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fumi_saeki’s blog

とらのあなほど厳しくはないどころかゆるゆるの文章修行道場にするつもりです。

トランシーゴ

 汚れたテレビが昨晩のテロを報道している。ときおり横線の入る荒い画像に映るのは,繰り返される爆発の瞬間だ。無音の画面のテロップを横目で追いながら,カーテンのない窓ガラス越しにオレンジ色に染まる夜景を見ていた。

 ヤシのような背の高い植物が,歩道わきに間隔をおいて植えてある。カンドゥーラを着たでっぷりとした男が,暗い街灯のなかを駆け足で横切り,白塗りの建物の黒い口へ消えていった。

 申し訳程度にスペースのあるナイトティッシュの上では,開いたままのノートパソコンのカーソルが点滅していた。記事を送ったばかりで,所在無くなったような顔をして,トランシーゴは先ほどの電話のことを思い出していた。

 「おたくの『ヴェーロ』,真相をきちんと報道してくれてるね。いつも記事を読ませてもらっているよ。この前の自爆テロも,他のメディアはTEPPの一点張りだったが,UWAのメンバーの単独行動だったと報じたのはおたくらだけだった。」訛りが混じった英語だったが,言葉の選び方は学識の高さをうかがわせた。

 「でも,ここフィーノで,見えないテロが頻繁に起きてるのは知っているか。犠牲者は日に日に増えている。放っておいて良いものかな。」『ヴェーロ』で明るみに出せ,ということか。電話の声はそれ以上何も告げず,切れた。「見えないテロ」。メディアでこの言葉は,ステルス戦闘機と同じように,存在するが(つまり起きているが)存在しないようなテロを指す。

 つまり,パリでは報道されて「可視化」されるが,ベイルートではどんなにその死者が多くとも報道されず「可視化」されない。それを言うなら,このフィーノでのテロは「可視化」されている。少なくとも『ヴェーロ』が把握してなかった事件などない。にもかかわらず,「見えない」とは。ガセか。

 ホテルで用意されたペットボトルの水をぐいぐい飲みながら,まだトランシーゴは窓の外を見ていた。巨大な拳で押しつぶされた形状,金属が紙のようにめくり上げられた運転席。周りの街路は黒くくすぶり,ところどころに炎が残っている。

 衝撃で足をえぐられた者,無数のガラス破片が胸から上に刺さった者。うつ伏せになったまま動かない者。鼓膜をやられたのか,声をかけられても反応できない者。世界に惨状を伝える使命感,この一点において冷静にシャッターをきる権利を与えられた部外者。トランシーゴは無意識に煙草を探す手に気づいて,止めていたことを思い出した。

 ボーナン・マテーノン。ああ,おはよう。直射日光に少しの間視覚を奪われ,ドアマンに片方の目に手を当てて対応した。ああ,頼む。メッセージがあったら,残しておいてくれ。今日取材はないが,テロの被害者を探して,ホスピターロを回るつもりだった。バッグにはカメラを入れたが,使う予定はなかった。

 この時期のフィーノは昼間砂埃が巻き上がる。ボックスカーのフロントガラスには,最後にワイパーをかけた後だけの視界しかない。盛り土になった脇の道を,お面をつけて黒いストールをまとった女たちが歩いている。男たちの腰には,小ぶりの偃月刀が翡翠色の鞘にはいって差し込まれている。皆の眼光は鋭い。

 ホスピターロの開け放たれたホールから入り,大きな病室を覗いた。手前に横になっている,頭を包帯で巻いた男と目が会った。先ほどから額に滲んでいた汗を拭いて,眼鏡を戻すと,一番奥のベッドにマルサーノが,ギプスをはめた足をつっているのが目に入った。『リエ』紙の特派員だ。すでに帰国したものだと思っていたが。

 「よう,珍しいな,誰かの見舞いか。」マルサーノは読んでいた雑誌を裏返して腹の上に乗せながら言った。いつものにやけ顏は病室でも健在か。お前もあのテロの現場にいたのか。

 「いや,取材先の遺跡が突然くずれて,あっという間にこのザマさ。坊さんたちは,おれが国の重要文化財を破損させたとかで,猛烈に怒り出して,大使館に抗議するんだとよ。とばっちりもいいもんだ。」

 で,いつ帰国するんだ。帰ったものだと思っていたが。「そうだな,俺もそのつもりだったが,ここの坊さんは変に政治なんかに干渉するだろ。大使館から連絡があるまで待機だとよ。こんなクソみたいに暑くて,砂だらけの国なんてウンザリだ。」

