fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

マンガラとパガサ

 なだらかな丘陵の頂上と思しき草原から,鈍色に光る水面は,すでにその茫洋たる全貌を見せていた。豊饒の海カラチヤ。土の民の住まう,五百歩距(約三五◯キロ)あまり離れたパテタリーゾまで,この大海の通り名は,風となり噂となって伝わっていた。物憑きの語部シャクの託宣と,里を揺るがした臨時討議会一任の命を受け,マンガラとパガサがまず目指したのは,この広大な海だった。

 「ここが,あのシャクが話した,カラチヤ海というのなの。これは驚いた。よくこんなに水があったものだね。これは思っていた以上だよ。尽きる果てが全然見えない。パテタリーゾの里は,まるまる収まってしまうくらい広いね。」

 初めて目にする海に,マンガラは好奇心と興奮を隠せない。両手を双眼鏡代わりにして,右に左に首を振っている。水が動くだの,白い泡が立つだの,見て感じたことを,思うがまま口にする。

 「うん。カラチヤ海だね。たしかに,この水量には驚きだ。シャクの話によれば,このカラチヤ海にも,災いが訪れているそうだけど,いったいどのようなものだろう。あの治らない病と同じだろうか。」

 パガサは,眼下に広がる水を見はるかしながら,里の皆から委ねられた最初の使命を思い出していた。シャクが,土の精霊の依り代となって語った内容。海の民を,その街を訪ねよ。彼らもここパテタリーゾと災厄を共にする。そして「透明な輝石」の手がかりを求めるのだ。運が良ければ,次なる道は開けよう。

 ディエト地方の海上交易の要,モレスコ湾を擁する海の民の拠点,イスーダの街はあれだろう。パガサは,長老から借り受けた地図を頼りに,改めて確認する。手前から右奥へと弓なりになった湾に沿って,大小の家屋らしき建物が,軒を連ねている。木製ではなく,石を積み重ねているようだ。

 「あの近くに見えるのが,イスーダなの。じゃあ,今からあそこに行くのだね。ね,パガサ。ぼく,あんな建物見たことないよ。里は,木を組み合わせるか,岩の穴の家ばかりだもの。どこからあの石みたいなものを持ってきたのかな。パガサ,どんな奴らが住んでいるのだろう。」

 マンガラの,子どもじみた好奇心は抑えようがない。パガサとて,イスーダの街にも,海の民にも,興味はある。里の外の世界を見ることができるなど,これまで考えてもみなかったからだ。しかし,本来であれば,他里をも束ねる長老評議会の許可なしには,民の地から離れることは禁じられている。素性が知られれば,何が起こるか分からない。パガサの興味は,知らずに,里を離れた不安にかき消された。

 「マンガラ,ぼくらは禁忌を犯した人間だ。たとえ,里の皆が,長老が許してもね。だから,海の民に捕らえられないように,街に入ったら,なるべく目立たないように行動しよう。影からそれとなく探って,うまく紛れ込む。いいね。」

 街へ急くマンガラを,夜目の方が安全と説き伏せて,早めの休憩の準備をする。火を焚くのも諦めさせたので,マンガラはパガサの予想通り,すっかり不機嫌になった。まったく,どうしてシャクに憑いた精霊は,子どもっぽいマンガラなどを選んだのだろう。これじゃあ,ぼくがお守りみたいだ。

 丘の窪地から見上げる空が,茜色をおび始める。マンガラは,出発の時に与えられた長衣にくるまり,パガサに背中を向けて横になっている。完全にふてくされているようだ。と,そのとき,マンガラの体の内部から,低くつぶやくような音が聞こえた。

 「なあ,パガサ。腹,減らない。今日はずっと森を歩き通しで,お昼から何も食べてないよね。さすがに,お腹の虫が騒ぎ出して。」

 腹は立てていても,腹の虫はおさまらない。マンガラは,先ほどの態度を恥ずかしがるように,無邪気に言った。仕方がない。里の貨幣ギントが通用するかどうか分からないので,物々交換のためにも,糧食は取っておきたい。けれど,今夜のことも考えなくては。

 「マンガラ,これ。ゆっくり噛んで食べて。お腹が満たされるから。できれば,いざという時に取っておきたい。ギントが使えるか分からないから。もし使えないと,この食べ物で別の物に替えてもらわないと。」

 そう言うと,パガサは乾燥パテタを一塊渡した。バトハリ歴の始まりより,いつ「透明な輝石」が置かれたかは分からない,そう長老は語った。仮にあの病が「輝石」に依るものだとすれば,同じく生きているパテタ芋も,その害を受けているかもしれない。

 「なるべく古い物を,か。こう粉を吹いているのを見ると,ずいぶん前の物らしい。うん,やっぱり。味も知っているのとは,まったく違う。」

 パガサは小さい声で言った。今さら,古い物を食べ始めて,果たしてその「害」から逃れられるのだろうか。知らない間に,喉元に「しこり」ができて,体の自由が利かなくなり,死ぬまで臥す。祖父がたどったあの道を,ぼくもたどるのだろうか。

 「ねえパガサ。昔はあの「境犯し」をして,海の物を土の民へ,土の物を海の民に運んでいた人たちがいたらしいよ。おじいさんが言っていた。たしか「境の民」とか,そんな呼び名だった。だから,もしかしたら,ギントは使えるかもしれないよ。」

 マンガラは茜から青暗く色を変え始めた空を見ていた。もう乾燥パテタを食べ終えてしまったらしい。ゆっくり食べてと頼んだのに。ここまでの旅程で,見るもの見るものへの驚きと,腹が減ったということばかり。先行きを少しは考えているのかな。

 「禁忌を犯してまで,イスーダとパテタリーゾを行き来する者たちがいたってことかい。どうしてそんな危険なことを。どちらかの長老に密告でもされれば,どんな酷い罰を受けるか分からないのに。」

 そう言うパガサは考える。「境の民」か。言われてみれば,どうして生まれた地を離れるのが禁じられたのだろう。生まれた地を離れては生きていけないから。ぼくの知っている老人たちは,みんなそう話していた。たしかに,例えば,ぼくがあの湾の街に突然放り出されたら,どうして生きていけば良いか分からなくなる。パテタの植え付けは,リーゾの苗を育て方は知っている。けれど,あの海辺でパテタやリーゾが栽培できるのだろうか。

 マンガラは,さも昔々の物語という調子で続ける。

 「うん。そうだよね。だから,境の民は一人で十人の力があったとか,飛ぶように走ったとか,呪いを使えたとか,なんか童話の悪魔アスワナみたいだね。もし本当なら,長老たちでも,そんな不思議な民には,手を出したくても出せなかったのじゃないかな。」

 長老評議会を黙らせる,いや,評議会にも太刀打ちできる能力を持っていた。だから,境抜けが常習的にできた。とすれば,境の民に出くわすのも,命の危険にさらされるということか。それにしても,行き来して何をしていたのだろう。単なる交易だろうか。

 「それより,パガサ。あの夢の童話おぼえている。食べ物の少ない男が,夜夢の中で,食べ物をたくさん持っている男と入れ替わる話。夢なのに,本当に,少ない方の男が太っていって,たくさん持っている方の男が痩せていった。夢の中で食べるなら,いくら食べても,本物のパテタ芋も無くならないだろう。」

 パガサはため息をついた。マンガラは使命も忘れて,物を食べることばかり考えているみたいだ。

 そのとき,窪地のうえに何か動く気配がした。短い青草がさらさらと音を立てる。生き物か。窪地に入る前に見回したときは,何も見えなかったのに。その音は,ゆっくりと,でも確実にこちらに近づいてくるようだ。

 「ねえパガサ,その境の民,まだいると思う。ぼくたち,いまどちらの里にもいないよね。こんなところで,もし見つかったりしたら。」

 マンガラの口をパガサが手で閉じる。境の民だとしても,闇の悪魔アスワナだとしても,ここで見つかる訳にはいかない。パガサは黙るようにと,マンガラに身振りで伝え,窪地の奥まった箇所へ一緒にじりじりと進んだ。窪地と言っても,人の背丈ほどの深さしかない。入り口から見下ろされれば,すぐに見つけられてしまう。

 気配と足音らしき音は,窪地を見下ろす場所で止まった。マンガラはと見ると,先ほどと打って変わって震え始めている。マンガラの肩を抱きながら,パガサはどうすべきか考える。持ち物は,乾燥させたパテタとリーゾを除いては,衣類と丸薬。それに,この杖だけ。

 「おやおや,もうここまで来ていたのですね。道中無事で何よりでした。」

 ふと声の方へ目をやると,見たこともない色の衣を重ねた人物がすぐ側に立っている。いつの間に窪地の底へ。音も何もしなかったが。

 「あああ,境の民様,悪魔様,どうか見逃してください。」

 マンガラが必死で後ずさりしながら叫んだ。

 「境の民に悪魔。ああ,なるほど,私はあの交易の民か,アスワナということですか。これは面白いですね。よくご覧なさい。あなた方に伝わっている民は手ぶらでしたか。闇の悪魔は,こんな綺麗な服を着ていましたか。たしか,あの悪魔は上半身が離れて,空を飛んだと思いますが。私はこの通り,上半身も下半身もありますよ。」

 パガサは努めて冷静に,目の前にいる変わった人物をたしかめていた。いろいろな色の服に,宵でもそれと分かるほど顔が白い。それに,何も携帯していない。旅をする姿格好ではない。いったい何者だろう。

 「失礼いたしました。私たちは土の民。パテタリーゾより参りし,パガサと,こちらが同士のマンガラです。あなたはどちら様でしょう。海の民の方でしょうか。」

 パガサが意を決し,丸くなって震えているマンガラの前に出た。土の民の儀礼である,片膝をついて首を垂れる。

 「ほほう。土の民の儀礼か。そちらの後ろもの者と違い,冷静沈着,意志も固く,肝も座っていると見える。私は,そうだな,時を旅する者とでも言おうか。名はまあ良い。ここに来たのは,イスーダに向かうお前たちの手助けをするため。」

 口調が変わった。時を旅する者。言葉の意味を考えているパガサの脇から,隠れていたマンガラが躍り出て,矢継ぎ早に尋ねた。

 「ということは,海の民の方ではないのですね。長老様からのお使いですか。ぼくたちを助けてくださるというのは,イスーダに連れて行ってもらえるのですか。」

 パガサに衣の袖を引かれなければ,マンガラの質問はまだ続いていただろう。危険のない相手だと分かると,手のひらを返したように心を委ねてしまう。いつか騙されて,痛い目に遭ってみると分かるのだろうが。

 パガサの祖父は,興味本位の唆しを信じてしまい,「透明な輝石」に近づきすぎた。ご利益があるとか,地の精霊を祭った物だとか,でたらめな噂を吹聴された。そして,あの病に罹ってしまった。いたずらでも,下手に信じれば取り返しのつかないことになる。

 「マンガラとか言ったな,そうだな,私は長老の使いでもなく,お前たちを連れてイスーダに行くために来たのではない。あくまで,助言と,これを渡すためだけだ。」

 その人物は,そう言うと,マンガラを促して,懐から出した白い布を二巻き,その手に渡した。出てきたのが,何か特別な物ではなく,布だったので,マンガラもパガサも思わず顔を見合わせた。

 「これこれ,それはただの白布ではない。よく見てみるのだ。薄暗がりでは分かりにくだろうが,表面に「貝」という生き物の殻の刺繍が施してある。この貝というのは,モレスコ湾の名前の由来。言うなれば,イスーダの象徴。これを頭に巻いておけば,しばらくは怪しまれまい。」

 しばらく。ということは,いずれどこかで素性が知れてしまうのでは。

 「あの,絶対に安全という訳ではないのですね。これを巻いていても。」

 パガサが率直に尋ねた。

 「ふむ。イスーダも,かつては多くの人々が行き交う街だった。お前たちの,森と山に囲まれたパテタリーゾと違い,あの海を渡って,他の地と往来を許された唯一の街だった。しかし,例の災いが生じてからは,往来も禁忌となり,街の人口も減ってきている。だから,絶対に素性が知れないという保証はできかねる。」

 災い。シャクの言っていたことと同じ。たしかに,狭いパテタリーゾに,よそ者が潜り込めば,すぐにそれと分かる。広いとはいえ,それでも時間稼ぎ程度ということなのだろうか。

 「さて,では最後に助言を与えよう。海の民の若者たちの動きに注意するのだ。誰彼構わずに「輝石」のことなど,尋ねるのは止めるように。むしろ,若者の動きが分かれば,次に向かうべき地も決まる。いいか,若者に注意するのだぞ。」

 マンガラは,まだ白布を持ったまま放心していたが,何を思ったか,急に真面目な顔つきになった。

 「あの。助言って,それだけですか。もう少し,こうやって,ああやって,みたいに教えてもらえると,助かるのですが。第一,どうやってあのイスーダって街に入り込めば良いのですか。それに,若者と言っても,たくさんいるということもありますよね。」

