしてやったり,夏休みには自由研究を手伝ってやったりしていた。その妹とも同じ頃から音信不通だった。親を嫌うでも,妹を嫌うでもなかったはずだが——

 「でも,先輩,三回生の夏季休暇明けぐらいから,どこか近寄りがたい感じになったんです。話しかけにくいような空気というか,春学期はすごく親身になってくれたのに,何があったんだろうとは思っていました。同じ授業を受けていても,前だったら理詰めで,聞いていてすごいなあと思う意見を言われていましたが,先生から指名されても,どこかぼんやりされていて——」

 すみません,お話をうかがっていて,勉強や授業の態度はよく分かりました。ふだんの生活ではどうだったのでしょうか。たしかに勉強や授業もふだんの生活の一部ですが,大学の外ではどうだったのでしょう。先ほどもお伝えしたように,親ながら全然把握していなかったものですから。もしご存知でしたら,どうかお願いします。

 「ぼくはさっきお話したように,挨拶程度でしたし——」静井は問いかけるように語尾をのばしながら,一人ひとりの反応を目で追っていたが,その目をそれぞれがタスキでつなぐように一人また一人と回していった。最後にその目を受けた女性は困ったように下を向いた。

 どうやらあいつの私生活の面は,ここにいる先輩も後輩も知らないものと見える。やはり予定通りに下宿先を訪ねてみないと,あいつの大学以外の日常生活は見えてこないようだ。ひとまず,ここは辞してそちらへ向かおう。

 最後の質問に気まずくなったのか,静井が研究室を代表するように,「お役に立てずに申し訳ありませんでした。正直に申し上げますと,ぼくらは彼の大学での,それも勉強面でのことしか見てなかったような気がしました。今回の件がそれに関係あるのか分かりませんが,もし彼が何かに悩んでいたとしたら,それを把握しておくべきだったと思います。調査地で彼は——」

 無言で首を振って続く言葉を遮った。あなたたちに責任はない,と言いたかったが,やはりこれも釈然としなかった。今回はわざわざ本当にありがとうございました。自分どもも知らなかった面が知れて良かったです。深く会釈しながら,ただそう伝えるにとどめた。

 共同研究室を後手で閉め,ゆっくり階段を降りようとしていると「あの,すみません」と頭上で声がした。見上げると,あの最後に俯いた女子学生の顔が手すりから覗いていた。こちらが「なんでしょう」と尋ねる前に,その学生は駆け足で階段をこちらへと降りてきた。

 「あの,すみません,糸巻くんのことで,私,お父様にお話ししておかないといけないことがあるのです。あ,私は糸巻くんと同じ回生の大伴と言います。もしよろしければ,少しだけお時間いただけないでしょうか。ほんの少しで構いません。」——

 大伴という学生を前に,「フォワイエ」という大学内にある「カフェ」でコーヒーを飲んでいる。自分の学生の頃は,こうしたお洒落な喫茶室は構内になかった。間接照明にモダンジャズ。コーヒーカップも手作りの陶器のようだ。しかし,この学生,呼び止めたのは良いが,それから一言も話さない。どうしたのだろう。

 「お父様,糸巻くんに,彼女がいたこと,ご存知ですか?」

 彼女?高校時代に家に一度連れてきた沢木とかいう娘(こ)のことなら,知っていますが。」——

 「いえ,その沢木さんとは大学に入ってから別れたそうです。その後に付き合った陳(ちん)さんという方です。ここの交換留学生で,二回生の頃からお付き合いされていました。私も何度か一緒にご飯を食べに行ったりしたことがあります。日本語が上手で,三人のときは日本語を使っていました。」

 そうだったんですか。台湾の女性と。いえ,まったく知りませんでした。その陳さんという方がどうかしたんですか?——あいつの彼女。今回の件とは関係なさそうだが。まさか黙って台湾に行っているなどと言うのはあるまい。もしそうなら,完全に「一般家出人」だ。捜査は行われない——

 「昨年,台湾で起きた台湾大震災,「921大震災」とか「集集大震災」と呼ばれた震災をご存知ですよね。あの震災が起きた時,糸巻くん,台北にいたんです。」

 ——一瞬,いや,もう少しの間,言葉を失った。あいつが,あの大震災,あのビルがいたるところで倒壊する映像が流れた,あの震災に遭っていた……何も聞いていない,いや,すでにその頃には連絡が途絶えていた——あの,あいつは,あいつは無事だったのですか?

 「はい,彼女の家で被災したようですが,マンションは倒壊どころか,ヒビ程度で済んだようです。ただ……」大伴は顔を曇らせた。

 ただ,何でしょうか?怪我をしたとか,最近よく言われるPTSDとかですか?——思わず強い口調で尋ねてしまった。

 「先ほど,研究室で鴻巣さんと進藤さんが言っていた,糸巻くんが「変わった」のは,その後なんです……陳さんともあまり一緒にいなくなって,あるとき理由をきいてみたら「自分と他の人が,境界線のようなもので区分されていることがようやくわかった」みたいな,よく分からないことを言い出して……

 「それから一ヶ月くらい経って,陳さんと別れたと糸巻くんが授業終わりに教えてくれたので,励まそうと思ってご飯に誘ったんです。そうしたら,それなら呑みに行こうって——糸巻くん,お酒は強くなかったので,驚きました。でも,それで気が晴れるならと……

 「呑んでてもずっと無口で。やっぱり別れたのが辛かったのかと思っていたんです。それが,突然,自分は故郷喪失者だ,って大きな声で。びっくりしました。酔っ払ったのかなと思いました。でも,糸巻くん,なんか外国の小説から「故郷喪失者のタイプ」を抜き出して,それにも自分は当てはまらない,みたいな,よく分からない話をし始めたんです。それからです,みんなが言う「変わった」糸巻くんになったのは。」——

 コトは,自分の知らない間に台湾に行き,震災に遭い,彼女と別れ,「故郷喪失者」などと言い始めた。そして,それがコトを「変えた」。一連の出来事はつながりがあるのかもしれない。しかし,冷静に考えると,それが今回の件を引き起こした原因だとは考えにくい。大伴という学生の話にしたところで,それが「きっかけ」だとは思えない。コトの部屋を見回しながら,先ほどまでのことを思い返していた。

 と,六畳間の古い一室の右隅にある机の脇にメモ用紙が挟まれているのに気づいた。その紙面を見て,糸巻コトの父親はますます息子の「行方不明」の原因が分からなくなった。そこには,きちんとした字で次のように書かれていた。