 病室のこもった匂いにあてられたトランシーゴは,窓際によって吹きもしない風を求めた。庭に生えた竜舌蘭のような植物の間を縫うようにして,黒いターバンに赤い長衣の僧が後ろ手に組んで歩いている。

 おい気をつけろよ。ここはトランクヴィーラと違って,物騒なことを言うとこれだぞ。振り返りながら,トランシーゴは親指を首の前でさっと小さく動かした。あくまで一部だが,妙なまじないをするらしい,とはフィーノが来る前に帰国した支局長が言っていたことだ。

 「お前んとこだと,あのテロはUWEの仕業ってことになってたが,そんな情報どこから手に入れたんだ。うちを含めて全紙TEPPにしてただろ。」おいおい,マルサーノ,情報は金だろ。遺跡で転んだときに,頭でも打ったんじゃないのか。と,トランシーゴは考えながら,まあなと茶をにごした。もう一度,窓外に目をやると,先ほどの僧の姿はもうなかった。

 UWEの幹部と接触できたのは奇跡と言ってよかった。フィーノの国境線で組織を広げていると噂はされていたが,ひっきりなしに移動をして実質は政府軍を撹乱していた。その「広報係」であったMTが,あるときフェイスブックを使って連絡してきて,TEPPの情報と引き換えにトランシーゴに一人の幹部を引き合わせてくれた。

 ジャーナリストにとってテロリストは二種類だ。顔を出すか,覆面をしているか。その幹部は後者だった。両目と口だけに穴を開けた黒い袋を被り,アーミー服に黒いブーツで「あぐら」をかいて彼を迎えた。UWEにとってTEPPは目の上のこぶだった。政府軍と密かに連携を取りながら,UWEと同じ政府転覆を声高に叫ぶ。

 「政府公認のテロリストなど反吐がでる。奴らは無差別テロをしているように見えて,政府に邪魔な分子を殺している。犠牲者を洗い出せば,誰がターゲットだったかを割り出すなど,子どもの手をひねるのよりも簡単だ。」

 頭巾で少しくぐもっていたが,太い声で幹部は言った。彼が求めたのは,TEPPと政府高官の密会場所だった。それは,言い換えれば,テロの起こすべき場所を指定してくれというのと同じだった。いくつか特定できてはいるが,教えれば市民の犠牲が出る可能性は避けられない。

 自爆テロは避けて欲しい。それがトランシーゴの付けた条件だった。テロになっても,組織間の抗争になっても,UWEの犯行は自明だ。声明を出す前に情報を売れば大金になる。だが,ジャーナリストの誇りは…… いや,あの時にすでに誇りなど捨ててしまった。フィーノのことなど,政府軍とTEPPなど俺の人生には何の関係もない。

 行きと同じく帰りも袋を被されていたので,どこをどう通ったのか分からなかった。フィーノの大通りにこんなに曲がり道はない。気取られぬように,何箇所かでわざわざ脇道に入ったのだろう。公館の前で袋を取られて,車を降りると,赤い長衣の僧の一団とすれ違った。

 そうしてあのテロが起きた。政府筋が情報を統制しているようで,『ヴェーロ』以外は軍の長官の談話として,犯行グループをTEPPだと断じた。だが,あの幹部が話したように,数だけ報じられた犠牲者を一人一人「洗い出せば」,政府高官とTEPPの連絡係の名前が出てくるだろう。こちらの言い分が無視されるのは分かっていたが,やはり市民が巻き込まれてしまった…… 自分で撮影した映像は匿名で海外のメディアに流した。

 スクープしたことについて,UWE側から何か動きがあるかと思ったが,MTから連絡はなかった。

 一週間後,滞留期間の件で大使館に寄った時,マルサーノの滞留許可が今朝おりたことを耳にはさんだ。その晩,取材終わりにホスピターロを訪れた。この国のことだ,マルサーノ本人に知らせがいくには,しばらくかかる。先に知らせてやるか。

 例の大部屋の奥には,マルサーノではなく無精髭がやたらと伸びた老人が横になっていた。病床を分け合うのがフィーノ流だ。あのにやけ顏も杖を与えられて追い出されたか。念のために通りかかった看護師に尋ねて,その答えに耳を疑った。マルサーノが亡くなった!一昨日の晩まで何かとうるさいくらい元気だったが,昨晩見回りの時に座ったままなので,眠れませんかと聞こうとしたところ,目を見開いたまま事切れていたという。