 パガサはまた袖を引っ張ろうとした。だが,マンガラはその手を振り切った。振り切る勢いからは,どうしても返事を引き出す意気込みが感じられた。

 「ははは。さすがは土の民。土と対面して身についた,その粘り強さと,生一本のところは,やがて役に立つ日もあるだろう。そうだな,マンガラ,お前に免じて,さらに二つ助言しよう。一つ目は,イスーダへは今宵のうちに。この後すぐに向かうのだ。湾に沿った街の中央あたりに,「工房」という大きな建物がある。そこへ行くのだ。二つ目に,若者はそこにいる。行けば分かる。」

 マンガラは頷き,パガサはマンガラの無礼を詫びて,丁重に礼を言った。しかし,その人物は何も答えず,二人の目の前から煙のように姿を消した。まるで夢から覚めたようだったが,二人とも人物の話は覚えていたし,マンガラの手には白布がきちんと握られていた。

 二人は無言のまま,いま一度,顔を見合わせ,マンガラの手の白布を確認した。

 「あれ誰だったのだろう。人間じゃないよな。妖精か何かなのかな。」

 マンガラがまた気の抜けたように言った。

 「さあね。でも,味方してくださる方(かた)であるのは,確かだと思うよ。さあ,マンガラ,出発に取り掛かろう。まずは,その白布を頭に巻くのだったね。一つをぼくにくれないか。」

 パガサが手に取ると,その布は見た目よりも固く丈夫に作られていた。なるほど,何かの印が無数に刺繍されている。これが「貝の殻」か。後は,とにかく街へ向かうこと。

 そのとき,パガサは脳裏に声を聞いたような気がした。その声は,あの消えてしまった人物の声とそっくりだった。

 「初めての外の世界。不安になるのも,心配になるのも無理はない。だが,連れが自分と同じ行動を取らず,考えなしに見えるからという理由で,仲違いはしてはならん。お前を補うのが,あのマンガラなのだ。マンガラを補うのが,お前であるように。」

 白布をすでに巻いたマンガラが,どうかしたのという顔でパガサを覗き込んでいた。

 「いや,何でもない。さあ,イスーダへ向かおう。」

 まだ釈然としないところがパガサにはあったが,今は使命が何よりも優先だった。二人は窪地から這い出ると,夜の闇が降りてきた丘の斜面を,街の灯を目指して降りて行った。

MとM

 二人の人物が対峙している。同じ白い洋装,細いメタリック・シルバーのペンを胸にさし,そして口角を頬の端まで吊り上げて。この配置は,アルコール臭がかすかに残る病室には,ひどく不釣り合いだ。むしろ実験的演劇の舞台の方がふさわしい。——

 運良く中山さんに連絡がついた。あるいは,ずっと,自分からの連絡を待っていてくれたのかもしれない。四肢がぐんなりしている佐和子を,薄青い夜というアクアリウムのソファーに寝かせ,すぐに教えてもらったLINEのコードを打ち込んだ。「許可」を待ちながら,部屋を検めていると,「とみえ」から無料通話の申請があった。たぶん,と思い,通話に出た。

 「もしもし佐藤さん。中山です。四谷さん,大丈夫ですか。何ともないですか。あの,その,そういうことは,あの子,してないですよね。」そういうこと。やっぱりか。中山さんも,自分と同じ,「そうあって欲しくない想定」はしていたのだ。

 余計な心配をかけまい,余計な興奮はさせまいと,ごく簡単に状況を説明する。なるべく佐和子の今の状態に話題をとどめた。左腕の傷は,いずれそれと知れるだろう。今わざわざ話す必要はない。それよりも優先すべきことがある。

 「分かりました。そのマンションに直接行って,タクシーを待たせたままで,部屋の番号を押せば良いのですね。ああ,はい,何か消化に良いゼリーか何か買っていきます。」

 何か少しでも口に含ませようと,冷蔵庫を開けてみた。予想通り,空っぽだった。ほぼ尽きようとしている消臭剤が一つ,あとは調味料だけ。ここ一週間,一切口にしていないのだろう。胃からでも成分が摂れる,たしかゼリー状の栄養食品があったはずだ。中山さんは説明の途中で,それと気づいてくれた。

 部屋のインターフォンが鳴るまで,できたことと言えば,寝室から毛布を持ち出し,薄着の佐和子を包み込むことぐらいだった。元からこんなに痩せていたのだろうか。肩の線などからは,決して肉づきの良い身体ではなかったと思うが,これでは拒食症。いや,そうとは言わないまでも,骨と皮ばかりになっている。

 同じ印象は,部屋に入った中山さんも,一目で持ったようだった。暗がりだから,目のくぼみと,頬の影が際立つとはいえ,久しぶりに会う友人の変わりように,声を失っていた。そして,私がおぶるために,二人で身体を起こした時,佐和子を襲った変容を,その軽すぎる体重から実感したようだった。

 救急車を,と急く中山さんに,大事(おおごと)にはしない方がと,タクシーで近くの総合病院を目指した。車内は密林のような,濃くて重たい大気に満たされた。運転手は,ことの異様さを悟ったのか口をつむぎ,中山さんは佐和子の顔を,赤子のように抱きすくめ,私はただうなだれていた。相変わらず,佐和子は焦点がずれた視線を投げていて,一言も口にしなかった。

 このまま空気が次第に圧を増していくと思っていたが,車が信号で止まったとき,不意に中山さんが口火を切った。この時を逃せば忘れてしまう,という切羽詰まった口調だった。

 「佐和子は,あの,事件に,何かの事件に巻き込まれた可能性はないでしょうか。」

 事件。事件とは一体どういう意味ですか。——あの不思議な人物は,「連関を縛るもの」とか言っていた。「連関を縛る」,などという抽象的な物言いが,いや,そもそもあの人物の存在が不確かだ。あれは,事件でも何でもない。幻想か虚像の類だろう。それに,あの人物が佐和子に何かをしたのではない。大丈夫だと保証した,予見したと言うべきか。いずれにせよ。

 「あの,佐和子は,その,お子様を亡くされた佐藤さんのために,「頼りになるかもしれない人物を探し出した」というようなことを,いつか言っていました。訊いても詳しくは教えてくれなかったのですが,その,今回も佐藤さんと関わっている(そう言われたのは,佐藤さん本人です)とすれば,その「人物」がもしかしたら,と思いまして。」

 頼りになるかもしれない人物。そう佐和子が,いえ,四谷さんが言っていたのですか。「頼りになる」とは,どういう意味ででしょう。すでに四谷さんが,十分すぎるほど,私たち家族には尽くしてくれていましたが。前に電話でお話ししたように,四谷さんがいなければ,娘との生活も,ずっと精彩を欠いていたかもしれません。

 中山さんは,困惑した風に見えた。自分が話すことには,確たる信憑性が欠けている。それを案じているようでもあった。

 「信じてもらえないのを承知で言います。それに,これは佐和子が言っていたことなんです。」

 佐和子が中山さんに話した「頼りになる」の意味とは,冬子と綾子を失った私の悲しみを,「癒せる」可能性がある,ということのようだった。急に大事な人を失くすと,人は思い出すたびに辛く,心が痛くなる。その思い出にまつわる「感情」を,「解放する」。そのような人物がいるかもしれない。いや,いたのだと。

 宗教,めいてはいる。ヒーリング。魂の解放。今では廃れたが,精神世界を生き直す試みは,実際の宗教団体のみか,啓発本などでも謳い文句にされた時期もあった。だが,そのような「シャーマン」を,現代の世界で,佐和子が探していた,というのだろうか。少なくとも,そうした「癒し」を信用しない,私の性格は知っていたはずだが。——

 冬子の四十九日の法要が終わり,「手伝い」に来ていた佐和子は,線香が燃え尽きようとしている仏壇を見ていた。

 「佐藤さん,不躾だと思いますが,私,冬子さんが「まだどこかで」佐藤さんとアヤちゃんを見守っていると思うのです。決して比喩的な意味ではなくて。私は高校生のとき,祖父と祖母を相次いで失くしました。父や母,それに親族が嘆くなか,私だけは違う感覚を持ったのです。」

 ほんのしばらく,と言っても,自分が亡くなるまでの間だけれど,祖父母は「隠れん坊」をするように,ちょっとどこかへ行っただけではないか。姿が見えないだけで,死んだわけではない。死んだわけではないから,悲しまなくても大丈夫。必ずどこかにいて,見守っている。

 冬子の遺骨を拾いながら,「決して二度と会えないことの意味」を,一つ,また一つと重たい分銅のように,心の秤に積んでいた私は,その楽観にすぎる死生観に苦笑を通り越え,怒りさえ覚えた。死ねばすべてが無に帰す。身体は焼かれれば骨になり,骨はもう無機物でしかない。しかし,佐和子は,簡素な仏壇に向かいながら,そんなことを考えている。「やはり他人事か」と,そうは言わなくとも当たったこともあった。

 だが,死生観は人それぞれだ。極言すれば,「死の受け止め方の違い」に他ならない。まだ物心もつかない綾子に,ともすれば母を求める綾子に,「もうすぐお母さん帰ってくるからね,いい子にしていようね」と明るく諭す姿を目の当たりにして,「そういう捉え方もあるのだ」と反省した。佐和子は,もしかするとどこかに,本当に冬子がいると思っていたのかもしれない——

 あの「死生観」が,綾子が亡くなっても,佐和子のなかでは続いていたのか。綾子の死を,ようやく受け入れつつある今,私に必要なのは「癒し」や慰めではない。ましてや,誰か他者によって,そうした「受け入れ」を半ば強要されることでもない。死としっかり向き合い,綾子の思い出が残してくれた,楽しかった数年に目を,心を凝らすこと。

 と,あの人物が残した「連関」という言葉を思い出した。あの人物は,「あなたの記憶と感情の連関を解いた」と口にした。その「連関」は,「思い出せる」とも,「思い出せる」ことが大事だとも。ある記憶とある感情がつながる。辛い思い出が悲しいという感情につながる。それを,別の感情につなげれば,それは「解放」に——そういうことなのだろうか。それが,「頼りになる」。そうなのか。

 私の想念にひと段落がつくのを,タクシーの運転手も中山さんも待っていた。自分でも呆れるほど,考え込んでいたようだ。闇の影がさす白壁に,緊急用の入り口を示す赤い灯が,車のランプに照らし出されていた。中山さんが,無言のまま,その目で佐和子を運ぼうと促している。すでに支払いは終えてくれていた。あとは,マンションの一室での要領で,佐和子の両腕を肩に回してもらい,中山さんは,ドアの上部に二人が頭をぶつけないよう,角に腕を添える。

 出迎えた看護師は,私たちが事情を話す間に,佐和子を一瞥した。その表情から,担当の科をすぐに判断したようだ。「今日の担当医は,専門ではありませんから,明日まで入院していただきます。いえ,「措置入院」ではありません。」みなさん,すぐにそういう処置を思いつかれるようですが,「措置入院」にはそれ相応の手続きが必要なのです。明らかな衰弱が見られるので,「念のために」入院させるという。

 付き添うと譲らない中山さんに後を任せ,一度自宅に戻ることにした。佐和子が,ひとまずは無事だと分かった安心感からか,睡魔が泥濘(ぬかりみ)のように,自分にまつわりついているのに気づいた。リビングのソファーに横になると,身体から一息に力が抜け,目頭に軽い痛みが走り,瞼が重くなっていった。

 冬子が紫色の花弁をつけた,一輪の花を手にしている。端々まで潤っている,摘んだばかりなのだろう。青いグラデーションのワンピースが,時折吹く風にふわふわと揺れる。あの前髪の形は,夏の前のものか。細い足にすがっているのは,あれは綾子だ。足を支えに「立っち」しているが,幼い足が震えている。

 微笑みながら冬子が手を伸ばす。そっと音もなく。ワンピースから細く白い手が伸びている。その手は,すぐそこにありそうで,でもつかめない。最初は悪戯かと笑っていたが,届かないので,次第にイライラしてくる。冬子,もっと手を伸ばして,くれ——と,手が届いた。嬉しくて,つい,その感情を冬子の表情にも確認しようと見ると,その顔は冬子ではなく,佐和子だった。

 目がさめるとLINEに,中山さんからメッセージが入っていた。「病状は安定しました。朝まで点滴をしてもらって,表情も柔らかくなっています。今日はこの後,診察です。仕事終わりに寄ってみてください。」昨晩のお礼と,自分が休めたことを簡単に書き送った。今日はそのまま外回りに行こう。得意先は,自分が税理士のつてで「開拓した」ところだ,課長も勝手をしぶしぶは許してくれよう。

 救急病棟に照会すると,佐和子は精神神経科に移っていると告げられた。中山さんが最後にくれたメッセージは,診察前のものだった。診察のうえで,やはり一時的な入院が必要だと,判断されたようだ。案内を頼りに,二階奥の一般診療病棟から,入院病棟へ入る。病室はすぐに見つかった。真新しいが,かすかにアルコール臭がする。「四谷」の札が,二人病室に一つだけ,右手に入っている。