 ——台湾の震災は一つのきっかけにすぎない。自分と居た場所を

   思い巡らすと,ぼくは,結局どこにも属していなかったのだ

   と感じざるを得ない。属す場所,居るべき場所を故郷と呼ぶ

   なら,ぼくには故郷が無い。いや,故郷はあった。とすれば,

   ぼくは故郷を失くしたのだろう。それなのに,どうして故郷

   を懐かしんだり,失くしたことを悲しんだりしないのだろう。

   故郷喪失者のほとんどは,故郷に想いを馳せるものだ。なら

   ば,ぼくはどのような故郷喪失者なのだろう。ぼくは父も母

   も,妹も故郷もろとも失った。それなのに,それなのになぜ——

 沢木の別れ際の「失礼な」言葉を思い出していた。

 「糸巻くんはあれから,虚ろで,なんか無機物のような感じになりました。こんな言葉,許してください。私,糸巻くんのこと好きだったから,本当はすごくショックだったんです。でも,糸巻くんは,「自分からいなくなってしまった」ような気がしています。故郷だけでなく,自分も喪失したような——

測りごと

 ——方位を読み,風を読む,これオミの生業なり

 方位を読み,風を読むとは,地の働きを読むの意なり——

 卜師に示された方角を失わぬよう,オミのシは揺れ動く方向鉄(がね)の粒を常に感覚で追っていた。風は鉄粒が集まるのと真逆から吹いている。シの父ケンの教え通りだった。ケンの代には地に降りた者はなかった。ケンは「地の書」の読み解きと,自らの父の経験の継承を引き受けた。地に降りた今,シは父の言葉を思う。

 「祖父ソウは,セキ様の祖母君の在世に,オミの継承を確かめるため,また,必要ならば継承を改めるため,地に遣わされた。ソウの祖父の代も同じであったという。ゆえに,お前の代に再び地に遣わされることとなろう。」

 ——地の働きを読むとは,その働きに感応するの意なり,

   働きに感応する,これをもて地を往く法となせり——

 地は宮の土とはまるで異なっていた。自らの脚とそれを繰り出して歩む土の固い感触はなく,まるで綿毛の上を歩けばそのような感じになるかのような柔らかさであった。降りたときについ何時もの歩みを行いそうになったシは,あやうく地の底に堕ちるところであった。宮の感覚はここでは役に立たぬ。地の働きに合わせなければ,退きも進みもしない。

 「「地の書」は地の成り立ちを記した箇所と,地の往き方を説いた箇所から成る。成り立ちは「フミ」の「地史」に通ずるところが多い。地そのものにまつわる伝承をフミ師と分かち合ったものだ。地の往き方は唯一地に降りたオミの継承からから成る。よって,お前はオミとして地の往き方をまずは心にとめよ。」

 方向鉄は宮の宝物(ほうもつ)でもあった。ふだんは替わりに方位石を用いた。方向鉄ほどではないが,心に念じるものの場をおおまかに指した。その場を感得するよう努める。卜師が十干に解き写すのと違い,オミは自らの感覚に位を定める。風の読み解きは,容易い季の節目からはじめ,やがて練じては日々の微風に移った。足の感覚を虚にし,二つの読み解きによって地と感応する。すると,宮を飛ぶ羽虫のように音もなく位置を変えられた。

 しかし,地のものとは。「地の書」は伝える。

 ——地のもの,地から生まれしゆえに地のものと云うなり。

   地から生まれしとは,地を受け継ぐの意なり。

   地を受け継ぐとは,地を代々(よよ)に守りし意なり。

   地を守りし意,これ地のものの根本なり。——

 父ケンの継承にも地のものは曖昧模糊としていた。フミ師と分かち合った「地史」にのみ文言が見え,「地の書」が説くオミの継承では一切触れられていないのが原因だとケンは言った。

 「祖父ソウもその祖父の代も,地のものには遭わないと聞く。その在りし様はお前も読み解いたように,「地史」にあるこの述べ伝えのみ。これとて「フミ」編まれし刻に記されたものとて,神代(かみよ)の,他の地との融合生成に際しての伝えかもしれぬ。宮の建立と同じく,オミである我々には触れてはならぬ忌なのかもしれぬ。」

 しかし,シはその述べ伝えが気にかかる。自らが,父の予め言(あらかじめごと)と違いたにもかかわらず,地に降りたからではない。セキ様が宮から地のものを「お守りになられている」ことを,地のものを慮っていらっしゃるのを知っているからなのだ。地のものが地を守るのではないのか,では宮は——おそらく,この質し(ただし)が父の口にした「触れてはならぬ忌」なのだろう。

 卜師の「壬(じん)と癸(き)の間,水の方角」は間近い。方位と風を読んで少し往きを緩める。その刹那,手にしていた重ね卍の笏が激しく振動しはじめた。この兆しは——コトカタの置換によるものか——風に混じって水の感覚が漂う。これは——シの感覚の先に,宮の瑞泉などとははるかにかけ離れた水の大きな帯が開けた。

 ——広大無辺の地にありて,地を断つ水,これカイと云うなり。

   カイとは,ことごとに変じる水の意なり。

   ことごとに変じる水とは,方位と風の働きに感応せし水の意なり。

   ゆえに,水にありて地の働きと同じなり。——

 これまた,くだんの地のものと同じく,オミであった父ケンの継承の異ざまな箇所にして, 「オミの継承と重なる」「地史」の箇所である。感応と働きはオミにのみ述べ伝えられた往く法に関わる。だから,「地史」のみ分かち合ったフミ師には読み解けぬ箇所であり,「地史」と継承を伝えるオミには「如何様に解くべきか」判じ得ない箇所なのだ。

 地の働きと相同と解くならば,方位と風の読みにて往くことが叶う。しかし,地が「ことごとく変じる」とは「地の書」には述べ伝えられていない——

 方向鉄ははっきりと「水の先」を示している。風の読みも真後ろに感じている。先へ往けということか。だとすると,代々のオミの足跡ない地に往くことになる。それで良いのか。「ことごとく変じる」のに感応できるのだろうか。シは自らに質す。そのとき——

 「使いか。どうした。この水が恐ろしいか。そうか。使いが恐れてどうする。それでは使いにならないだろう。言(こと)に文(ふみ),自分たちが作ったものに縛られるとは。それは捧げ物か。「焚物」と言ったかな。いつ振りかな。地に降りてずいぶん経つからな。」

 まさか,宮でのように音(ね)が透き通っている。感覚の衡(はかり)が感じられない。方位も風も往きに与らないのか。加うるに眼(まなこ)で見るようにこちらの持しものが判るなど。そんなことが——

 「あるんだな。これが。一応,これでも理に関わってきたからな。お前たちが「宮」という空間と同じように,いや,ちょっと違うな。もっと自由にできるからな。おい,お使いさん,お前が怖いならこちらから「往く」か?動くなよ。お前の体が二つになってしまうからな。よいしょ,と。」

 その音(ね)はこちらの念まで判っているとシが思ったときには,シは知らぬ間に「そちら」に居た。自ら水の,あのカイの上を往ったのだろうか。方位も風も読んではおらぬのに。「ことごとく変ずる」感覚もなかった。だが,方向鉄の粒は真ん中で静止している。ということは,やはり——