 死因は不明だった。フィーノでは解剖の技術が低いため,遺体は本国に送還されることになるだろう。帰宅してから今日の記事を送ろうとノートパソコンを開いたら,ログインしたままにしていたフェイスブックにメッセージが届いていた。MTが死んだことと,それに関して気になることがあるので,至急連絡されたし。

 指定されたのはフィーノの場末にある市場の一角だった。「おじさんがトランシーゴ?」背後で声がしたので振り向くと,カンドゥーラに茶色いベストを着た少年が,自分の方に腕を差し出した。「これ,渡せって言われた。」

 受け取った紙切れには,「雇った者も殺される,ネルボとアニーモの原理だ」と走り書きされていた。雇った者?ネルボとアニーモ?UWEの連絡係はどこにいるのだろう。目をあげると,少年はすでに姿を消していた。視線に気づいてそちらを見ると,赤い長衣の僧がターバンの下からこちらじっとを見ていた。

 フィーノ語の辞典によれば,ネルボとは「魄」を表し,アニーモは「魂」を表すという。フィーノの宗教か何かの原理だろうか。だが,これらとUWE,「雇った者」と何の関係があろう。フェイスブックからメッセージを送ったが,待っても返信はなかった。

 翌日,またもや強烈な朝日に眠りを邪魔されて起きたトランシーゴは,何気なしにテレビのスイッチをつけた。そこには,外国記者に囲まれた軍の長官が,UWEの壊滅を伝えていた。目下,UWEと関わりのあった者を洗い出している,ジャーナリストの君らも例外ではない,と語気を強めた。

 バックパックを取り出すと,トランシーゴは黙々と荷物を詰めはじめた。今更だという思いはあったが,拷問を受けて命を落とすのは違う気がした。フィーノには人権などという言葉はない。病気か何かの原因にされて,屍体はいつの間にか処分される。大使館に急がなければ。

 そのとき,ドアノブがかちりと音を立てて回るのが聞こえた。静かに部屋に入ってきたのは,警察ではなく,赤い長衣の僧だった。「ボーナン・マテーノン。いま取り込み中でして,またの機会にしてもらえるとありがたいのですが……」僧は言葉を聞いていないかのように,胸元から細長い紙を取り出し,それをトランシーゴに見せた。そこには星のような印が三つ描かれていた。

 とてもゆっくりと,僧はその紙をトランシーゴの目の前で縦に破いた。

星野瞳

 最近の若い娘(こ)ってあんまりしゃべらないものなの?うちは男世帯みたいなものだから,女の子のことはよく分からなくて。え,息子が二人もいて,二人とも無口でねえ。うちにいた時もほとんど口をきかなかったけど,下宿してからは連絡もしなくなって。つい私も話さないのが習慣になっちゃって。

 あまり話さなくなったのはいつからだろう。斉藤さんに,ヒトミさん,あまり自分のこと話さないのねと言われて,そういえばと思った。その理由を前にも考えたことがあったが,右のこめかみがきゅっと痛くなった。まるで思い出すのを頭が拒んでいるような気がして,それっきりにしてきた。

 斉藤さんの言葉は,何かのきっかけのような気がしていた。そう,「選択」しなくても彼女とは普通に接することができる。

 いつだろう,あれが見えるようになったとき,ううん,違うな。もっと前のような気がする。畳,そうだ,畳の部屋で,ああ,お祖母様にあのことを言われた時からだろうな。星野家の過去。お祖母様は仕方がなかったと仰っていたけど,私にはどうしてもそう思えなかった。こめかみにかすかに痛みが走った。

 明治時代,立ち上げられたばかりの政府は,国家と国民の統合を図るためと称して,どんな非道いことにも手を染めた,そうお祖母様は話しだした。要人の命を密かに奪ったり,体制に反抗的な人々を連行したり。旧幕府に影で仕えた星野の家も,もちろん取り潰されるはずだった。それを時の当主スクメさまは,家を,家人を守ろうとして政府に頭をお下げになった。代わりに求められたのが,忠誠を示すことだった。

 「でも,お祖母様,だからと言って,人の命をとったりしても良いものでしょうか。」忠誠を示すことが,東京の真ん中で殺戮を起こすことだったと聞いた私は,衝撃を受けてしばらく言葉を失い,ようやくそう言い返した。治安維持を強化するために,テロという口実が欲しかった新政府は,星野家を利用したのだ。「殺す」という言葉が怖くて,私は遠回しに「人の命をとる」という表現を使った。