 カーテンの奥からそっと覗いた。すでに夕食は終わったと見え,佐和子が,寝息も立てずに寝ている。寝顔は,昨夜よりずっと血色が良い。少し安心しながら見守っていると,部屋の入り口に気配がした。誰か親族の方でも来られたのだろうかと,ベッドから少し離れた。しかし,現れたのは,カーテンのベージュに霞んでしまいそうな色の服を着た——あの,マンションの部屋の前にいた人物だった。なぜ,ここが。

 「なぜでしょうね。ともかくも,治療が間に合って良かったです。あのまま,あのようなことを繰り返されていれば,後戻りができなくなりますからね。まあ,申し上げた通り,当分,仕事は無理でしょうね。よく静養されることです。あなたが働いて,この方を支えれば良いのですから。あなたには,それくらいの「義務」はありますよ。」

 別段,あなたにそのように勧められなくとも,この人は私が支えます。あなたは知らないでしょうが,この人には,ずいぶんお世話になりましたからね。それくらいの「義務」など,言われなくても分かっています。——突然に現れて,なに余計なことを言うのだ。

 「その「義務」ではないのですが,まあ,良いでしょう。いずれ分かることです。それよりも——」。その人物は,不意に言葉じりを飲み込み,口角を吊り上げて佐和子を見やった。佐和子のすぐ横,テレビが設置された棚の前に——同じ服装の,同じ顔の——鏡を合わせたように,同一人物が立っていた。いつの間に。私が来た時は,誰もいなかったはずだが。と,佐和子もうっすらと目を開けている。

 佐和子,聞こえるか——その声は,二人の人物のやりとりにかき消されてしまった。

 「これはこれは。「エル・インネルン」のMですか。いずれどこかでお目にかかるとは思っていましたが,わざわざこちらへお越しとは。そこまで,私の邪魔がしたいのですかね。」その人物は,同じように口角を吊り上げて見せた。

 お前は,誰なんだ。佐和子に何をした。

 「あなたが「佐藤さん」ですね。こちらの佐和子さんは,自分の「暗い記憶」を覗き込んでしまったのです。いずれ,このようになることは予想できました。まあ,自ら望んだのですから,私のせいではないですがね。申し遅れました。私は,「シュパイ・ヒェルン」のMです。そこのMと,まあ,日と陰,陰と日のような存在です。」

 二人のMが示し合わせたように,胸のポケットからメタリック・シルバーのペンを抜き,指先で器用にくるくると回した。

悲しみの匣

 気分障害心因性の記憶障害,それが診断だった。——

 新商品の発表に合わせて出先を回る前だったから,たしか六月の初旬だったと思う。広報の中山という女性から,なぜか外線で電話を受けた。その内容に,同姓同名の別人のことではないかと,最初は訝しんだ。

 綾子が亡くなってからというもの,絶えず連絡が来ていた。食事や睡眠の心配に始まり,気晴らしの誘いまで。それが,一週間ほどぱったりと止んだ。何か起きたのかと,こちらから連絡を取ろうとするも,LINEも電話も通じず,ショートメールも届かない。やはり「何か」起きていたのだ。

 受話器からくぐもった声がする。休憩室かどこか,社内から携帯電話でかけているのだろう。

 「もしもし佐藤さんですか,突然すみません。広報の中山と言います。少しだけお時間よろしいですか。四谷さんのことですが,家族ぐるみで親しくされていたとは,本人から聞いています。その四谷さんが——」

 五日前から無断欠勤をしている。すでに人事部が介入し,本人に連絡を取ろうとしている。おそらく懲戒解雇になるのではないか。解雇もそうだが,四谷本人がどうしているのか,どうしても気になる。

 「私,四谷さんと同期で,入社してからずっと,親しくしていました。佐藤さんことも,あの,その,お子様のことも,四谷さんから聞いていました。あんなに心配していたのに,今度は,いえ,佐和子に連絡がつかなくて。もっと前に,佐藤さんにお話しすべきでした。」

 そうでしたか。私の方も,妻や娘のことで大変世話になったので,何度も連絡をしてみたのですが。

 「そうだったんですか。佐藤さんには,何か告げていると,あ,いえ,今回のことで佐藤さんなら,何かご存じかと。どうしましょう。実は——」

 と,さらに声を低めて,中山さんが提案したのは,マンションに行ってみるかどうかだった。思えば,自分も佐和子の住んでいる場所は知らなかった。実家は四国だったと聞いてはいたが。おや,中山さんはもう行ってみたのではないのか。

 言いにくそうに,中山さんが打ち明けたのは,自分も住所は知らなかったこと,そして,人事部の知人に頼んで「密かに」調べてもらったことだった。

 「個人情報ということは承知しています。ですが,事態が事態なので,禁止されていることをしてしまいました。もしバレたとしても,処分は怖くありません。それで,どうしましょう。佐藤さんが行かれますか,それとも,私が行きましょうか。」

 事態が事態とはどういう意味だろう。佐和子に連絡がつかないのは,何かの事情があるのだろうが,たとえば,不意に実家へ帰省した可能性も排除できない。仕事上のストレス,いや,もしかすると,自分に,自分の過去に関わるのに,急に疲れたかもしれない。

 中山さん,事態が事態とは,どういう意味でしょう。

 直接的な問いかけに,しばらく沈黙が続いた。背後で,がちゃりという,何かが落ちる音がした。休憩室の自販機の近くか。

 「四谷さんのパソコンに貼ってある付箋(彼女は,よく用件を付箋でデスク周りに貼っていました)の重なった中に,その,佐藤さんへの伝言のようなものを見つけたのです。内容は,ええと,こう書いてあります。「私は佐藤さんと娘さんを傷つけ,その思い出を汚してしまった。申し訳ありません。」あの,思い当たることはありますか。」

 耳を疑った。「自分と綾子を傷つけ,思い出を汚した」。そんな訳が。あんなに娘に良くしてくれたのに。今度は,予想外の文言に,こちらが沈黙せざるを得なくなった。

 あ,いいえ,まったく思い当たる節がありません。佐和子は,いえ,四谷さんとは,妻の生前からの付き合いで,妻が亡くなった後も,幼かった娘のために,何かと良くしてくれました。汚したどころか,彼女がいてくれなかったら,娘との二人暮らしは,ずいぶん寂しいものになっていたと思います。汚したなどと。

 考えるところがあるのだろうか,私の言葉を受け,少しだけ再び沈黙が訪れた。

 「やはり,そうですか。私が相談を受けていた時も,あの子はアヤちゃんが絵を描いてくれたとか,誕生日を一緒に祝えてよかったなどと,まるで自分の姪のような話しぶりでした。ですから,ですから余計に,こんな伝言を書くあの子が想像できないのです。会社に対する愚痴ならまだわかるのですが,これでは,何かがあったとしか思えません。」

 そして,それがどうやら私にも関わっている。伝言を素直に受け取るなら,私の連絡に出るはずがない。あくまで「素直に受け取るなら」という仮定でだが。その仮定そのものが,あり得ないのだ。「事態が事態」,なるほど,これは何かが起きている。もしや,いや,そんな想像はしてはいけない。まずは,本人に問いたださなければ。

 中山さん,彼女の住まいへは,私が行っても宜しいでしょうか。伝言からすると,問題は,私と家族に関わっていると思われます。無断欠勤による懲戒解雇は免れないかもしれませんが,それ以前に,心配しなければならないことが,いえ,何でもありません。

 電話口の向こうで,中山さんが「お任せします」と告げ,本日の会議が終わり次第,住所を書いたメモと例の伝言を持って,営業部へ立ち寄ると約束した。通話を終えて,会うまでは仕事に集中しようとしたが,何か釈然としなかった。

 なぜ,「付箋」などに伝言めいたものを。こちらの住所は知っているのだから,裏書きに名前だけ記して(場合によっては,名前も伏して)送れば済む話ではないか。会社のコンピューターに貼ってあっては,見逃されて,そのまま破棄される恐れもあろうというもの。見つけられればそれで良し,見つけられなければそれまで,ということだろうか。——

 外回りは散々だった。プレゼンは,どちらかと言えば,得意な方だったが,初めて「とちった」。新顔の紹介も兼ねていたのに,後輩の面子を潰してしまった。構いませんと言っていたが,ミスを連発する先輩に,さぞかし肝を冷やしただろう。綾子を失った辛さから,ようやく解放されたのに,まさか反面教師になるミスをやらかすとは。

 帰社すると,部局を仕切っているアクアリウムの前に,「中山」と名札をつけた女性が佇んでいた。後輩を先に戻らせ,例の二つのもの,そしてそれに加えてもう一つメモを手渡しされた。メモには「何か分かりましたら,連絡いただけますか。」と書いてあり,LINEのコードと携帯電話の番号が記されてあった。そそくさと離れたのは,怪しまれないためだろう。

 住所は比較的利便の良い都心の一画,最寄り駅も歩いて数分ほど。近くは営業で回ったこともあり,土地勘が働く場所だった。問題の「付箋」には,急いで書いたのか,自分の見たことのある字よりも,少し乱れているようだった。中山さんが見つけてくれなければ,社内報の人事異動で知るところだ。ともかく仕事を終えて寄ってみるとして,果たしてこのマンションにいるかどうか。

 ふと,付箋に目を戻したときだった。頭のなかで,何かが像を結んだ気がした。白い空間,銀色の細いペン,吊り上がった口角———これは,どこかで見た光景のような。しかし,それも一瞬だった。急上昇する飛行機の座席についているように,耳の奥がぼうとなって,頭痛がした。何だろう,フラッシュバックの類か,にしては,事故とかの場面ではなかった。

 頭痛は,仕事終わりまで続いた。痛みは,頭の芯から波状に頭蓋へ広がる感じだった。このような頭痛は初めてだった。それと知らずに疲れが溜まっていたのだろうか。通りすがりのドラッグストアで,痛み止めと水を買い,すぐに服用したが,佐和子のマンションに着くまで,波状の痛みは治らなかった。むしろ,激しさを次第に増していくようにも思われた。

 ガラス張りの広い玄関ホールで,四谷の住む部屋の番号「四◯八」を,痛みをこらえながら押した。案の定,誰も出ない。二度押したが,出ない。やはり,実家に帰省したものと思われる。念のため最後にと思って,キーをタップしている時,なぜか指が動いて,他の数字もタップしてしまった。頭痛から来る「めまい」のせいだろうか。しかし,それはセキュリティ・ロックを解除する番号だったようだ。

 ずっとここに立っていては怪しまれると思い,広くて明るいエントランスに入った。右手の中ほどにエレベーターが見える。ロックが解除されたのは偶然だとして(そうした説明も,もし佐和子本人が居てくれれば,必要ないだろう),部屋の前まで行って確認するとしよう。インターフォンのコードが抜かれている(抜けている)可能性もある。それで反応があるなら,親族だと思って対応してくれるかもしれない。

 だが,そうした佐藤の推測,ないしは憶測は,まったく無駄だった。四◯八号室の前に,男性とも女性とも判別し難い(洋装からすると,男性だが)人物が立っていた。その服の色は,白大理石を模した壁に吸い込まれそうであったため,もう少し壁よりに居たら,きっと見逃していただろう。その人物は,微笑むというよりは,ほくそ笑むかのように口角を,きっと吊り上げ,佐和子の部屋のドアノブに手をかけた。

 待て,あなたは誰なんだ。と声を出すが早いか,佐藤はすでに佐和子の部屋の中に入っていた。玄関にも,その奥にも灯はついていないようだった。それでも奥の部屋まで検討がつくのは,奥の扉の中央に,縦にはめられた磨りガラスから,漏れる青白い光のためだった。カーテンが開けてあるのか。その前に,先の怪しい人物はどこへ行ってしまったのだろう。

 音を立てないように靴を脱いだのは,得体の知れない人影への注意のためか,それとも,奥の部屋に「想定される」恐ろしい出来事への,無言の恐れの表れのためだったかもしれない。靴下のまま,つるりとした床を奥の部屋へ目指す。磨りガラス越しに確認したところでは,室内に動くものは無いようだ。気配もしない。そっとノブに手をかけ,ゆっくりと扉を開いた。そのとき,突如として,辺りは白に染められた。

 「呪わしいですね。まったく。あなたの周囲には,いえ,あなたが他者の悲しみの中心軸になっています。あなたの記憶と感情の連関を解いたのに,さっそくこの始末ですよ。まったく呪わしいことです。今度は,あなたの大事な方たちに良くし,あなたに尽くした人まで巻き込むとは。」

 オフホワイトのテーブル,空間,そしてメタリック・シルバーのペン。ここは来たことがある。だが,はっきりとは覚えていない。なぜここの記憶があるのだろう。夢か何かで眼にしたのだろうか。

 部屋の外に立っていた人物が,向かいの席で口角を吊り上げた。

 「いえ,夢ではありません。現実に,あなたとこうして向かい合いました。まあ,本来であれば,一度きりで済むところですが,この度は事情が違うようです。あなたの連関を解いたのと,直接関係があるかどうかは,今のところ,私にも定かでありません。ただ言えるのは,連関を縛るものが動いている,ということです。」