 「いや,違うな。測ったんだよ。ちょいとな。ああ,「宮」のお偉いさんが「測りごと」と言ってただろう。それだよ。まあ,もう失われてだいぶ経つから,誰も覚えてないだろうけどな。お使いさん,道中は短いから,先に説明しておいてやる。これはな,単に物と物の距離を測るだけじゃないんだ。すべての事象を測る。——

 言葉じゃ伝えにくいが,もともと「はかる」というのは,「測る」だけじゃなくて,「計る」「図る」「量る」にも,さらに,「謀る」や「諮る」,「察る」にも通ずる。まあ,言ってしまえば何でもできる。だから,こうやってお使いさんとこちらの距離を「計って/謀って」縮めた訳さ。少しだけ空間をひっつけるから,お使いさんが動いたら空間にはさまれて真っ二つ。

 これくらならまあ良いが,たとえばお使いさんが気になっている「地のもの」を喚び出すとか,地を土に変えるなんてことはやってはいけない。まあ,何でもできると言っても,それも理に干渉しない程度だな。」

 それでは——貴方が「彼の者」,測量士様でございますか。

 「うん。そう。事情は知っている。ちょっとややこしいことになってるな。本当ならこっちからさっと行ってやりたかったんだけど,この世界での規則は「お使いを待つ」ことに定められていて,動けなかったんだ。動くと理に干渉してしまうしな。という訳で,急ぐか。平行世界にこれ以上混乱を招く前に。」

 

境界石

 測量士を,測量士を早く呼ばなくては。

 宮(みや)の中心丘に立って,どす黒い,底の知れない虚ろを見下ろしながら,セキは焦っていた。このままでは,どこに歪(ひず)みが生じるか,知れたことではない。

 「フミ」が教えるところでは,このようなことはかつて起きたためしがない。だから測量士を呼ばないと。だが,測量士が来たのは,「フミ」が編まれたときだけと聞く。どうしたものか。

 「セキ様,地のものが騒いでおります。黒点が現れたと……」フシの一人が,セキを探して宮を走ったものと見え,息を切らせて伝える。セキは振り返らずに背中で聞く。

 黒点!まずい,すでにコトカタに置換が起きたか。となると,間もなく水が火になり,火が水となろう。土が木となり,木が土になる。地はどよめき,天はうなろう,そうなれば……

 フミ師を呼べ,なるべく多く。火急の用だ。

 フシがその言葉にうなずき,すぐに下がった。セキは中心丘から天文丘へと向かった。

 「フミ」が編まれたときに立ち会われたということは,どこかに足跡を残されているはず。別の地であれば……いや,「フミ」の言葉が先だ−−−−今はそれしか頼る術はあるまい。

 開けた天文丘に出ると,蒼穹に黒い芥子粒が浮かんでいた。吉凶の印,これ黒点にて,他にあらず−−−−コトカタ,転じて,理(ことわり)を変えぬ−−−−まさか,私の在世に生じようとは。−−−−この足の音(ね)は,アヤか−−−−

 「セキ様,お宮の瑞泉に植えた水華が燃えております。黒点も出ておりますし,これは……」

 幼いながら,感じるところがあるのだろう。まだ「フミ」も読んでいないのに。セキはこれから我が娘に係る不憫さを想う。

 アヤ,いいか,宮にはさまざまな異変が起きよう。お前はそれをすべて眼(まなこ)におさめるのだ。理が命じるならば,いずれ語り聞かせになる刻も来よう。−−−−お前の代まで地がもてば,の話だが。誰か,フシはおらぬか。

 「セキ様,ここに。」アヤを追いかけて来たのだろう,フシの一人がすぐに応えた。

 アヤを事変(ことがわり)の間へ。そちらでフミ師の近くへ座らせておいてくれ,一人フシをつけて。

 「畏まりました−−−−

 「セキ様は……

 すぐ参る。しばし黒点の動きを見ておく。行け。アヤがためらうような足遣いをするのを,縄文杉の張り床の軋みで感じる。アヤ,今は堪えねばならない。宮が毀(こぼ)たれようとも,円環は決して欠けてはならぬのだ。

 芥子粒は上下に浮遊していたが,やがて雨粒のように地に降り始めた。セキがそれを眼で追って,宮の遥か下方を見やると,黒点の落ちた箇所が黒い炎を上げた。このままでは地のものが−−−−

 両手を赤装束から差し出して交差させ,天にかざした。広大無辺の地がどくりと脈打った。あちこちの黒炎が,透明な渦のなかに吸い込まれていく。しばらくして,セキが腕を下ろすと,左右それぞれの手の甲に左卍と右卍の傷が現れていた。血が滴っている。

 まずはこれで−−−−だが,これも刻を待つまい。フミ師の解き読みを急がせなければ。セキは滴る血もそのままに,事変の間へと足を向けた。

 朱に塗られた事変の間では,「解」の字の顔掛けをつけたフミ師たちが,白帷子の姿で,各々「フミ」を繙いていた。異変とセキの命でそれと悟ったのだろう,示し合わせたように「フミ」の詩史の箇所を読んでいた。

 どうだ,測量士の足跡は記されているか−−−−セキの声に一人のフミ師が応えた。

 「測量士様の足跡そのものは見当たりませんが,足跡に関わると思しき箇所が−−−−」解いてみよ。

 「八世界を束ねし理より遣わされし者,この地に入らんとせし。されど,三度(みたび)標を見失いしゆえ,境域に標を打ち立て,もって名を与えん−−−−」

 測量士だ。やはりあの方が境域に−−−−間違いない。続けよ,足跡に関わる箇所を解くのだ。

 「−−−−彼の者,「フミ」を見届けしのち,地へと下りぬ−−−−ここで終わっております。」

 何,地へ降りただと。測りごとを終えてこの地に住み着いた。まさか探すあてが「ここに」あろうとは−−−−苦労であった。お前たちは,この事変の間にて黒点とコトカタについて読み解け。誰かオミと卜師(ぼくし)を呼べ。方向鉄(がね)と焚物(たくもつ)をこれに。

 「セキ様−−−−アヤはどうすれば宜しゅうございますか−−−−」

 アヤ,お前はフミ師の読み解きを白布に記せ。文字(もんじ)の判るフシに副手(そえで)を命じておく。−−−−まさか,この刻に「フミ」の読み解きを始めさせることになろうとは。平時に自ら手ほどきをしてやりたかったが。

 「セキ様,オミ,参りました。支度はできております。」萌黄色の束帯に卍を重ねた笏を持ったオミが控えた。その脇に控えるのは卜師。フシが方向鉄と焚物をオミに与えた。

 地に測りごとを生業とされる測量士がいる。お前は地に下りて,彼の者を探し,焚物を捧げて宮へご来光願う旨申し上げるのだ。方角はいかに出ておる?