 お祖母様はさっと厳しい顔つきをされた。では,お前はいま生きている自分を否定するのか,あの時代に星野の家が残ればこそ,お前は日々をこうして生きておるのではないか。その当たり前が享受できるのは,当主スクメさまのご決断のおかげではないか。新政府に利用された過去など,星野という大きな湖に,礫ひとつ落とすような微々たることではないか。

 小学生の社会の資料集にはじめて触れたとき,中に書き込まれている黒々とした重みが体を圧迫して,息ができなくなった。動けなくなった私は,隣に座っていた男の子に連れられて教室を出たところで気を失った。まだ「感じること」しかできなかった頃,その感覚にすべてを支配された。お祖母様がどのように過去を語られようとも,その場が見えてしまった私には,自分の存在を否定する方がずっと正しいように思われた。

 お祖母様は一息つくと,私の顔色から事態を察し,声を少し穏やかにされ,諭すように言われた。瞳,お前は星野の家のなかでも,特に強い力を持っておる。それは誇らしいことであるが,お前はその力の意味を自覚しておらん。ただ,自分を恐れるがために,どうして備わったのかその理由まで考えが及んでおらん。恐れるではない。恐れは迷いを呼び,迷いは破滅を呼ぶ。お前の母は…… まあ良い,その力の意味を考えるのだ。

 そうだ,あれからお祖母様が…… またこめかみが痛くなった。今度はかなり強い痛みだった。

 すっと籐椅子から立ち上がられたお祖母様は,足を引きずりながら,奥の箪笥から何かを出された。瞳,こちらへ来なさい。そう,そうして両手を重ねなさい。良いか,今から言うことを覚えておくのだよ。思念を重ねれば魄が魂に重なる。魄と魂が合わせ鏡のようになる。そのとき,魄と魂を入れ替えることができる。

 お祖母様はそう言いながら,青い和紙を紙さしから取り出し,その上を人差し指でなぞった。絵の具も筆も使ってないのに,なぞった跡には,家紋のような星印が金色で三つ並んで浮かびあがった。これが魄と入れ替えた魂を写しとったもの。思念が強くなれば魄も多くなる。入れ替えられる魂も多くなる。

 言葉の意味はすぐに分かった。この方法が,あの殺戮に使われたのだ。

 その青い和紙を私に渡しながら,お祖母様は言葉を続けられた。あとはお前の歩み,そしてお前に流れている血が決めよう。お前の母は,血の運命(さだめ)を良しとせず,その力を自ら封じた。自らの魂を魄に変え,情けないことに他の者の魂を守ろうとした。魂を分け与えれば,いずれはその身が滅ぶことを知りながら,星野の家のためには用いなかった。その最期は,お前も知るように自分の娘ながら哀れなものだった。

 私が幼いときに,母はすでに体の自由も利かなかった。日に日に布団の上でただ衰弱していくのを見ながら,食事を運んだり,薬と水を運んだりした。それが母と接する数少ない機会だった。体調がほんの少し優れると,母は布団の上に私を座らせ,手を取って自分の頬に当てた。どんなに寒い日でもその頬は暖かかった。いつも目が潤んでいるのと同じく,熱があったからだろう。最期も横になったまま,目を閉じて私の手を頬に当てていた。

 ふとその記憶の一部がぼやけた。お祖母様だ。私の思念に入られているのだ。瞳,そうだったな,お前の母の最期はそうだった。さて,こちらに来て,その紙を破いてくれるか。三つの星,すべてを裂くように縦に破くのだ。私は嫌な予感がした。またお祖母様が思念に入ってこられた。良いからその紙を破け,瞳よ。報いがあるとすれば,この様な形を取らざるを得まい。いな,これをもってお前が我が家の正当な継承者になる。

 私はお祖母様の,頭のなかから聞こえる言葉に体を乗っ取られたようになって,手にあった柔らかそうな紙をゆっくり破いた。と,ガタンと音がして,籐椅子に座られていたお祖母様の体が,筋力をすべて無くしたように横に倒れた。やっぱりお祖母様はこのことを考えておられたのだ。だから私に今日,あのような話をされたのだ。籐椅子の奥から緑の煙のようなものが立ち上るのが見えた。私はとうとう一人になってしまった。

 分家の佑の顔が浮かんだ。会いたかったが,十歳になったとき,お祖母様からもう会ってはならないと,きつく言いつけられたので疎遠になっていた。佑と話がしたい,こんな力なんていらない。星野の家もいらない。私は普通に生きたい。そのとき,持っていた紙がさらさらと繊維に分解されたように崩れた。その空いた両手に暖かいものがそっと触れた。お母さん…… いつの間にか涙は止まっていた。