 連関,連関と言われても,何のことかさっぱり分からない。それに,佐和子は,いや,四谷さんはどうなったのだ。どこにいる。あなたが,あなたが何かしたのか。

 「今度は質問攻めですか。困りましたね。そうですね,結論から言えば,あの方は大丈夫です。それよりも,連関の方ですが,同じ相手に二度も説明するほど,私は暇ではありません。いずれ時期が来れば,「思い出す」かもしれません。ここが大事ですよ,「思い出す」かもしれない。さて,問題は連関を縛るものです。私が,悲しみを楽しみへと「想起させる」とすれば,向こうは楽しみも悲しみも,すべて悲しみへと「上書き」してしまいます。」

 真の絶望とは,悲しみの箱のなかに閉じ込められ,閉じ込められたことも忘れて,うずくまってしまうことです。そう,その人物は,細いペンでテーブルをコツコツと叩きながら,断言した。

 「あなたたちの文化では,「深淵を長く覗き込めば,深淵もまた覗き返す」と言い古されているようですが,要は眼差しを投げる方が,常に主体であり続ける保証はないということです。「悲しむ」とは,主語が人間になりますが,「悲しみがつかむ」と言えば,主語は悲しみになります。」

 その話がどう佐和子とつながるのですか,佐和子は本当に大丈夫なのですか。

 「それはご自分でお確かめください。先にも申し上げたように,彼女は大丈夫です。大丈夫ではありますが,治療が必要ですね。あとで病院にでも連れて行ってあげてください。仕事は,もう当分無理でしょう。今度はあなたが,あの方に尽くすのです。あの方の働きなければ,今のあなたはいなかったでしょうから。」

 白がすうっと,かき消えた。あの青白い光は,外れたカーテンレールから,向かいのビルの灯がはいっていたものだった。佐和子は,カーテンの端をつかんだまま,ソファーの向こうに突っ伏していた。名前を呼び,抱き起こして,あの消えてしまった人物の言ったことが,理解できた。その眼は悲しみに窪み,その身体は悲しみに痩せさらばえていた。

 何度か「試みた」のだろう。左腕に巻いてある血の滲んだ包帯が,痛々しかった。それでも,私と分かると,全身を震わせて,声にならない嗚咽を漏らした。何がこれほど佐和子を追いやったのか,なぜ佐和子は不可解な伝言を残したのか。それをすぐに確認することはできなかった。私に説明する言葉を,そのときの佐和子は失っていたからだ。

 抱きしめた身体は,ようやく温もりを戻しつつあった。私は,あの人物が最後に投げかけた謎めいた言葉を,思い出していた。

暗い記憶

 温もりのあるロウソクの光のなかに,アヤちゃんの顔が浮かび上がる。潤んだ目をしながら,頬を目一杯に膨らませる。自分でも「もうダメ」というように,小さい体を大きく震わせる。佐藤さんがそれを見て,笑っている。ふふふ。私はふと暗がりに目をこらす,たぶんあそこの仏壇では,冬子さんも,きっと自分の娘の姿を見ているはずだ。

 「ディアー アヤーコー」の部分で,佐藤さんがアヤちゃんを微笑みながら見やる。わざとゆっくり歌って,頬の大きな娘をできるだけ長く見ていたいのだ。もう我慢できないと,アヤちゃんが目をつぶって,ぶうっと溜めた空気を吐く。一度で炎は消えないので,アヤちゃんはムキになる。その姿が笑いを誘う。ようやく三本とも消えて,辺りが暗くなる。

 私の膝の上には,すでに「ウッディ・プティ」の野菜セットが,大きなリボンをかけて準備してある。悩みに悩んで,けっきょく安全な木製で,教育にもなるこれを選んだ。佐藤さんにも,まだ見せていない。どんな風に受け取ってくれるだろう。

 携帯電話でフラッシュをたいた後も明るくならない。そろそろ灯をつけても。佐藤さん,どうしたんですか,電灯つけないのですか。それとも暗がりのなかで,アヤちゃんを抱っこしているんですか。二人の声も聞こえない。と,あれ,ロウソクがまた,それも白く太いロウソクが———ここは,たしか。白布の台を前に私は立っている。私は布の下が何か知っている。ううん,誰なのか知っている。小さな小さな体。

 外回りに持参してもらう広告の打ち合わせで,営業部に寄っていた。そこで佐藤さん宛の電話を聞いてしまった。信じられなかった。信じたくなかった。けれど,気持ちと体はすで病院に向かっていた。半休になろうが,始末書ごとになろうが,どうでも良かった。けれど,それなのに,着いた時にはもう。——付き添った私の背後に,あの暗闇のなかに,ふたたび佐藤さんが座っている。冬子さんの時と同じく,ううん,ずっと濃い暗闇の中に。

 「四谷さん,忙しいのに,すまなかったね。少しでも付き添ってくれて,綾子も嬉しかったと思うよ。ぼくが外回りに出ていなければ,四谷さんに苦労をかけなかったのに。」

 佐藤さん,何も言わないでください。

 「綾子は,本当に四谷さんのこと,慕っていたからね。いつでも「おねえちゃん,おねえちゃん」って,自分の姉のように。いや,冬子を亡くしたことは,まだ理解していなかったようだから,お母さんのつもりだったかもしれない。四谷さんには,感謝しても感謝しきれない。」

 佐藤さん,お願いです。もう何も言わないでください。

 「いずれは,あの子が大きくなって,それでも可愛がってくれるなら,いろいろ任せようと思っていた。男親には分からないことが多いから。ランドセルの色一つも,今は種類が多いし。その前に,卒園式もあったか。ははは。」

 佐藤さん。

 空気が淀んだ。線香の煙が生臭い。ロウソクの炎が細く長くなってゆく。カタカタと音がする。音が出る方を求めると,綾子ちゃんが乗っている台が揺れている。白布がだんだん激しく震える。何,何なんですか,佐藤さん,これは。何が起きているんですか。

 「何でもない。起きるべくして起きたのだよ。すべては。」

 佐藤さん,何を言っているんですか。——佐藤さんの声が,気のせいか軋んでいる。喉に何かが詰まったような感じだ。

 「君は良いね,結局は赤の他人だ。綾子の代わりはいくらでもあるだろう。それに,君はまだまだ若い。こんなことは,いずれ忘れてしまい,新しい楽しい思い出が,その上にすぐに積み重なってゆくのだろう。」

 佐藤さん,どうしたんですか。何を言っているんです。

 「君のこれからの人生にとっては,取るに足らない記憶だ。仕事に趣味に懸命になり,パートナーを見つければ,「そういえば」ぐらいの重みしかなくなる。そうそう,膨大な記憶のわずかな一部にも足らなくなる。埃(ほこり)程度でしかなくなる。」

 佐藤さん,いい加減にしてください。

 「いい加減。何を勝手に。お前が姉代わりだったと,母親代わりだったと。笑わせるな,たかだか同じ大学の後輩で,同じ会社勤めだったくらいで,そんなつながりなど出来るものか。自惚れは,それこそ「いい加減」にしてもらいたい。誰かの代わりなど,所詮人間にはできないのだ。」

 そんな風に私に当たらなくても,佐藤さん,私だって言葉にならないくらい,すごく悲しいんです,信じたくないです——息が上手くできない,肺に酸素が入らない,意識が薄れていく。これは,佐藤さんではない,誰か別の人が,悪意をむき出しにして,私にこんなことを言っている。佐藤さんは,絶対にこんなことは言わない。言わないはず。それとも,本気で。

 オフホワイトの部屋。同じ色のテーブル。ここはどこだろう。先ほどまで病院にいたはずだが。ふと,目をやると,いつそこに座ったのか。空間に溶け込んでしまう色の服を身につけた人物と,向かい合っている。男性のようでもあり,女性のようでもある。中性的な感じだろうか。

 「随分と辛い体験をされたようですね。身近で親しいと思っていた方から,「赤の他人」扱いをされ,自分も身を切る悲しみを感じているのに,その共有を拒まれた。挙句が罵倒です。そんな風にされれば,誰だって深く傷つきます。息も苦しいほど。」

 目の前の人物は,メタリック・シルバーの細いペンを,胸のポケットから出して,しげしげと点検した。この柔らかい白の空間のなかで,唯一そのペンが異物としてギラギラと光る。

 あの,あなたは誰ですか。どうして私の——あれは,現実に「体験」したことだろうか,それとも「夢」だろうか。霊安室で,佐藤さんは……どうしていただろう。たしか遅れて出先から駆けつけたはずだから……

 「お忘れでしょうね。往々にして,記憶や思い出というのは,覚えているように見えて,忘れているものです。この紙のように,何かしらの印があれば,名前をつけ,分類して,いわば記憶の棚に整理しておくのが可能ですが。」

 ペンを置くと,その人物は,おもむろにテーブルの上の紙をこちらへ差し出した。テーブルに紙などなかったはずだけど。その紙を見て,私は驚いて声をあげた。それはアヤちゃんが,いつか描いてくれた,アヤちゃんと私の絵だった。長丸に長い髪,大きな目,それをアヤちゃんは「おねえちゃん」だと説明した。「となりはだあれ」と尋ねると,「アヤ」と小さい丸に小さい目を指差した。その絵がなぜここに。

 「ここにある理由はどうでも良いでしょう。それよりも,この絵です。全体が同じピンク色で描かれています。その子にとっては,その子も,あなたも,その子の家も「分節化」されずに,同等なものなのです。あなたは,それに気づいて,喜んだのではないですか。自分がその子の世界のなかに,違和感なく住んでいることを知って。」

 その人物は,両肘をついて,手を顔の前で組み合わせたので,少し声がくぐもって聞こえた。私は,たしかに,この絵を見せられて喜んだ。同じ色に意味があったのかは知らない。一つの絵のなかに「おねえちゃん」として,入れてくれたのが嬉しかった。涙が溢れてきた。

 「おっと,それに涙を落とされては困ります。借り物ですからね。」

 さっと私の目の間から絵を引っ張って,テーブルの向こうの端に置いた。

 「「その子」「絵」「喜び」。どのように名付け,どこに分類しようとも,これは入れておいた棚から出せるものです。あなたが望んだ記憶ですから。他方で,あの辛い体験に対しては,あなたは名付けも分類も拒みました。ですから,どこにも収められていないのです。まあ,一種の催眠術を用いれば,いくらでも引き出すことはできますがね。」

 両手を組んだまま,右手で持っているのだろうか,銀のペンを振り子のように左右にリズムをつけて振った。その身振りは,お望みなら今からでも,催眠術をかけますが,と言っているようにも思えた。

 私は覚えていなかったのだろうか。アヤちゃんを失った悲しみのあまり。それとも,この人の言うように,記憶が拒んだのだろうか。佐藤さんの——いや,やっぱりどう考えても,佐藤さんが「あんなこと」を言うはずがない。冬子さんが亡くなられた時も,静かに,黙したまま,それだけ深く悲しんでおられるようだった。それともアヤちゃんだから,特別だったのだろうか。

 「良いですか,先ほども申し上げたとおり,名前がつけられず,分類もされていないのです。思い出そうとしても無駄ですよ。あなたは,他の方の死は想起できましたね。「その意味」をお考えください。その死と「その子」の死の違い。その死は,きちんと整理されて,棚の中に入っていたのです。そして,男性の言葉は棚の中に「入っていなかった」。」

 愕然とした。その人物の言うとおりだ。冬子さんのことは覚えている。佐藤さんが悲しんでいた姿も,私が小さいアヤちゃんを胸に抱いていたのも。でも,アヤちゃんの時のことは覚えていない。そんなことがあるのだろうか。では,佐藤さんが私に言った言葉も,本当だったのか。——いや,違う。そうなら,どうして私は思い出すことができたのだ,今になって。

 きっと目をあげて,向かい合った人物を見ると,先ほどの中性的な感じとは違い,完全に女性の容姿をしている。そして,口角が左右とも人間と思えぬほど,吊り上っている。テーブルの大きさが縮んでしまったように,顔を付き合わせる形となったので,思わずのけぞった。

 「そうです。良くお気づきになりました。少し細工をさせていただいたのです。棚から落ちていた記憶を,「その子」「死」「佐藤さん」と名付けて,「その子」の棚に入れておきました。あなたが,「その子」を思い出せば,自然と連なって引き出してしまうように。事実,その通りになりましたね。「その子」の誕生日の記憶から,「その子」の「死」,それから「佐藤さん」へとつながりましたね。」

 まさか。どうして。どうして,そのようなことをしたのです。私はそんな記憶,引き出したくはありません——え,え,ということは,佐藤さんが口にされたのは本当のこと。本当の記憶なの。そんな,そんな仕打ちを,佐藤さんがするわけない。