 「壬(じん)と癸(き)の間(ま),水の方角にございます。」白い丸の字の描かれた黒頭巾の卜師が答えた。

 壬と癸の間。測量士はすでにこれを予測されていたのか。卜師の言葉にセキは一筋の光明を見出した。オミよ,急いで彼の者を。頼んだぞ。オミが朱塗りの間を後にするのを見届けると,セキは宮の様を把握すべく,フシたちそれぞれに見回りを命じた。

 「セキ様,手から血が−−−−

 アヤ,心配せずとも良い。薬師に煎じ膏を−−−−いや,これは後で良い。天易丘へ行く。封印玉をこれへ。

 「セキ様,封印玉は−−−−

 判っておる。他の地の様子を探るだけだ。封印そのものは用いん。−−−−封印を用いれば,円環が欠ける恐れがある。それだけは何としても避ける。セキは心で念じた。

 さまざまな吉祥の印が浮かんでは消える封印玉が,フシたちによって運ばれてきた。これを使う日が来ようとは−−−−セキは母コウの戒めを思い出していた。

 「良いか,セキよ。封印玉は並ぶ他の地を望見するだけでなく,他の地の理に働きかける。それが吉兆いずれであっても,他の地への働きかけに相違はない。他の地とは「創破創」の円環の理を共にしておる。一度(ひとたび)円環が欠ければ,地はすべて−−−−」

 判っております,お母様。境域の標無き今,他の地との端境が侵されています。望見することのみお許しください。−−−−封印玉を持て,私に続け。セキは事変の間から下へ降り,天易丘を目指した。

 蒼白の空間に梵字が浮かんでいる。フシたちに封印玉を持ち込ませると,自分を残して門を閉めるようセキは言いつけた。一人になると,左手をかざして「マン」の文字を引き寄せた。それを封印玉の「卯」が浮かんだ箇所にゆっくりと押し当てた。金色(こんじき)の光が溢れ,蒼白の空間を染めた。

 音のない風がセキを包み込み,封印玉を見つめる顔を一面翡翠色にした。−−−−第七の地に異変が生じていた。門が別の門とつながり,空間の歪みが生じていた。この地は−−−−歪みは特異点を生み出しはじめていた。コトカタの置換がこちらでも生じている。しかし,これは−−−−地が地のものを呑むというのか,そのようなことなど−−−−やはり,境域の標か−−−−測量士−−−−

 封印玉は次第に光を弱め,文字の浮かんでは消える玉に戻った。この地でのコトカタは−−−−目にした影を思いながらセキがつぶやいたとき,右手が冷たい気に触れた−−−−まずい,こちらでもコトカタが−−−−それも宮に−−−−セキは門を開け放つと,控えていたフシに封印玉を任せた。−−−−私は正大門へ向かう,符術師たちにそちらへ征くよう伝えよ。

 聖七守護者の紋字が浮き彫りされている青銅色の大扉。セキは右手の冷ややかな感覚をその前で探っていた。蒼穹か−−−−扉の上,切妻になった箇所に気配を察した。−−−−あれは,伽藍か,コトカタの置換によるものと見た−−−−扉に劣らぬ巨大な伽藍が逆さまに浮いていた。こちらへとゆっくりと動いている。

 「セキ様,符術師集,揃っております−−−−

 私の印に合わせて,「サク」の符を落とせ,良いな。右卍と左卍の刻まれた赤い面を被った符術師集が御意とうなずく。セキは,先ほどの傷も癒えない両手を赤装束から出して,手の平で小さな鞠を抱えるような構えをした。大気が水流と化して,その両手の間に回りから入って行く。今だ,符を。

 符術師集はそれを合図に,「サク」の符を手から落とした。セキは「午到りて,三千世界を揺るがせん」と唱えると同時に,両手に集まった大気を足元向けて放った。と,その刹那,辺りは無音となった。大扉がまず波打ち,そのままその波が伽藍を打った。蒼穹に浮かんでいた伽藍は,その波に押されて「上へ落ちて行った」。

 「セキ様,あれは−−−−

 コトカタの置換によるものだ。地のものたちが呑まれてなければ良いが−−−−第七の地では地のものたちが呑み込まれていた。いずれはこの地も−−−−早く測量士に来てもらわねば。セキは,手の平に浮かんだ第七守護者の赤い紋字を見つめながら,一人つぶやいた。

失う

 まっすぐに歩いていたはずだ。それなのに戻れない。

 

 いざとなればと考えて,アメリカのグリーンカードを取得しようとする人が多いんです。

 『プライベート・ライアン』を観る前に,彼女は非難を込めて言った。当時は台湾海峡の軍事的緊張が高まっていた時期だった。ぼくは彼女の関心を買いたくて,

 「いざとなれば,ぼくでも戦うよ。」と砂の上の城のような,まったく根拠を欠いた言葉を伝えた。

 彼女は,映画を観てから同じこと言ってくれる,ため息を一つついた。

 冒頭のノルマンディー上陸作戦の場面は,ぼくが作った城をものの見事に粉砕した。映画が終わってぼくは彼女に謝罪した。

 それから数年後に,ぼくは台北で集集大震災に遭った。地盤が固かったのか,彼女の家は,大きく揺れるのと,電気が止まる「だけで」,倒壊は免れた。

 「いざとなれば,あなたは日本に帰れるものね。」と,ロウソクの炎に照らされた居間で,圧しかかる心労が家族の口を勝手に拝借した。

 ぼくのように故郷を失った人間は,おそらく二つの考え方をする。一つが,なぜその場所にしがみつくのか分からない,というもの。

 もう一つが,しがみつく場所があって羨ましい,というものだ。

 ぼくは前者だ。それが自然が彫り込んだ刺青のように取れないのを知った頃には,彼女のかつての言葉は違った響きを持ち始めた。

 いざとなればと考えて,アメリカのグリーンカードを取得しようとする人が多いんです。

 チェルノブイリ近郊に戻る住民と,チェルノブイリを離れて,チェルノブイリを想う住民は,この分類には当てはまらない。どちらも,あの未曾有の災害があった場所にしがみついているからだ。

 「ここでしか生きていけないんだよ。もう二人とも歳だよ,このままここに埋まるさ。」老夫婦は歌うように言った。

 「チェルノブイリはまるで夢のような街でした。あそこでは何でも揃いました。」大きなサングラスを画面に向けた夫人の声が訳された。

 ぼくのような故郷喪失者は,高校生で読んだ『アメリカ』のロスマンや『果てしなき逃走』のトゥンダに似ていなくもない。

 似ていなくもないのは,二人とも喪失を自分で選んだのではないからだ。チェルノブイリの住民もそうだ。ぼくは違う。

 奥早村をフィールドワークの対象に選んだのは,つまり,故郷喪失のもう一つの側面を掘り下げる目的からだった。自分という不可解な喪失者。

 事前調査の段階で,報道を通じて知っていた事実以上に,この地が災害の過去を抱えているのが分かった。古くは江戸時代の飢饉,新しくは先日の土石流,地震も頻繁に起きていた。

 数少ない論文は,壊滅を被った共同体がなんども立ち上がった歴史を,無感動な筆使いで記していた。そして,どうしてなんども立ち上がったかについては,無関心を決め込んでいた。