 そうだった。お祖母様が亡くなられてから,私はあまり自分のことを話したり考えたりするのを止めたのだ。

 あれから普通に生きようと願ったのに,それが難しいのはすぐに分かった。外を歩くだけで人の思念が入ってくる。物に触れればそこに残された記憶が見えてしまう。それは言ってみれば,過剰すぎる情報のなかを泳ぐのに似ていた。自分で選択しなければ,すべてがそのまま流れ込んでくる。それまでは一体どうしていたのかと考えて,お祖母様が身を削ってそれらを覆ってこられたことに気づいた。これからは自分自身で守るしかない。

 見える物を見えないようにするのは,目を避けるのとはまったく違った。それはたとえば目を開けながら,光を感じないようにするのに似ていた。目のさらに奥の神経を自分の意図で遮断する−−−−そのように例えたら良いだろうか。ただ,そうして遮断していても,体の別の感覚が思念を勝手に捉えた。初めてそれに気づいたのは,何かと世話をしてくれた佑のお母さんが亡くなる前だった。

 一人で暮らす私に食事や洗濯物を運んでくれたおばさんは,あるときひどく腰を気にしていた。私も変な痛みを腰に感じていたので,そう言うと「おばさんは分かるけど,瞳ちゃんは幼いのにねえ」と苦笑いされた。−−−−そうだ,斉藤さんが,腰が痛いと言ったときも,同じ感じがした!あれがまた起きるのだ。早く渡しておかないと。−−−−その夜,一人で体を揺らしているおばさんが見えた。何かに取り囲まれたおばさんは,揺れながら少しずつ小さくなっていった。

 一生懸命叫んで止めようとしても体が固まったみたいになって,見ていることしかできなかった。気がつくと,おばさんは米粒くらいの大きさになって,すっと暗闇の中に消えてしまった。と同時に体が動くようになったが,見た光景が夢なのか現実なのか区別できなかった。あれは何だったのだろう。翌朝,おばさんが突然亡くなったことを,佑のお父さんが知らせてくれた。

 不意にお母さんのことを思い出した。お母さんならどうしただろうか。それは考えるまでもなかった。お祖母様は,お母さんが魂を魄に変えて用いたとおっしゃっていた。お祖母様の部屋に行き,箪笥を開けてみると,もうあの青い和紙は一枚もなかった。もしかすると,お祖母様も自分を最後に,誰かの魂を切り離すのをやめて欲しかったのかと思った。

 私は折り紙の中から青い色のを選んで,目を閉じ,自分の深いところにある金色の泉を探した。お祖母様が見せてくれたのは,こんな感じだった。ただ,お祖母様とは違うやり方をしないといけない。魄と魂を切り離すのではなくて,魂を魄に変えて少し取り出す。−−−−金色の泉に触れることはできたが,砂のように指からこぼれ落ちてすくえない。どうして?どうして?私には力がないの?

 理由は単純だった。魄で守る魂がなければ,泉に触れることはできても,そこから指ではすくえないのだ。佑のお父さんが足に大怪我をしたとき,初めて金色がすくえ,折り紙に写すことができた。お祖母様のときとは形の違う小さな星が青色に浮かび上がった。とても嬉しかったのは,お祖母様やお母さんと同じことができたからか,おじさんの足が次の日には治ったからか覚えていないが,多分その両方だったと思う。

 自分の力が誰かの役に立つ−−−−それは,それからも私の生きている唯一の理由だった。でも,佑のお母さんを目の前で救えなかった記憶は,その後もずっと頭から離れなかった。もっと早く写せるようになっていたら,おばさんは死ななくて済んだはずだった。高校のとき,ふたたびあの腰の痛みが走ったときは,だから今度こそという強い想いがあった。千鶴には,いつもより少し多めに金色をすくって写したものを渡した。  あの夜に千鶴が助かったことは,金色が消える時の波長で分かっていたが,学校に来ていた本人を見てようやく心から安心した。本当に良かったね,千鶴。佑のお母さん,今回はきちんとできたよ。私はずっと叶えたかった夢を叶えたような気持ちになっていた。それだけに千鶴から避けられたときには,星野の血−−−−殺戮の家系の宿命からは逃れられない−−−−を呪った。