 「どうやら,ようやく少し理解してもらえたようですね。なぜ引き出してあげたのか。いえ,あえて引き出したのには理由があります。人は辛いことがあると,名付けを拒み,分類を拒みます。それは,ある種の「逃避」であり,ある種の「忘却」です。そうするのが良いこともあります。例えば,自分だけに関わるものであれば,棚なんかに入れない方が良いでしょう。ですが,今回の場合は,今後のあなたと「佐藤さん」に関わってきます。」

 その人物は,打って変わって柔和な表情を見せ,話を続ける。

 整理せずに放置すれば,いずれそれが致命的な問題となって,二人の間に横たわる。歪みを生み出し,二人の関係性を損なう。それが,どういう意味か分かるか。本当の「佐藤さん」を知らずに,「佐藤さん」と深く関わろうとするのか。それは虚偽であり,欺瞞ではないのか。

 私は反論する言葉を失っていた。そして,その人物の言葉は,私の芯を,拳で殴るように揺るがした。

 「もう一つ,あなたが棚に入れていない記憶を見せましょうか。「佐藤さん」にまつわる記憶です。あなたは,決してその子の「姉」に収まるつもりはなかった。「母親代わり」もするつもりはなかった。あなたは,男性としての「佐藤さん」を求めていた。しかし,自分の想いを禁じた。その子に悟られてはいけない。その子はあなたが「佐藤さん」とつながるための「道具」にすぎなかった。」

 私には見えている。佐藤さんのベッドの中で,佐藤さんに舐められ,噛まれ,首からつま先まで,時に激しく愛撫されるのを。そうして身体の奥から,温かいものが太ももを伝わり,佐藤さんが入ってくるのを。揺すられながら,佐藤さんの背中に爪を立て,声にならない声を発するのを。淫らなオレンジ色の光の中で。

 頭に浮かんだ像が,細いメタリック・シルバーの光に消えた。蛇のような目で,その人物は私の頭の中を覗き込む。視線が,眼窩からするりと入り,身体中を駆け巡る。私は思わず自分を抱きすくめた。

 もう,もう,やめてください。本当にやめてください。どうか,お願いしますから。——私は,アヤちゃんを「道具」にして,佐藤さんに近づいたのか。それが,私の本当の意志だったのか。押し殺そうとしただけで,本当は,心の底ではずっとそう願っていたのか。私は,私は——

 「そうですね。まずは,それらの「隠そうとした」記憶を,名付けましょう。「暗い欲望」でも,「暗い衝動」でも構いません。他に良い名前があればご自由に提案なさってください。分類は,そうですね,「性欲」か「支配欲」とでもしておきましょう。かつて,そうした「欲」が一切なかったとは言わせませんからね。そこに一緒くたに放り込んでおけばよろしいでしょう。そうすれば,「性欲」を想起するたびに,淫らな記憶が呼び起こされるわけです。」

 涙にゆがんだその人物は,すうっと引き伸びて行き,持っていたペンのように細くなった。私は,裸のまま汚物に放り込まれたように,なすすべなく,椅子に腰掛けたまま,放心していた。アヤちゃんの思い出も,佐藤さんの思い出も,この汚物の中では引き出すことができなかった。

エル・インネル

 こういうアニメをご存知ですか。そう遠くない未来,身体は義体に替え,脳は一部を除いて電子化します。身体も脳も,有限,言うなれば「時」から解放されます。テロメアなど,もはや無関係です。そして,記憶の出し入れも自在です。覚えこんだり,詰め込んだりする必要は無くなります。

 目の前のその人物は,おもむろに細い金属のペンを取り出した。メタリック・シルバーのその先で,自分のこめかみをコツンコツンと打つ。

 こうやって,メモリーをUSBのように,いえ,USBも必要ないですね。オンラインで「挿入」するのです。便利至極です。ところで,そのような技術が可能な近未来が訪れる,と仮定しましょう。あなたも新たな身体と,新たな脳を手に入れたとします。とここで,一つ問題です。——

 妻が遺した愛娘を失った。ちょうどひと月前のことだ。おたふく風邪の初期らしき兆候を見せたと思ったら,すでに脳が炎症を起こした。そこからはあっという間だった。外戻りの最中に,営業部を通じて知らせを受けた時には,娘はすでに危篤だった。

 遺体から離れようとしないので,無理やり引き剥がされたらしい。「運が悪かったのです。お父様,どうかご自分を責めないでください。」と言われた記憶はかろうじて残っている。

 自分を責めた。異変があったはずだ。それとは知れない微かな兆候があったはずだ。幼稚園へ送る前に気づいていれば,いや,その前夜,寝かしつけるときに感じていれば。そもそも,仕事を家に持ち帰らなければ。いや,お義父さんとお義母に頼っていれば。もう少し余裕があれば。暗い一点に向けて,すべてが集まり,すべてが吸い込まれていった。

 「佐藤くん。ちょっと,良いかな。」課長に連れ出されるように,談話室へ向かう。

 「言いにくいのだが,娘さんのこと,本当に残念だった。私も息子を事故で無くして,数年は,いや,今でも,受け入れられない自分がいる。だから,こういうことを告げるのは,私としても非常に辛い……君が慶弔の有給を終えてから,二週間。まったく仕事が手につかないのも無理ない。それは分かるつもりだが,どうだ……」

 しばらく休めか。客観的に見れば,今の自分は「使い物にならない」のだろうな。チームの士気を落とすどころか,すでに企画の足を引っ張っている。しかし,課長の言葉は,自らもかつては当事者だったという仮面をつけながら,「やんわり」と戦線離脱を促している。猜疑心か,いや本心だ。

 綾子がいなくなってしまった——そんなこと実感できるはずがない。はずがないが,耳の底にしかあの子の声が聞こえず,夢の中でしか会えない現実は,実感を叩きつける。不在の実感をこれでもかと叩きつける。どうやら自分は,妻が生きているときは,妻のために,妻を失ってからは,あの子のために,働いていたらしい。

 それ以外に,自分を仕事へと駆り立てるものはなかったのか。パートナーを持つとは,子どもを持つとは,そういうことなのか。しかし,体の肉を素手で,じわじわともぎ取られるような痛みは何なのだろう。耳元で絶望が叫ぶのを毎夜聞くのはなぜだろう。二人が,せめて綾子が戻ってくれるのならば,何をされても耐えられるが。

 そんなことは,無い。そんなことは,あり得ない。もう,終わりだ。終わりにしよう。

 窓を開け放した。六月の初旬は,まだ夜が冷える。靴下を脱いでベランダに出る。遺書は要るまい。理由は疑いようがない。ベランダのコンクリが,夕方の熱を完全に失っていた。逢えるか逢えないか。いや,いずれせよ。もう限界だ。

 暗くした部屋の中で,固定電話が鳴動し,辺りに緑のぼんやりとした光を放つ。こんなタイミングに,誰が。コール音は四回し,留守番電話に変わった。

 「……もしもし,佐藤さん,そこにおられますよね。四谷です。」四谷。四谷左和子か。大学の後輩で,同じ会社の広報室にいる彼女か。妻とも娘とも仲良く付き合ってくれた。妻が亡くなってからは,綾子が懐いて——思い出で苦しめるか。もう放っておいて欲しい。「アヤちゃんのことで,いえ,佐藤さんのことでお電話しました。アヤちゃんに会いたくないですか……。」

 なに,綾子に。会う。何を言っている。綾子は死んでいるんだぞ。認めたくないし,認めないが,それでも「ここ」では綾子には会えない。「……嘘だと思って,話だけでも聞いてください。お願いします。それでは,くれぐれも体に気をつけて,睡眠は取ってくださいね。」

 左和子は嘘をつくような人間ではない。危篤から通夜,葬儀まで付き添ってくれ,そのあとは少し離れて,自分を見守ってくれていた。言葉に出して何かをされるより,無言で「いない事実」を共有してくれる方が,ずっと嬉しいが,それだけに悲しみは深くなる。

 考えてみれば,佐和子のあれは,「気丈な」振る舞いだったのだ。あれだけ綾子のことを可愛がってくれたのだ。そう,まるで自分の姪のように。喪失感が自分だけだと思い,一人悲しみに浸っていたのだ俺は。そうして,それに気づかなかった。

 もし,自分がこのまま消えたら,佐和子は……佐和子に罪は一切無い。

 裸足のまま入り,ソファーに投げ出した上着から,携帯電話を取り出した。四谷左和子の名で二十件の履歴があった。——

 とここで,一つ問題です。

 テーブル越しだったのに,この言葉を発した途端,その人物の上半身が一瞬こちらへ伸びてくるように見えた。圧倒されて,つい後ずさりする。

 新しく入れ替えた脳に,あなたの記憶ではない記憶が,移植される。としたら,どうなるでしょう。あるいは,あなた自身が移植したのに,記憶がすり替えられていたら。

 「それは——私の記憶ではないのですから,私ではなくなる——ということでしょうか。でも,記憶だけで人間ができているわけではない……」

 メタリック・シルバーの細いペンを,今度は嗅ぎぐように鼻元にもって行き,その人物は,目をじっとこちらに向けて動かさないまま,左右の口角だけを心持ちあげた。つり上がった口角だけが,私の目を奪った。

 そうですね。脳だけが記憶を司っているとは言えません。が,それでも,記憶のほとんどは脳の管轄下です。そして——厄介なことは,記憶と感情が結びついていることです。

 「記憶と感情が,それはあるエピソードを思い出すと,喜んだり,悲しんだりする,という意味ですか。」それでは,別段,こんな人物に説かれるまでもない。ごくごく当たり前のことだ。

 当たり前のこと,とお思いですか。ふむ。なるほど。

 「いえ,そんなことを言ってはいません。ただ,そういうことは往々にあるのでは,と思っただけです。」表情に出てしまったか。

 これをご覧ください。普通のよくある紙です。

 「はい。」再生紙を思わせる茶色のA4サイズの紙を,その人物は両手で,上の両端をつまんで,自分の顔の前に吊り上げた。このオフホワイトのテーブルに,いつ準備したのだろう。出すところは見ていないが。

 よろしいですか。では,次にこうします。テーブルに戻すと,今度はペンでさっと何かを書いた。そして,それを同じく両手で端をつまみ,自分の顔の前に出す。そこには,楕円状の不器用な円が書かれていた。

 「あの,これが何か。」手品か何かだろうか。事前の説明もないので,何をしたいのか,何の意味があるのか,まったく見当もつかない。

 そうですか。では,少し説明します。最初の方,まっさらな紙。次の,私が変な形の円を書いた紙。二つの紙を見せられたあなたは,それぞれ,どこを見ていましたか。

 「ええと。」最初の紙の時は,どこを見るでもなかった。何も書いていないのだから当然だ。一方,楕円が書かれた方は,楕円を見ていた。「最初のは,別にどこも見ていませんでした。二つ目は,楕円を見ていたと思います。」

 その人物は答えに満足したように,紙をテーブルにゆっくり置いた。

 その通りです。最初は,どこも見ていず,次のは,楕円を見ていた。では,この紙を記憶だと考えてください。最初のがまっさらな記憶,次のがマーキングされた記憶。

 「どういうことでしょう。」いよいよもって訳がわからない。紙が記憶だと。

 まあ,そう眉間にしわを寄せないでください。こう言い換えたら,少しはお分かりになるかもしれません。先ほど,記憶と感情の話をしました。まっさらな記憶は,感情を伴わない記憶です。他方の,マーキングされた記憶は,感情を伴う記憶です。

 「あの,まだ完全に理解できないのですが。」

 記憶というのは,元来この紙のように——そうその人物は言って,楕円を書いていない面を見せた——まっさらなのです。そうでなければ,見るもの聞くものすべてをストックすることになり,メモリーはすぐに溢れてしまいます。

 このように——今度は楕円が書かれた面を見せた——まっさらなものの中に,定点となる「しるし」をつけます。そして,「しるし」の有無で,優先順位をつけて引き出しやすくするのです。

 「それは,なんとなく分かりました。ですが,感情の方は。感情がどう関係するのでしょう。」

 この「しるし」には色々あります。それこそ,色であったり,匂いであったり,手触りであったりもします。もちろん,感情でもあります。とくに悲しいという喪失感は,記憶に消えがたい「しるし」,いえ,刻印を残します。刻印が深ければ深いほど,記憶はそれに囚われます。——

 「佐藤さん。変な言い方ですが,来ていただいて,本当にありがとうございます。あの,ここ数日でずいぶん,その,辛い思いをされていたようですね。」

 四谷の視線を,無精髭で縁取られた顔の細い輪郭に感じた。「やつれた」と言いたいのだろう。呼び出されなければ,髪の毛に櫛も入れずに乱れたままでいるところだ。佐和子も「やつれて」いる。悲しみは,共有できても,それぞれがそれぞれの重さを,現実を背負う意味では,分有はできないのか。

 「あ,すみません。ジロジロ見たりして。食欲が無いのは分かりますが,先にフレンチトーストを頼んでおきました。あっさりしていて,あと野菜スープも付いてますから,少しでも口にしてみてください。」