 「これ程までに天災を経験した土地は,地震大国の我が国といえども,早々見当たらない。だが,真に驚くべきは,天災の度毎に「生き抜いた」住民が一丸となり,村落共同体を立て直した事実である。1792年の震災では……。」

 ぼくは考えてみたりする。住民が残りたいと思ったのか,土地が住民を縛っていたのか。住民が土地に縛られたいと思ったのか。土地が住民に縛られていたのか。

 ともあれ,参与観察するには奥早村の「特権的語り手」を見出す他ない。

 「村長?ああ,連絡してあげても良いけど,天災の記憶なんて論文のテーマとしてどうかな?奥早だったら,里山でやった方が良いんじゃない?」

 ゼミの教授のイメージに従えば,そうした過去を語る語り部は,全国的に「博物館行き」になっている。奥早のような小規模の村落では,村史が編まれることも稀だ。仮に存在しても,絶え間なく続く災害ですでに失われているかもしれない。よって目下流行の里山でアプローチせよ。

 専攻しているわりに分からないのは,ひとえに不勉強の産物だ。社会人類学文化人類学と異なる。そして,人類学はさらに異なる。

 文化人類学の手法により社会の構成を明らかにするのと,人類を知るために霊長類を扱うのとを違いとすれば,では文化人類学とは。社会ではなく文化が対象?マリノフスキーだって「集団」を扱ったじゃないか。

 学問は難しい。文化人類学のゼミに入った知人は,タイの医療をテーマに選んだ。「医療人類学って言うんだ」。これでは混乱するばかりだ。

 所属するゼミの名称が何であれ,ぼくが解明したいのは,里山でも,社会でも,ましてやタイの医療でもない。自らの故郷喪失性,それだけだ。

 「最初は,数日で良い。まずは人と触れ合うこと,きちんと立場を説明すること。そうそう,マッピングすること。相手がタバコを吸えば,タバコを吸い,酒を飲めば,酒を飲むこと。」

 先輩のフィールドワーク入門の「いろは」。要は,郷に入っては郷に従うですね。

 「まあ,後半部分はそういうことだ。イトマキ,地図はとくにマストアイテムだからな。よく忘れる奴いるんだよ,ネットじゃ手に入らないから,中間発表でひどい目にあう。」

 奥早村のバス停は,村の中心部からずいぶん離れていた。原則的に,村落は昔の街道などに合わせて形成され,その街道が舗装される。

 だが,奥早は災害のたびに道が新たにされ,最終的に「一番安全な道」が舗装されて残ったのだろう。村と離れたのは,都市部と違って,震災のダメージが不均等に吹き出したからだろう。

 これは地図を作成するのに骨が折れそうだ。

 村の入り口の目印だろうか,右に折れる道路の端に鳥居のようなものが建っていた。全体的に色が黒ずんでいて判別はできないが,細かい模様が全体に彫られている。

 周りが微妙な丈の草で囲まれているので,放置されていると思えなくもない。

 写真を撮っていると,「かれてご」を背負ったおばあさんが通りかかった。白い頭巾で顔がよく見えない。折口村長の家を尋ねた。

 「申野先生からご連絡を受けております。奥早を例にして,里山について調査されるとのことでしたね。」

 どうやら申野先生は思いの外自己主張が激しいらしい。ええ,里山の「歴史的」経緯を調べたいと思っております。最初に村長さんにお話をうかがいたいのですが,ご都合の方は……

 折口村長は調査期間をきいて,そんなに短期間であるなら,今日これからでも質問に答えるが,とにこやかに協力する旨を告げた。

 そうだ,取り掛かりは「ご親切な」申野先生のテーマで構わない。そこからどのように話の筋を導くか。

 一般に里山というと,いま現在の生態系とそれに寄り添った「効率的な」農業形態等を対象とします。ですが,奥早の場合は,先日の土石流のような自然災害によって(大変でしたね),その二つの条件が頻繁に変わってきたと思うのですが……

 「おっしゃる通りです。たとえば,十年前と現在とでは,川の流れが変わり,山の形が変わりました。棚田の数は減り,米の収穫量が見込めなくなったので,別の作物で代用しています。むき出しになった山肌を利用して,馬鈴薯を栽培したりもしました……」

 ここに来るまで少し見させていただきましたが,あそこの斜面は竹藪ではなかったのですね。

 「そうですね。竹が生えていると,根によって土が固くなります。土砂崩れは防げますが,竹は稲と同じく酸性の土壌を作るので,中和が大変なのです……」

 論文は,村に陰を落とす山林の反対側が,竹藪になっているのを笹のマークで示していた。他方で,山林の村側には,このような山間部に珍しく榛の木や沼杉が植生していた時代があったことも示していた。

 そのように災害が発生するごとに,農作物や生活の形態を変えるのは,とても大変なことと思います。村民の意見を集約する必要があるのではないでしょうか。やはり,寄り合いか何かで決めて,新たな里山のあり方を検討されるのですか。

 「寄り合いは……あります。……ですが,あくまで考えを出し合うだけです。皆がそれぞれの考えを出すと……あ,いえ,そこで決定します。」

 メモを取っていて,おやと思った。論文は「共同体の立て直し」の組織化を,「寄り合いによる合議制で決定してきた」と記していた。考えを出し合うだけ,とは。宮本常一の描いた,近代民主制とは異なる「寄り合い」みたいなものなのか。

 「ああ,そうですね。とても大変です。ただ,天災は防ぎようがないので,仕方ないと思っている村民が多いと思います。宿命的……いえ,何でもありません。」村長は答えの順番を入れ替えた。

 まるで前の言葉を取り消すように?いやいや考えすぎだ。

 村長との話から論文以上の情報は得られなかった。それよりも,村を少し散策して別の疑問−−−−それは,あまりにも当然すぎて,考えなかった自分に驚いた−−−−が生じた。

 村長の話に出た十年前,村の全戸数は約三十(と論文にはあった)。先日の報道では二十。歩いていて田畑で目にするのは高齢者ばかり。明らかにもう限界集落だ。

 それなのに,村長はそうした「心配」や「不安」のようなものは微塵も見せなかった。途中の不自然なやりとりは置いておくとして,すでに諦めているのか。とすれば,奥早に関して仮説は証明終了だ。

 災害が多い不便な共同体に「故郷」として執着するのではない。共同体そのものが失われつつあるから離れられない。簡単なカラクリだ。申野先生が喜ぶテーマにするか,仮説を追って対象の地域を変えるか。

 とりあえず一日目を終えようとして,村の入り口−−−−今度は出口−−−−に戻って奇妙な感覚を覚えた。先ほどの鳥居らしきものの形が変わっている。

 デジタルカメラを取り出して画像を確認した。たしかに先ほどと形状が違っている。画像は鳥居の原型のようなものを映しているが,今目にしているのは馬の蹄鉄のように上部がたわんでいる。つなぎ目もない。

 自然木を,時間をかけて曲げ,それぞれの両端を地面に差し込んだ−−−−しかし,色味は同じで表面の細かい模様も似ている。短時間で誰かが取り替えたのだろうか。

 それにしても,下草には掘り返した跡もない。前のものを上からすっと抜いて,同じ穴に今目にしているのを挿したような……

 奇妙は奇妙だが,下の土の具合次第では不可能ではない。高齢者でも五人集まればできよう。

 あらためて写真におさめ,バス停を目指した。ここから近くの町まで一時間。来た時に調べたところでは,あと二十分ほど待てばいい。もうすぐ日が暮れる。

 「かれてご」を背負ったおばあさんが通りかかった。白頭巾をしている。

 あれは,来る時のおばあさんか。どうして同じ方向から。畑に忘れ物でもしたのだろうか。振り返ってその姿を追いかけながら,ふと思った。

 ぼくが捨てた故郷でも,父親がよく鍬だの鎌だのを畑に忘れていた。商売道具なのに,とよく考えたものだ。申野先生が老眼鏡を忘れるなんて想像できない。それとも,そっくり同じ老眼鏡があの引き出しの中に入っているのかも。

 しかし,バス停が遠い。ふつう行きよりも帰りが近く感じるはずだが。いや,行きはよいよい,帰りはこわいの例があるか。あれは「遠い」ではなくて「こわい」か。

 少し先に目をこらすと,右手に折れる道があるようだった。来る時に左に折れる道なんかなかったはず……

 さらに行くと,その道の近くに……鳥居のような……

 あれは……デジタルカメラを出し,画像を確認した。そこに立っていたのは,来た時に写したものとまったく同じだった。

アスタリスクの亡霊

 重要な英単語の左上についていた記号を見て,星野佑は授業中なのに「あ」と声を上げそうになった。それは幼馴染の「お祖母様」が,襖の向こうで青い紙に浮かび上がらせた印に似ていたからだ。

 金色の印。描かれたようなのに,生きているみたいに揺れる不思議な文字。あんなもの見たことがなかった。あのとき「お祖母様」を隠れて見ていたのに,お父さんに叱られなかった。

 「佑,いいね,本家に勝手に入ってはいけないよ。本家とうちとの「決まりごと」だからね。」

 本家のヒトミは自由にうちに来るのに,ぼくはヒトミの家にはいけない。なんか変なの。小さいころ,お父さんに言われてそう思った。でも,本家にこっそり入ったとき,その「決まりごと」が分かった気がした。

 いつか祭りでお父さんとはぐれた。ちょっと探検のつもりで,夜店と夜店の間に入ったらお稲荷さんがあった。いつもは,変なのって思っていたキツネが,暗がりのなかですごく怖く見えた。瞳の住む本家はあのキツネみたいな感じだった。

 初めて見た「お祖母様」は「お祖母様」というにはずっと若かった。うちのお母さんと同じ歳くらい,いやもっと若く見えた。白い和服を着て足を引きずっていた。青い紙を細い指でつまんで,それをさーっとなでた。そうしたら英単語の記号が……

 「おい,星野,おい,星野」

 あ,はい。英語の安藤が机の前で腕を組んでいた。あれ,授業中だったんだ。

 「もういい。授業中だから,あんまりぼんやりするなよな。じゃあ,城山,続きを読んで……」安藤は持っている教科書の角で,佑の机を軽く叩きながら言った。

 そうだった。あの日もこんな風に「お祖母様」を見ていてぼうっとしてたんだった。廊下を歩いてる間は,早くうちに帰ろうと思っていたのに。それで「お祖母様」が顔を上げられて……ぼくが見ているのを最初から知ってるみたいだった。

 でも「お祖母様」は怒ってないみたいだった。なんか顔がぜんぜん動いてなかった。それから「あ」って思って,うちに走って帰った。

 お父さんに絶対叱られると思ったけど,ご飯のときも何も言われなかった。寝る前に良かったって安心したら,「お祖母様」のことを思い出して,ごめんなさいを繰り返した。

 あれ,ヒトミもできるのかな?本家の人間は誰もできるのかな?

 ふと,佑は何かの視線を感じた。教科書から目を上げて,ちょっと周りを見た。安藤に当てられた城山が文章の訳を読んでいる。男子はそれをノートに書いている。女子はあんまりシャーペンを動かしてない。予習してるんだ,やっぱり。

 「……こん と はく。それを むすぶ いん。これ いのち の しるし に して いのち を あやつる いん なり。……」

 え,そんな文章,教科書にあったっけ。

 なんとなく訳を聞いていたら,城山の口からそんな言葉が聞こえた。佑は第8課の長文を指でなぞりながら,城山が訳している部分を探した。しかし,「マックスの遊園地」というこの課に,そんな文が出てくるはずがない。

 ……気のせいか。そういえば,あの「お祖母様」の紙は何に使うんだろう。神社のお札みたいなものかな。それともおみくじ?

 おみくじと言えば,ヒトミと初詣に行ったとき……

 お稲荷さんがあったのは近所の神社のなかだった。その神社は,追儺や大祓などの行事の際,露天商に境内のスペースを貸していた。佑は父と連れ立ってよく出かけたが,瞳と一緒に行ったことはなかった。

 ある年の年明けに,たまたま瞳の祖母が用事で家を空けることになり,瞳は佑の家に祖母が帰るまで預けられた。毎年恒例だった初詣に,しかし佑の父はその年に限り「行かない」と言った。

 ねえ,どうして?「行かない」ってどういうこと?用事ないんでしょ!せがんだらお父さんは,

 「佑,今年はダメなんだ。来年にまた行こう。」と言って,何回きいても理由を教えてくれなかった。

 だから,ヒトミに二人で行こうって,お父さんがちょっと外へ出たときに行ったんだった。はじめヒトミも嫌がるから,理由をきいたら,お父さんと同じみたいに「イヤなのはイヤなの」って言ってるから,もういいよ,ぼく一人で行くって言ったら,「じゃあ……」ってついて来た。

 あれ,それからどうしたんだっけ。

 佑は安藤に気づかれないように,教科書を読むふりをして思い出そうとした。

 神社でりんご飴を買って−−−−あ,そうだ,ヒトミはりんご飴もフランクフルトも,たこ焼きも知らなかったんだった。初めてだったのかな,変なの。それでおみくじを−−−−

 そのとき,佑はふたたび「あ」と声を出しそうになった。

 神社やお寺によっては,予め数字が振られた棒が入っている「おみくじ棒(筒)」から一本引いておみくじを買う。やり方も知らない瞳のために,佑は手本を見せた。五と書かれた棒を引いて,今度は瞳の番になったとき,不思議なことが起きた。何度箱を上下しても棒はまったく出てこないのだ。

 何回も振っていると,ミコさんの衣装のお姉さんが来て,変ですねと言って,自分が振ってみせたら普通に棒が出た。それで,ヒトミがもう一回振ったら,今度もまた出なかった。三つの箱を振ったけど,最後まで一本も出なかった……