 行きつけのカフェか。こんな場所に三十過ぎの男は,しかも打ちひしがれた何者ともしれぬ中年は,いかにも不釣り合いだ。と,見ると佐和子は,両腕でほお肘をついて,手で目を覆っている。

 同じ姿勢のまま,嗚咽を隠すように,努めて静かに佐和子は話した。

 「ここ,アヤちゃん,好きだったんです。カフェのテラスをぐるりと,綺麗な水路が囲んでるんで,少し目を離すと,すぐに水をパシャパシャしていて。あまりに楽しそうなので,こちらもちゃんと注意できなくて。」

 四谷さん。——君も辛いのに,本当にすまない。口ではそう言いながら,すぐ脇を綾子がパタパタと,跳ねるように走って行って,しゃがんで水を手で叩く姿が見える気がした。

 「すみません。思い出したいのに,思い出すと,辛くて辛くてしょうがないんです。なんで,冬子さんじゃなくて,綾子ちゃんじゃなくて,私が生き残ったんだろうって。——こんなに辛いなら,自分がいなくなった方が……」

 四谷さん,もうそれ以上は言わないで。冬子も綾子も,そんなこと望んでいない。ぼくも同じです。むしろ,あの二人の分も,お願いだから,生きてやってください。ぼくが二人なら,そう願います。……

 佐和子の両手と顔の隙間から,溢れた涙がガラスのテーブルに落ちた。

 「もし,そう思って下さるなら,こちらに連絡してください。佐藤さんの想いと思い出は,いえ,悲しみは何とかなるかもしれません。お願いします。本当にお願いします。」そう,四谷佐和子は言って,涙をぬぐいながら伝票を取ると,メモを押しつけて行った。携帯電話らしい電話番号だけが書かれていた。

 その連絡先に電話をしたのは,しかし数日後のことだった。切々とした懇願は分かったが,それでも四谷の話には釈然としないものがあったからだ。何度か途中までプッシュしては止めた。

 広報室は営業部と離れていたので,四谷に会うことはなかった。顔を合わせたら,それに背中を押され,もっと早く電話していたかもしれない。いや,それも分からない。ただ,眠る口実と忘れる口実から——本当は前者しか叶わなかったが——つい酔いすぎて,最後までプッシュしてしまったから,だけだった。

 驚いたことに,電話向こうの女性は,こちらの姓名をすでに把握していたようで(四谷が教えたのだろうか),ある雑居ビルに何時来るようにだけ告げた。そうして,あの人物との対面が始まった。——

 刻印が深ければ深いほど,記憶はそれに囚われます。佐藤さん,あなたが楕円を与えられた瞬間に,そちらを見続けたように。さて,先ほどの話に戻りましょう。新しい脳を手に入れたあなたに,別の記憶が移植された場合どうなるか。一つの答えは,その記憶は感情でマーキングされていますから,あなたは感情をも入れ替えられることになるというものです。

 「感情はそれ独立のものではなく,上から覆われたものでもなく,記憶と結びついている,ということですか。」その理屈はわかるのだが。

 そうです。感情は決して記憶の上澄みではありません。記憶の形成に関わる,いえ,記憶そのものでもあるのです。記憶そのものであるという危険性——いえ,これは今ここでお話する必要はないでしょう。ですから,あなたが囚われている深い悲しみに,手を加えようとすれば,記憶を少しばかり改ざんしなくてはなりません。

 「記憶の改ざん。それはマインドコントロールのようなものですか,それとも,心理療法のようなものですか。」そんなことは聞いたことがないが。

 男は銀のペンを器用に,くるくると指から指へ回した。また,左右の口角が心なしか上がったように見えた。

 いえ,違います。「記憶の改ざん」とは,文脈からそう言ったまでのこと。正確には,感情の改ざんです。言うなれば,先ほどのお話のマーキングを少しずらすのが,この方法です。と,申しましても,また新たな疑問が出てくるでしょうから。簡単に図示しましょう。

 そう言って,その人物は再生紙状の紙に,今度は二つの文を書いた。

 A 大事な人を亡くした 悲しい

 B 大事な人を亡くした でも楽しい思い出がある

 この二つの文の「後半を入れ替える」のが,例のマーキングを入れ替えることになるのだと言う。果たして,そんなことが可能なのだろうか。

 二つの文章の後半部分が,記憶と結びついた,いえ,記憶そのものになっている感情を表しています。「悲しい」を「でも楽しい思い出がある」に入れ替えるのが,私たちの仕事です。一見,行動療法,心理療法を連想させますが,まったく似て非なります。私たちのは,一瞬です。そして,一生です。あなたの大切な奥様とお子様との大切な思い出を,楽しい思い出に変えさせていただきます。

 「あなた,方は,一体,何者,なのですか。」その圧倒的な言葉の力に押されて,切れ切れにようやく声にした。

 紹介が遅れました。私は「エル・インネル」の代表Mです。あなたを悲しみから解き放つ者です。

マヨイガ

 それは荘厳な宮殿だった。かつて祖父が村民で初めて訪れたという,琉球首里城とは,もしかしたらこのような城だったのかもしれない。しかし,ひと一人通れるほど開いた青銅色の門は,その自分の知らない日本の南の地にある城にもあったのだろうかと訝しむほど,あまりに巨大であった。

 奇妙な文字が,金属の扉のうえに浮き彫りにされている。仏教だろうか。それとも,密教の類だろうか。文字それ自体は,どこかで見たことがあるような気もする。どこまでも青い空めがけてそびえる扉を前に,尾見はどうしても人心地がしなかった。

 このような場所に,なぜ来てしまったのだろう。先ほどから何度見回すも,あたかも透明な通路から出てきたように,ここへ通ずるはずの「入口」はどこにも見当たらない。あるいは,自分が出て来ると同時に,消えてしまったのだろうか。

 そろりと,開いた青銅の扉の間から身を入れる。「あのお。あのお。すみません。」と呼ばわるが,この広大な,しかし,誰一人見当たらない宮殿から,応える声はない。音もしない。空は気味が悪いほどに,微塵の雲もなく,どこまでも青く澄みきっている。赤土が混ざっているのか,赤茶の色の地面を,踏みしめつつ,当て所なく歩みゆく。

 ——尾見の祖父の父,彼から見るなら曽祖父に当たる人物は,いわゆる「神隠し」に遭ったのだそうだ。祖父,つまり息子をもうけ,家の近くに自らの田圃を手に入れ,さて初めての収穫というときに,忽然としてその姿が見えなくなったという。

 「ちょうどお前くらいの年端じゃったろうて。その年の夏に起きた地割れで,地所を失ったり,畑を陥没させる者が多く出たなか,うちは不思議と災害から免れた。それは羨ましがられたものじゃ。隣の家が潰れたのに,なぜにうちだけ無事かろうとな。子供ながらに,ワシも周りから羨ましがられたわい。」

 しかし,それは別の災厄の前触れだったのかもしれない。

 災害を免れて,祖父の父,謙之介は,近隣の羨望の目にさらされていた。もっとも,それは無垢なる「僻み」ではない。助け合いを信条とする寄り合いにあって,潜在的にそうした感情があったとしても,それは黙して語られることはない。明日は我が身の災害,幸運はまさに神の恵みに等しいからだ。

 そんな折のことだった。「村役目」として,地割れた田畑への土運びが,終わって一息つき,共同の作業を再開しようとした。他の者が腰や肩をさすりながら,集会場へ集まる。しかし,いつまで待とうとも謙之介ひとりは来なかった。戦前のこととて,また,寒村のこととて,「サボタージュ」を疑う者はいなかったが,待てど暮らせど,謙之介は現れなかった。

 仮に村役目を「放棄」などすれば,羨望はたちまちに僻みへ変じたことだろう。持てる者がひっそりと「羨まれる」のは,昔とて変わりはない。ましてや,収穫量は減りこそすれ,増えるのがなかなか望めない山間地域では,熾火(おきび)のように,妬みは火柱をあげずに静かに熱を帯び続ける。

 「うちの主人を知らんですかね。昼過ぎまで役目に出てたんですが。」と謙之介の妻は,奥早のそれほど多くはない家屋を,一つひとつその戸を叩いて回ったという。むろん,村役目に供出された家も。地蔵盆ひとつとっても,今でいう婦人会の結束は固く,ゆえに女という縛りも制約も厳しかった。ましてや勝手がまかり通る時代ではなかった。

 そして,それでも成果がないと分かると,川を越えた向かいの山の斜面を登ったそうだ。女手ひとつで。今と違い,「よばひ」が大手を振るい,山賊も出たという。曽祖母の覚悟はひとかたならなかったろう。

 その覚悟のかいあってか,奥早の若衆が山狩りを組織し,奥井村との村境まで徹底的に捜索した。宵まで探したが,痕跡はおろか,何の手掛かりも見つからなかった。謙之介は「神隠し」に遭っただろうということに決まった。現実は残酷だ。その頃には,稲刈りまで残すところ一月(ひとつき)を切っていた。

 「ところが」と祖父は続けた。「今の「寄り合い」と同じく,助け合いの精神が発揮されたのじゃ。」不可思議な失踪もあいまって,その精神は助長され,けっきょく,尾見家の田圃の稲刈りから脱穀まで,皆が当番制をしいて援助したという。もちろん,見返りは,地割れを免れて訪れた,豊作からまかなわれた。——

 唐突に曽祖父のことを思い出したのは,自分がこのような場所に,明らかに場違いな場所に,迷い込んだからだろう。もしかしたら謙之介翁も,どこかに迷い込んでしまい,そこから抜け出ようにも,抜け出られなくなったからでは。しかし。

 そうなのだ。今,「抜け出られない」のは,奥早村にいる自分を含め,村民すべて,そして「作業場」に詰めている面々も,また同じ境遇に陥っている。彼らも,我々も,その意味で言うならば,奥早という不可思議な場所に「迷い込んだ」も同然だ。ただ,とはいえ,その迷い込んでいる当の自分が,さらに別の場で彷徨うことになろうとは。

 「尾見さんは,どうしてぼくに「作業場」のことを教えてくれたのですか。」あの糸巻という青年は,自分になんら臆すことなく尋ねた。「作業場」とは名ばかり。折口村長から「そのように伝える」旨を言付けられたにすぎない。糸巻のような青年から中年まで,奥早に迷い込んできた。しかも,皆が皆,記憶を失っている。あの青年を除いて。いや,折口村長も除いてか。彼らは特別なのだろうか。

 しかし,折口村長は何を考えて,あのような言付けをされたのだろう。「あの事態」がなければ,村長たる資格すら怪しい。そもそも白貫のお婆さんが,介添えをしなければ,あんな余所者が村長におさまることなど,なかっただろうに。まったく解せない。そして,解せないといえば,折口が村長におさまってから,「あの事態」は急展開を迎えた。どのような因果なのだろうか。

 朱塗りの,鎧戸のない高床の,神殿のような建物が,探索する間,視界に数棟つねに現れている。これは,昔まだテレビが映っていた頃に見たことがある,あの広島の。そう,宮島の厳島神社のようだ。もっとも,こちらは間仕切りに障子の襖などが用いられ,海や水は無いようだが。——いやまて,あれは泉か,かなり大きい池状の泉が見えてくる。

 尾見は制止する者もないので,いや,制止されるのを心待ちにするように,その泉に足早に近づく。

 うむ,この香りは何だろう。金木犀のようでもあり,もう少し軽やかな甘い香りがする。それに,これは水の音だろうか。こぽこぽと音がする。

 尾見の目の前に,朱塗りの神殿の間にぽっかりと,広い空間が開けた。周りを大きな石が,山がまったく見えないここでは,どこから切り出したのかまったく分からない石が,泉を囲っている。そのなかに,透明な,水をそのまま花弁にしたような花が咲いている。花は栽培も手がけた経験があるが,このような花は見たことも聞いたこともない。

 そして,その花びらの面からは,先ほどのコポコポという,泉が湧くような音がする。不思議だな,これが「神隠し」なら,すべて納得がゆくのだが。ともあれ,これだけの神殿に人ひとり見当たらないのは,さすがに合点がいかない。今しばらく歩き回ってみるか。

 尾見は地下足袋で歩きながら,ふと考えた。これらの建物一つひとつが,何らかの「間」であるとして,どうして,すべては繋がってないのだろう。なぜ,ひとつの棟から棟へ移る時に,いちいち下に降りなければならない造りになっているのだろう。最初から,すべての棟を繋げておけば良いものだろうに。

 たとえば,向こうの渡り廊下から,こちらへ来て,後ろの建物に行くには,少なくとも一度は土を踏まねばならない。わざわざ,履物を替えたのか,それとも土がついたままで,神殿に踏み入ったのか。これだけの建築技術があるのに,意外なところに不便さを残すとは,これまた不思議だ。

 あらかた歩いて回ったが,どうにもしようがない。外にいては埒があかないようだ。

 ここがどのような場所なのか納得もいかないまま,しかし,外観から,日本と通じるところがあると見た尾見は,地下足袋のフックをはずして,階段状の下に揃えると,ひとつの棟にあがって行った。——