 忘れてたけど,あれ,絶対に変だった。言いつけも忘れて,ついお父さんに話してしまったら,

 「これから二度とそういうことはするな」ってすごく怒られたっけ。

 あれからだったかな,ヒトミがあんまり遊びに来なくなったの。「決まりごと」のなかに入っていたのかな。……あれ,おみくじで思い出したけど,うちって,他の家にある「カミダナ」とか「ブツダン」が無かった。山崎の家で,これ何ってきいたら「はあ,お前知らないの?」ってバカにされた。

 「今度は,じゃあ,田代,次の文章を読んで訳せ」安藤の声がした。田代,田中,中谷……まだ当たらないな。

 「……しんぶつ これ みちを たがう もの に して まじわる こと なし……」

 え,田代,何を読んでるの,英語じゃないの?しかもボウ読みって……

 気がつくと佑は長くて暗い廊下に立っていた。あの夜の神社の夜店の脇を思い出していた。廊下なのに,廊下ではないような違和感があった。右にずっと続く襖の白が,お稲荷さんのキツネと同じ色に見えた。来なきゃよかった……早く,早く帰ろう。

 廊下の突き当たり近くの襖が少し開いていた。急ぎ足になっていたのに,佑は,その隙間に吸い込まれるような感覚をおぼえた。自分でも知らないうちに,佑はその細い間からなかを覗いていた。

 その部屋は少し広い和室だった。正面に暗い色で光沢のある分厚い卓があり,奥の床(とこ)には奇妙な形の皿のような器が置かれ,青くも薄紫にも見える小さな四片の花が植えるように生けてある。左には同じ花をモチーフにしたような衝立が視界を遮っている。そして右には−−−−

 佑は心臓が止まった。白い和服の女性が籐椅子に座っている。斜めに部屋の奥を向いているので,横顔が見える。おばさん?もっと若い?左手の親指と人差し指で青い紙をつまんでいる。短冊のような縦長の紙。右手がその上にかざされ下から上にすっとなぞった。

 空間がどくんと波打ったが佑は動けなかった。それにずっと見ていたい衝動に,なぜか駆り立てられていた。と,金の星のような印が,ゆらゆらと青い紙の上に現れた。現れたのに,まだ揺らめいている。まるで命を持っているみたいだ。紙を持ったまま,女性が佑の方へゆっくりと向きを変えた−−−−ずっと見ていましたね,知っていましたよ−−−−頭のなかで声が聞こえた。

 「おい,星野,おい,星野」

 安藤が机の前に立って腕を組んでいた。

 「もういい。授業中だから,あんまりぼんやりするなよな。じゃあ,城山,続きを読んで……」安藤は持っている教科書の角で,佑の机を軽く叩きながら言ったが,机の上をまじまじと見て驚いた顔をした。

 「お前,何それ?気持ちわる!落書きするなら,もっとマシなの描けよ!」

 安藤の言葉の意味がよく分からないので,佑は机に目を落として「あ」と声を上げた。開かれたノート一面を真っ黒に埋めるように,そこには小さなアスタリスクがたくさん描かれていた。

そして人は反社会分子となりぬ

 草野オダマキの記憶は,祖母ボリジの黒ずんだ爪で剥かれた無花果の熟れたドロドロの実ではじまる。

 口に含むとき,祖母ボリジは「かぶれるから,口の端につかないように」と,毎回つぶやいた。その儀式は,草野オダマキが,庭で孤独に伸びながら揚羽蝶の幼虫に葉を食い散らされている山椒と同じ背丈になるまで続いた。

 無花果の木は,草野オダマキが鏡に映った人間が自分だと分かる頃には,くねった柔らかい枝を家に覆いかぶさるように広げていた。その葉はざらざらして,葉脈は自分の血管よりずっとたくさんの血を運んでそうだった。

 夏になると,祖父セツブンソウがホースの口をきゅっと指ではさんで,透明なビームを打ちまくり,緑だらけの庭をキラキラに変えた。祖母ボリジが無花果にはかけないようにと口すっぱく言っても,祖父セツブンソウは悪戯顔で遠慮なくほいほい水をかけた。

 祖父セツブンソウがピクルスみたく,アルコールに漬かって死に,何かと悪態をついていた祖母ボリジが,まだ悪態をつき足りないかのように祖父セツブンソウを追って,得体の知れない病で亡くなった後,父クロッカスは無花果の樹を切り倒した。

 祖父セツブンソウが夏に水をかけていたからか,その中心部に口を開けていた穴に,草野オダマキがくだらない宝物を密かに隠したからか,切り倒した時,無花果は根元までドロドロに腐っていた。

 祖父セツブンソウのこの世からの退場とともに,夏の庭からは,無花果から降る水滴も,キラキラも失われた。ヒートアイランド現象とエルニーニョを味方につけた日差しが,庭の不均等な砂粒を,蟻の大砂漠に変えた。

 祖父セツブンソウは絵に描いたような頑固者でひねくれ者だった。血液型が悪かったのか,草野オダマキが小学校でくだらない遊びに興じていた頃に,祖父セツブンソウは脳を病んで左半身が動かなくなった。

 それまで叩いてきた大口と面倒な完璧主義が祖父セツブンソウの体に復讐し,余計なことに頑固とひねくれに磨きをかけさせた。学歴の低かった祖父セツブンソウは,磨きをかけられた頑固とひねくれを最大限に発揮して,テレビとテキストを交互に睨んで物理と化学を修めた。

 草野オダマキは物理も化学も専攻しなかったので,祖父セツブンソウはさらに数学も修めた。朝のテレビ学習が終わると,祖父セツブンソウは草野オダマキを呼んで,二次関数を,ルートを,Σをと,自分の修行の成果を,やる気のない草野オダマキで確かめた。やり込められることがあっても,草野オダマキの知らない化学と物理でリベンジを果たした。

 さらに祖父セツブンソウは,いつの間にか来なくなった「富山の薬売り」を代表して,健康オタクの役割も掛け持った。酢に一週間漬けられて,殻も溶けた卵は父クロッカスでまず試された。父クロッカスは一口食べる前に「不味い」と言いかけたが,実際に食べて悶絶した。

 祖父セツブンソウは宵の闇が降りてくると,草野オダマキを呼んで,一緒にトマトジュースのプルタブを押し上げた。草野オダマキが後にトマトから離れられなくなったのは,トマトジュース教の賜物だった。父クロッカスは嫌いなトマトジュースを避けるために,その時間帯は家に近寄らないようにしていた。

 父クロッカスは仕事と称して飲み回るようになった。祖父セツブンソウは飲みに行くと称して飲みに行った。草野オダマキとその妹たちは,べろべろになった二人を順番に玄関先で迎えた。祖父セツブンソウは酔いながら酔ったふりをし,父クロッカスは素面を装って酔っていた。酔っ払いが二代続けばどうなるか,祖父セツブンソウも父クロッカスもまったくアウトオブ眼中だった。どうやら草野オダマキの家は酒にやられる運命だった。