 「おい,尾見のとっつあん。なんでまた,ずっと足袋を履いてるんだい。不便だろ。今はねえ,こういう「おしゃれな」長靴が流行ってるんだよ。単なる長靴とは違うよ。ほれ,膝まで上がるから,苗代には入れるし,川で鍬もコンテナも洗えるんだよ。」

 若頭の田上が,新しい長靴を自慢して見せたのも,もうずっと前のことのように思える。あの頃は,まだ奥早から出ることが出来たし,孫の顔を見に行くこともできた。だが,俺はずっとこの足袋で野良仕事をしてきた。奥井でコンバインが導入されても,奥早では,この手で,鎌を持って稲を刈ってきたのだ。

 すべてを新しい道具や技術に任せるのは容易い。しかし,古い物を守ることも大事ではないだろうか。そう,あのような寒村であっても,田畑を,土を大事にするように。——

 おや。

 今まで考えなかった分,積もりに積もった想念を,ひとつずつ片付けていた尾見の前に,ゆらゆらとうごめく影が現れていた。嫌な感じはしない。若者か。薄い緑色の衣装。腰に帯を巻いている。手には,卍模様と,その逆さまになった卍の模様が合わさった,平安時代の貴族が手にしているようなものを持っている。

 このような場所に,いかにもふさわしい風貌だが,やはりこの世の者ではないのだろうな。

 その影が音にならない声を,尾見の頭の中に響かせた。

 「あなたは,測量士様の言われる第七世界の方とお見受けします。」

 測量士。第七世界。突然に何のことか。そういうあんたは,何者なのだ。

 「いえ,ご心配なさらぬよう。私は,この第八世界の「地」に仕えるオミ,名はシと申します。あなたとは,私どもが志したのではない縁(えにし)で結ばれているようです。あなたの,いえ,まあ宜しいでしょう。」

 オミ。まさか,偶然か。それとも,これも「神隠し」の一部なのだろうか。夢ということはあるまい。何せ,色を見,香りを嗅ぎ,触感を得て,こうして反省までもできるのであるから。

 目の前の影は,尾見が考えているのに構わず続ける。

 「このような影であっては,意が通ずるのもままならぬというもの。まこと,測量士様の仰せの通りにございます。目に見て触れ,それと認めるのは,地が変われども変わらなきはず。如何でしょう,こうして居られても詮方なきと存じます。まずは付いてきてもらえませぬか。」

 そう声は響きながら,影はすでに先を行こうとする。待っていただけないか,と言う間もなく,尾見はその影に付いていく。

 影は渡り廊下の途中で,右手の襖を開けた。中は畳張りではなく,カンナが丁寧にかけられたと思われる板が張ってある。檜(ひのき)とも違う,独特の強い香りがする。杉の一種だとは思われるのだが。そのうえに経帷子のような,透ける白布が敷かれている。

 その一間の奥にある扉が目を引いた。やはり朱塗りの,観音開きの扉だが,この間(ま)の素っ気なさとはかなり対照的だ。そして,左右の扉の中心に,それぞれ金で,漆と器の文字が,胴体ほどの大きさで描かれている。合わせて「漆器」か。どうしてそのような文字が。何かの呪い(まじない)だろうか。

 オミが横に立ち,扉を開けるよう促しているようだ。自分で開けろということか。

 「さあ,お開けくだされ。後ほど解きますが,今は何もきかずにお開けくだされ。」

 ええい,ままよ,と尾見は引き手をそれぞれ持って,引こうとした。しかし,それは木製とは思えないほど,重量があった。後方に勢いをつけて,ようやく左右の扉がゆっくりと開いた。

 開けてみて,外の金文字の意味が了解された。まさに文字通り,ここには無数の漆器が,棚に,あの透ける布のうえに,ありとあらゆる場所にとり置かれている。形状は少しずつ異なるが,すべて朱と黒の漆器であるようだ。一目見て,その物の良さは自分のような素人でもそれと見て分かる。しかし,これだけの数が揃えてあるとは。

 漆器に圧倒されている尾見の背後から,影が語りかける。

 「これは,私ども宮仕えの者が用いる物ではございませぬ。あなたのように,「迷い」によりてこの地に参りし者のためにございます。どうか,ひとつ椀をお取りくださいませ。」

 いや,そういうわけにはいかない。そもそも,どうして私はここに来ているのだ,いや,ここは一体どこなのだ。

 物の怪の類に,何かをもらい受けなどすれば,後で何が起きるか知れたものではない。くわばらくわばら。尾見は,それと知らずに,自分が踏んでいた白い透き通った布から,足を退けた。

 影は尾見の反応を予期していたようで,声の調子を和らげて続けた。

 「あなたが知らぬものを恐れしは無理なきこと。私とて,知らぬものは恐れまする。然れども,あなたの地には,かような「迷い」は述べ伝えられておるようにござります。これを耳にし,判じ得ますれば宜しきかと存じまする。」

 絵巻を読むような調子で影は語る。——

 訝しけれど門の中に入りて見るに,大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば,牛小屋ありて牛多くおり,馬舎(うまや)ありて馬多くおれども,一向に人はおらず。ついに玄関より上がりたるに,その次の間には朱と黒との膳椀をあまた取り出したり。——

 うむ,それは。尾見が尋ねようとするが,影は手でそれを制して続ける。——

 奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。されどもついに人影はなければ,もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり,駆け出して家に帰りたり。この事を人に語れども実(まこと)と思う者もなかりしが,また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに,川上より赤き椀ひとつ流れてきたり。——

 「宜しいですか,かくあるは,あなたの地での述べ伝えにて,私どもの地の述べ伝えではありませぬ。逃げ帰りし女は,その赤き椀を拾い,それにて穀を計ったそうでございます。いくら計れども穀が減らない事から,家人の知るところとなりましたが,これ宝物として大事にされしは,解くまでもないと存じます。」

神隠し譚であろうか。たしかに同じような言い伝えは,どこかで聞いた事がある。蕗を採りに山へ入った女が,良い蕗,良い蕗と山深く入り,そうした場所に出た。うむ,そういえば,かくいう私も山菜採りで村の果てに入った。それでか。しかし,なぜその椀が川から。

 したりとばかりに,影はこの言い伝えを解いてみせた。——

 山中の不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は,必ずその家の内の什器(じゅうき)家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けん(さずけん)がためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に,この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。——

 「さて如何。これもても恐れられまするか。こなたは天に浮かびし宮にて,怪しの類にはございませぬ。あなたの地に述べ伝えられしがひとつ,そがこれにございます。」

 影が説いた話は,浮かべる微笑は,なるほど物の怪などではないと見える。しかし,この話と現状は,幾つかの部分が異なる。例えば,誰にも会わないところなど。

 「述べ伝えしは,その女誰とも会わず,何にも触れず,元の地へ帰りしとあります。誰とも会わず,これが至極肝要なりとは思いまする。なれど,此度は,この地が因となり,彼の地に影響を及ぼし故,それと知りながら,この身を表させていただきました。尤も,この地の理とて,影にて失礼いたしておりますが。」

 黙っていても考えを読み取られるか。それならば。まだ不信感がすべてぬぐい切れたわけではない。が,尾見は観念して素直に尋ねることにした。

 そのマヨイガという神の恩恵に似たものは,納得しました。あなたが,なんらかの事情で姿,いえ,影で現れたのも頭では理解しました。ですが,「この地」とか「彼の地」,あと,その第何とか世界というのは何でしょうか。

 「この地とは,第八世界にして,只今あなたが在りし処にございます。彼の地とは,第七世界にして,常々あなたが在りし処にございます。測量士様曰く,地は第一より第八まであり,違いて交わらざりしと。然れども,この地に異変起こりて,あなたの地に作用を及ぼししと。」

 つまり,世界は複数にあって,普通ならば互いに影響関係にはない。しかし,そちらの世界に異変が起きて,私たちの世界に影響を及ぼした,ということですか。

 然り,と影はひとつ頷く。

 にわかに理解し難いが,このような場所に足を踏み入れてみては,すべてを迷妄として捨て去る方が理屈に合わない。事実,こうして揺れる影と私は話をし,それを考えているのだから。

 では,どうして他の誰かではなく,私が選ばれたのでしょう。それに,あなたのお話では,お椀をひとつ渡せば済むような,単純なものではないと思いますが。

 吉祥の品物を授けるのが,マヨイガの話の根本だとすれば,世界の影響関係云々はまったく別物であろう。尾見は答えを探るように,影を見やる。

 「先に申し上げたごとく,あなたは尾見にて,この地の私オミと,離れながらにして,交わる処があると測量士様は申し上げられました。かつて我が曽祖父ありし刻,一人の男この地に入りし。その者オミと声を同じうし,故にこの地にとどめ置き,吉祥は別様にて与えんと。」

 そ,それは,まさか。私の曽祖父のことなのか。尾見謙之介のことか。

 影は申し訳なさそうな表情を見せ,言葉を継いだ。

 「マヨイガとは,交わることなき二つの地が,理のいたずらにて時おり交わる事態の謂でございます。あなたの曽祖父君は,この地に「迷い」,何の働きあってか,この地にとどめ置かれました。その代(しろ)は,あなたの世まで尾見に続きしと聞いておりまする。」

 それで尾見家は,謙之介の「神隠し」以来,悲劇と裏腹に栄えてきたわけか。それで,あの曽祖父は。

 「この地にて安らかなる余生を送りしとのことにござります。」

 曽祖父のことは,ずいぶん昔の,聞いただけの存在だったが,この影の言う不思議な「縁」を実感した。恥ずかしながら,涙が溢れてきた。曽祖父が幸せな最期を迎えたのなら良かった。

 影もその縁を再確認するかのように,優しい表情に戻った。

 「さて,事はかようの運びとなれば,あなたが故に,ここに「迷い」に入ってもらったことはご承知おきいただけたと存じます。そのうえで,あなたに改めて乞いたいと存じます。」

 そう影は今度は深刻な口調で告げ,その願いを話した。もちろん,事情がわかった今となっては,断る理由はない。

 この世界のオミとは,「使い」を意味するのだそうだ。可能であれば,彼本人がこちらの世界に「使い」として顕現したいのだが,「理」(それは,因果のようなものだろうか)がそれを許さない。だから,不可思議な交わりのあったこちらの尾見にその役割を頼みたいのだという。

 「然るべき刻,然るべき会(え)にて,あなたをして,第七世界の門を繋いでもらいたいと存じます。但し,繋げるとはいえ,あなたがそれを担うのではありません。あなたは,徹頭徹尾「導き手」にすぎません。繋ぎを担うのは,折口と糸巻,二人の「遅きに来たりし者」です。」

 折口,つまり,村長と,あの糸巻という青年が,「門を繋ぐ」。門とは。そして,「遅きに来たりし者」とは。これでは謎が多すぎる。どうやって導くというのか。そもそも何を導いたら良いのだろう。

 影は当然その困惑を予期していたと見え,大事なことを簡単に伝えた。

 「判じ得ぬもの多きは,止むを得ぬと存じます。何とまれ,折口某と糸巻某が門を閉じる宿世(すくせ)にあるが肝要。あなたは,こなたより椀を持ち帰り,然るべき者に渡せば宜しいのでございます。然るべき者も,いずれ判じまする。」

 そう言われてしまえば,首肯するしかない。

 「さすれば,彼の地で起きし異変も収束せん。測量士様はそう断じられました。地の怒り,神隠し,なべて元に戻り得ましょう。」

 奥早で起きている異常事態が,あれが,元に戻るというのか。これも,信じ難いが,これ以上手をこまねいていても仕方あるまい。ここは「狐につままれた」としても,何もしないで諦めるよりはずっと良いだろう。

 分かりました。とにかく,あなたの言うことを信じます。曽祖父のこともありますし。さて,それで持ち帰る椀とは,どちらにあるのでしょうか。

 「そも導き手に係ること故,あなたが自らの手でお選び召されよ,とのことにござりまする。」

 選べと言われても,これだけの椀を目の前にして,ひとつ選ぶのは至難の技だ。しかも,その選択が世界の異変に係るのだ。まいった,これは。と,とりあえず物を確かめようと,ひとつを試しに手に取ってみた。

 すうっと漆塗りが手のひらに吸いつくのを感じた。これでは,まるで自分を選べと言わんばかりではないか。どれ,他の物は,と手を伸ばそうとしたが,体に痺れが走ったように,その手が動かなかった。これは。

 影は己の意志のまま,感じるままにと,視線で促しているようだった。

 ええい,ままよとばかり,右手に持った椀を影に差し出した。

 差し出された椀を一目見たオミは,「なるほど,これまた測量士のご推察通り。彼の地を選ぼうとは。」と微笑んで見せた。

 どういうことかと,今しばらく確かめようと,ふと椀を裏返して驚いた。そこには,奥早と金文字で描かれていた。

 