 母ザクロは祖父セツブンソウとは明確な対立を,祖母ボリジとは不明確な対立をしていた。祖父セツブンソウは血液型が悪かったのか,磨きのかけられた頑固さとひねくれからか,自分より高学歴だったからか,母ザクロを憎んだ。酔生夢死を履き違えた父クロッカスはおんぼろな盾だったので,母ザクロは見えない矢を無数に受けて(あるいは,母ザクロのプライドが放たれた矢を許せず)度々家出をした。

 草野オダマキは母ザクロの家出を最初は悲しんだ。祖父セツブンソウを恨み,「フシンカン」という概念を,言葉ではなく感覚として身につけた。口角泡飛ばす祖父セツブンソウを見ながら,同じく「ミニクイ」という概念を眼に刻み込んだ。草野オダマキは糸を無くしたカイトになった。草野オダマキの歪みの始まりだった。

 小学校の頃,勝手に校庭に侵入していたオカシナ人が,砂場で突然痙攣して泡を吹いた。その泡は草野オダマキのなかで,頭の回路が焼き切れた祖父セツブンソウの口角に浮かぶ泡と重なった。それらを見なければ「いけない」草野オダマキは,しかし,幼少時にひっそり始めた馬鹿祭りを続行していた。それ以外の何も草野オダマキのスケジュールにはなかった。

 父クロッカスが理想の息子に描いた夢のために,草野オダマキは馬鹿祭りの合間をぬって野球をさせられた。中途半端に才能を与えられた父クロッカスは,何かにつけてくだらない武勇伝で,草野オダマキをがんじがらめにした。そして,それに気づかなかった。その触手は,本当は得意でない英語にまで及び,ナイフの文字と発音の違いを自慢げに強調し,他方で草野オダマキがたまたま良い成績をとっても認めようとはしなかった。

 その代わりに1足す1はなぜ2になるだの(「泥だんごは二つ足すと大きな1個になる」),マッチはなぜ火がつくのかだの(「それも知らないで,全国で3位になったのか」),地球外生物くらい無関係な問いを,父クロッカスはカウンターパンチとして繰り出した。のちに草野オダマキは「産婆術」を知ることになるが,父クロッカスのそれは踊りの術の方だと思った。

 草野オダマキはそれでも父クロッカスとのささやかな思い出を大事にした。病院終わりにゆく喫茶店,気まぐれで連れて行かれる魚釣り。しかし,父クロッカスは「タイギメイブン」という薙刀を家庭内外でふるうのに忙しく,草野オダマキの「フシンカン」を助長した。聖夜祭に父クロッカスが枕元においたのは,ことごとく草野オダマキの望まないものだったことも,もしかしたらこれに与ったかもしれない。

 その頃,草野オダマキは意味不明な「イジメ」というものを体験していた。幼稚園では同じ組のおっさんみたいにでっぷりした子に命令されて,その子が嫌う子をカバンで叩いた。たまたま入れていた粘土細工が,その子の頭を数針分切った。母ザクロは泣いた。泣いて草野オダマキをその家に連れて行き,これでもかと謝罪をさせた。なぜ草野オダマキが叩いたのか,母ザクロはその理由を知らなかったし,知ろうともしなかった。

 中学に入ると,一歳年上の猿みたいなのが草野オダマキを餌食にした。呼び出された先には,同じく一歳年上の猿の手下と草野オダマキの友人がいた。草野オダマキは友人の前で罵倒され,脅され,なぶりものにされた。オーマイガー。草野オダマキを「売った」その友人は,その後も普通の中学生活を送り,「フシンカン」に加えて「フカカイ」という新たな概念を草野オダマキに与えてくれた。

 草野オダマキの「フシンカン」は,狂った自己防衛に逃げ場を見つけようとした。空手の本をウキウキしながら買って,そこに書いてるメニューを毎日こなした。家の物置の柱に古い敷物を巻いて,正拳づきを繰り返し,上段蹴りを繰り返した。祖父セツブンソウは物置が傾いてしまうと,やはり口角に泡を吹いた。草野オダマキは知られないように正拳づきと上段蹴りを繰り返した。頭の中ではすでに牛一頭倒せる実力が備わっているはずだった。

 小学校四年のときに転校してきた娘ストケシアに,草野オダマキは一目でまいってしまった。ヒューヒュー。友人たちと連れ立って川辺で遊んだとき,草野オダマキは娘ストケシアの小さな手に触れた。娘ストケシア父親を幼くして亡くしていたと聞いたとき,草野オダマキは頼りがいのあるマイトガイになろうと決心した。草野オダマキのそのような見え透いた下心は,「フシンカン」の後ろで着実に成長していた「ムソウ」が苦労して産んだものだった。娘ストケシアが好意を寄せたのは,腎臓を悪くしていた友人だった。

 それは草野オダマキの歪みが少しだけ進行をやめた時期のことだった。無理やり入らされた中学の野球部(これも父クロッカスの差し金だった)の「課外練習」のサッカーで,一年上の部員がロックオンを間違えて,ボールではなくて,草野オダマキのすねをしこたまに蹴った。立とうとしたら,足に力が入らず無様に転倒した。涙がちょちょぎれた。靭帯の損傷だった。草野オダマキはくるぶしから太ももまで石膏でかちかちに固められた。顧問も部員も,この件については口笛を吹いて忘れることにした。

 その頃流行していたGame Bookを,怪我にかこつけて草野オダマキはたくさん購入してもらった。うひひ。しかし,一つとしてクリアできなかった。がーん。学校側に対する抗議デモを一人でするべく(もしかしたら年金で購入した新車を見せびらかしたくて),祖父セツブンソウは,松葉杖をついて歩く草野オダマキを中学に迎えに来た。帰宅すると,草野オダマキは勉強の合間をぬって,その頃覚えた自慰をコタツの中でおこなった。頭が真っ白になり,その白さに強烈に反比例するほど黒くなる感覚にとらわれた。

 自慰を繰り返すたび,草野オダマキは自ら「ミニクサ」を増殖させた。今や「フシンカン」と「ムソウ」と「ミニクサ」は,三つ巴になって草野オダマキを内側からばりばりと破いていった。草野オダマキはこの世界には(草野オダマキはまだ「世界」を知らなかったので,彼が生きている生活の総体と言う方が正確だ)安心して身をゆだね,自らを浄化し,逃げる必要のない場所はないと確信した。

 これらのどれか一つでも草野オダマキの身上書から消すことができたなら,と草野オダマキは「ムソウ」する。おそらく(これは仮定法だ)草野オダマキは今とは違った形になっていたかもしれない。少なくとも,社会というものの存在を今よりは大事にし,規則にも少しは従順だったかもしれない。

 草野オダマキは反社会分子である。本当はそれだけのことかもしれない。そう草野オダマキは「ムソウ」する。