 *なお,物語の執筆にあたり,柳田国男遠野物語・山の人生』(岩波文庫)を適宜参考にし,引用しました。

糸巻文雄からの手紙

 拝啓

 初夏の候,皆様におかれましてはいっそうご活躍のこととお慶び申し上げます。

 先日は大変お世話になりました。お忙しい中,こちらの勝手を聞いていただき,本当にありがとうございました。あなた様をはじめ,研究室の皆様方からお話を窺う機会を頂かなければ,今もって私どもの勝手な理解のなかに,あの子を閉じ込めていたことになっていたと思っております。あらためて家内共々,深くお礼を申し上げる次第です。

 ただ,誠に遺憾ながら,窺ったお話し,とくにあなた様から詳しくお話ししていただいた内容につきましては,私も家内も,口にしては驚きを新たにするばかりで,受け入れるどころか,その不可解さにのみ拘泥している有様です。あなた様から伝えられた,あの子の「故郷喪失」の苦悩。それが一体どこに起因しているものか,未だに家族の誰も分かりようがないのです。ですが,後ほど書かせていただきますように,その緒(いとぐち)はまったく無いわけではないと思っております。

 もしあの子がどこかで生きていてくれるなら。いえ,生きていることは信じて疑っておりませんが,いつの日か,生きて戻ってきて,私どもに「故郷喪失」の本当の理由を解き明かしてくれることのみを祈って日々を送っております。いえ,どこかで生きていさえしてくれればと祈っております。

 すでに書いている手が千々に乱れているのを,あなた様はご理解なされることと存じます。実に,このひと月というもの,どこから書き始めれば良いものか、書いては破り書いては破りを繰り返しました。このようにお礼が随分と遅くなってしまったこと,どうか研究室の方々にもご容赦願えれば幸いです。

 さて,前置きはこの辺りにとどめ,今回そのように書きあぐねていた手紙をしたためたのには,大きな理由があります。一つは,あなた様に対する謝罪です。

 あの子の私生活において,とても大事なことをお話ししてもらいながら,きちんとお礼もせずに,逃げるようにあなた様の前を辞しました。正直に申し上げますと,あの時,私は「私の知らない」あの子について,私に諭されるようにお話しになるあなた様に,腹立ちを覚えたのです。申し訳ありません。その時は,なぜそのような感情を抱いたのかまったく分からなかったのですが,今は分かります。それは,あなた様に嫉妬したのです。どうかお許しください。

 あの子からお聞きのことと存じますが,入学した一年目は,それこそ折に触れて,この田舎に帰省してくれました。実家が嫌で,離れた大学を選んだものとばかり思っていたものですから,家内共々とても喜んだことを覚えています。それに,それまでとはまるで人が変わったように,帰省するたびに,私の農作業と家内の仕事を手伝ってくれたのです。その変化に,私どもは,あの子がようやく親心を分かってくれたのだとも思いました。

 どのくらいまであの子が,あなた様に自分のことについてお話ししたか存じませんが,中学から高校まで,それは長い反抗期(私どもにとりましては)を経たものです。子を持つ親なら,ことさらここに言うまでもなく共有される経験だと思うのですが,あの子の反抗期も,その反抗する対象は不明確で,そのために,何かにつけてはイライラを募らせているもののように見えました。

 私どもも,あの子のイライラの矛先が不明確なので,対処のしようもなく,また,親とて仕事と生活に追われている一個の人間ですから,イライラにイライラで返す結果になりました。その良し悪しはここでは記しません。子は親に理想を見出すごとく,親も子に「こうであった欲しい」という願いを押しつけがちなものです。日常的にそう思わなくとも,ふと気づくとそのように行動してしまっているのは,子も親も同じだと思います。

 おそらく,あなた様も,多かれ少なかれそうした経験はお持ちのことと存じます。どちらか一方が悪いのではなく,もちろんどちらか一方が良いというのでもありません。互いにその時その時を一生懸命に生きた結果,衝突もやむを得ないと思うのです。そして,そうした衝突を補うように,「血は水よりも濃い」という言葉通り,親子の絆というものは,一時のいさかいで損なわれてしまうものではないと信じていました。

 そうした絆の再発見,ある種の「雪解け」が,あの子の大学時代に訪れたと私どもは思ったのです。事実,どちらかと言えば口下手な私と積極的にコミュニケーションを取りたいかのように,あの子は自ら農作業についてきては,育てている野菜について,田畑について,幼い頃の記憶について,私に話を促してくれました。今から振り返れば,ほんの一時だったかもしれませんが,あの子が自分の息子であって,本当に良かったとも,自分の誇りだとも思いました。

 息子は母に,娘は父にとは,私が大学に通っていた頃に流行ったフロイド(今では「フロイト」と表すのですね)の説ですが,あの子もその例にもれず,小さい頃から家内とはコミュニケーションを取っていました。反抗期の真っ只中でさえ,真摯にあの子に向かい続けたのは家内でした。後ほど書きますが,私はその頃,今でいう「地域おこし」,地域の活性化の先駆けとなる活動で忙しく,夜遅く帰宅することが多かったのです。私の替わりを務めた家内は,決して風当たりが弱くはなかった家族にあって,懸命にあの子に向かい合ってくれ続けました。

 そのような家内ですから,ゴールデンウイークに,盆に,正月に,また,少しでも連休があれば帰省して,料理を自分から習おうとするあの子の姿には,私以上に喜んだと思います。一方で,夏などに農作業で疲れているあの子を思いやって,私が一人出かけようとするのを,何で気づいたのか追いかけてくるあの子に,「私が作業に出るから無理をさせることになる」と怒ることもままありました。自分の腹を痛めた絆は,男親には分からない不可思議な結びつきだと思ったものです。

 私と家内は,そのように,自ら率先して手伝いをし,話をしてくれるあの子を見ながら,私ども親の気持ちを分かってくれたのだと嬉しく思っていました。ところが,研究室にお邪魔し,お話をうかがったあの日,私はあの子の下宿先で「物語」と言いますか,「寓話」のようなものの原稿を見つけてしまったのです。内容はここには書きません。いえ,あまりに私的なことですので,書けないのです。主人公やその家族こそ偽名になっていますが,明らかにあの子から見た幼年時代がそこには綴られていたのです。

 先に結論だけ申し上げれば,私は衝撃を受けました。家に持ち帰り,家内にも見せましたが,家内も同じでした。思えば,あの子が自分の幼い頃を話すことはありませんでした。いえ,あの子が口にする幼い頃は,田んぼで遊んだこと,どじょうを取ったこと,魚釣りに行ったこと,などのたわいもないことばかりでした。まさか,幼い頃に二度もイジメに遭っていたなど,恥ずかしながら察することすらできませんでした。

 あの子は思い出を祖母と祖父の話から始めています。私にとっては,母と父にあたります。あの子の記憶にある父母は,仕事で忙しくしていた私の知らなかった面でした。先ほども申し上げたように,私も例にもれず,それなりに反抗期を経ましたから,生前の父母に正直になれなかったところはあります。彼らからすれば,あの子は初孫でもあったので,目に見えて可愛がったことはあなた様でも想像できると思います。ですが,あの子はその祖父母から「フシンカン(不信感)」を最初に植えつけられたと書いています。

 私はその箇所について家内と話し合ったのですが,家内が「よそ者」(すみません,これは家内が用いた表現です)として「より客観的に」申すには,祖父祖母ともに,両極端な反応をあの子に見せていたそうです。これも,もしかすると,三世代の家族にはありがちなことかもしれません。つまり,孫だけの前では目に入れても痛くないほどに可愛がり,一方で,嫁を前にすると一変して舅と姑の人格をあらわにする。

 人間らしいと言えば,いかにも人間らしいです。自分と血を分けたから味方をするわけではありませんが,祖父母の反応もやはり一生懸命に生きた結果だったと思います。ただ,この件については,家内は責任を感じているようでした。

 「私が何か言われるたびに,一人で飛び出さなければ良かったかもしれません。せめて,置き去りにせず,あの子や妹たちを連れて出て行けば。剥き出しの大人の醜さにあの子に晒すことはなかったでしょう。家でお義父さんお義母さんと何かあるたびに,私が出て行くので,あの子は友達から「離婚してどっか行くと言ってたけど,それはいつなんだ」と何度も尋ねられたと,言っていました。」

 家内が申すには,家で家内と祖父母が揉めるたびに,今度は家から出ないといけない,自分は父母どちらかを選ばなければいけないという窮地に,あの子は立たせられていたかもしれないのだそうです。それを幼心に,友達に伝えた。ですが,別れることはなかったので,嘘つき扱いされたと。もしあの原稿がなければ,昔のことと笑い飛ばしたところでしょうが,あの子が消えた今,そうした「些細なこと」すら,積もり積もってあの子に失踪を選ばせる結果につながったと思えてならないのです。

 恥ずかしいことですが,私はその間にも「地域おこし」の仕事にかまけていて,そのうえ仕事上の疲れやイライラを呑むことで晴らしていました。逃げ場のない,選択肢しか与えられないあの子,しかも不信感を植えつける大人たちから与えられた選択肢を受け入れるしかないあの子からすれば,私は随分と良い身の上だったでしょう。大人たちがこぞって好き勝手振舞っているなかで,あの子は一番身近な家族が信じられず,友達たちも信じられなかったのですから。

 あの草稿は中学の途中で終わっていますが,PTA会長をしていた私の耳に,あの子が部活をなまけて魚釣りに行っていたという噂が入ってきました。私は諭す意味も込めて,自覚が足りないとしかりました。怠心と悪戯心で部活から逃げたのだと思ったのです。ずっと後になって,その一件をきっかけに,あの子が「村八分」にあっていた時期があったと知りました。ですが,そんなことは一言も話しはしませんでした。私は,あの子が書いているように,自分が少しできたからという理由で,それをあの子にも強いていたのです。

 おそらくこの私が,あの子に話しをする機会を,受け入れる機会を与えなかったのでしょう。原稿でも書かれているように,たまにあの子が良い成績を取ったりして,それを見せに来ると,私はなぜか意地悪をするように,どうでも良いことをふっかけたりして煙に巻きました。自分の母,つまりあの子の祖母が,勉強に関してはひときわ厳しかったので,それを踏襲するつもりだったのかもしれません。ですが,今思えば,あの子はそれによって「自分が認められる場」を失ったのかもしれません。

 あなた様がどのくらい沢木さんのことをご存知かは知りません。私の知る限り,あの子が一番長く交際した女性だと思います。先日,あの子のことを聞いて,私どもを訪ねてくれました。しぜん,あの子の思い出話になったのですが,沢木さんが言うには,あの子は高校生だったのに結婚を前提に,いえ,ずっと一緒にいることを前提に付き合いたいと常々言っていたそうです。沢木さんは当時,それほど真剣には取り合っていなかったそうですが,思い返すと「とても必死そうだった」と話してくれました。

 「コトくんは,ずっと本気でした。何かの記念日のたびに,「ずっと一緒にいてほしい」と本気で頼むように口ずさんでいました。あまりしつこいので,あるとき,「わたしはコトくんの親じゃないからね」と冗談で言いました。それを聞いたコトくんの落ち込みようが激しかったので,冗談だからとこちらが謝るくらいでした。コトくんは,どうしてわたしなんかに,あんなに依存していたのか,分かりません。」

 沢木さんは原稿を読んでいないので分からないのは当然ですが,この言葉は私どもに鋭いトゲのように刺さりました。あの子は,自分の家族には求め得なかった場所を,沢木さんに求めようとしたのです。そう思います。そして,大学に入ってからは,陳さんという方に求めようとしたのではないですか。もしかすると,あなた様にも。推測と言われれば,反論のしようもありませんが,そうだと思うのです。そして,陳さんから震災をきっかけになぜか遠ざかった。また,帰る可能性のある場所を失ったのです。

 もしこの推論が正しければ,あの子が「故郷喪失」などと言う大仰なことを言いだすのも分かる気がします。あの子にとって「故郷」とは,純粋に空間的な概念でも,純粋に心理的な概念でもないのです。いえ,「home」と言い換えれば済むかもしれません。普通に言うところの「帰る場所」なのでしょう。そのように考えると,原稿を読んでしまった今,私どものところはすでに単純な「帰る場所」ではなくなっています。悲しいですが,そう考えざるを得ません。

 ただ,もしかするとあなた様のところへは,あの子は帰るかもしれません。あなた方のお話,あの子の残した草稿,そして,あの子の失踪という現実。これらを踏まえて,家内と出した結論は,いえ,家内とあの子の妹たちと願うのは,あなた様にあの子の「帰る場所」になっていただきたい,ということです。失礼不躾この上ない身勝手な願いであると分かっております。ですが,もしあなた様が,先日に話されたように,本当にあの子のことを思ってくださるなら,全身全霊を込めてお願い申し上げます。

 末筆になりますが,あなた様のご健勝とご活躍を祈念いたしております。

                                   敬具

 

 ——年 五月 十五日

 大伴様

                                糸巻 文雄