 それから私は,一人で金色をすくう機会を待つだけの人生を送ってきた。

 佑のお父さんは,大学へ行くお金はすでにお祖母様から預かっていると言ってくれたが,私はもう自分から誰かに関わるのが嫌だった。大学などという人が多い場所では選択するのにも疲れてしまう。自分で,少しでいいからお金を稼いで,静かに暮らす。それでも,もし誰かのためになるのなら,そのときは私のすべてが失くなるまで−−−−腰に今まで経験したことのない激痛が走った。その瞬間,斉藤さんの家の方角に何かが集まり始めているのが分かった。

 私は痛みをこらえながら,青いスカートを切り裂いて袋状にし,そのなかに魄の粒を入れれる限り詰めた。手に糸をとってそこに金色を注いだ。これだけ魄があれば,どうにかなるかもしれない。そこまで終えると,私は意識を失った。

甲田刑事

 生卵を電子レンジにかけてチンしたみたいだな。マイクロ波か何か知らないが,内側の細胞同士を振動させて加熱,時間を間違えて炸裂させたみたいだ。

 ゲンジョウを見ながら,甲田は思った。散弾銃でもないし,ましてや普通の銃器で「できる」もんじゃない。手榴弾でも飲み込まない限り−−−−爆発処理班の本田が呼ぶ,「甲田さん,ちょっと良いですか。」通報した隣人が,大きな悲鳴と同時にボンという爆発みたいな音を聞いたとかで,わざわざ処理班にご足労願ったって訳か。

 「結論から言います。爆発物らしき物は確認できませんでしたし,火薬の反応もありません。それに,甲田さんならお分かりの通り,爆発とはまったく違います。こう,マイクロ波で……」甲田はその先を遮るように,煙草を持った手を挙げた。「甲田さん,ゲンジョウでタバコは……」本田を無視するように,甲田は最も破損の激しい布団に歩み寄った。

 星野瞳さんのことで伺いたいことがありまして,よろしければ本城署まで来ていただけると助かります。あくまで任意ですが,ご友人の事件ですので,どうかよろしくお願いします。

 また留守番電話か。聞き込みでは,ガイシャと高校時代一番親しかったのは野分千鶴という女性らしい。都内で一人暮らしをしている某女子大学の二年生(今は「二年次生」とか言うんだったな)。交友関係はなく,合コンに入れあげている。

 合コンなんて言葉は,俺たちの世代には無縁だったな。同期は学生の時から付き合い続けるか,婚期を逃していろいろなツテから紹介されるか。俺は後者だったが,刑事稼業なんてロクなものじゃあないな。捜査本部のホワイトボードに張り出された,幼い時の星野瞳の写真(亡くなった親族の遺品の中にあった唯一の写真)を見ながら,甲田は勤務中にもかかわらず,別れた妻に引っ張られていった娘のことを思い出していた。

 本城連続殺人事件。星野瞳に関係のある人間が次から次へと突然死(記者発表ではそのように表現していた)するこの事件を,マスコミはさまざまな見出しで煽った。星野を連続殺人鬼と勝手に推測する週刊誌から,真犯人を愉快犯と決めつけるコメンテーター,人知を超えた超常現象などとまことしやかに断言する怪しい評論家まで,この一件をめぐってメディアは,芸能界のスキャンダルに負けず劣らずの盛況ぶりだった。

 「甲田さん,三番に電話です。名乗ってはいませんが,女性です。」本部を立ち上げてから四日後,甲田に電話をかけてきたのは,あの野分千鶴だった。受話器を手で覆った捜査員に頷いて見せ,甲田は目の前の電話に出た。はい,代わりました,甲田です。

 「もしもし,野分です。すみません,遅れました。ヒトミの,あ,星野さんのことで,私に聞きたいことが,と……」ええ,星野さんのことについて,野分さんから,二三お聞きしたいことがあるですが,次の休みなどに署にお越しいただけないでしょうか。「あの,授業の合間とかでも大丈夫でしょうか。」はい,私がいなくても,誰か担当の者がおりますので,お名前だけ伝えていただければ大丈夫です。

 雪原から白を引き裂くように飛ぶ細い,けれど粘り強い鳥。野分の声は,かつて何かの不幸に遭いながら,身を切るような冷たい向かい風のなかを,懸命に羽ばたいてきたあの鳥を思わせた。星野瞳に関して,伝えるのが辛い,でも,伝えなくてはならない。そんな覚悟が,野分千鶴のかすかに震える言葉から聞き取ったように甲田は思った。合コンなどという浮ついた感じは不似合いだった。

 二日後,飾り気のない取調室で,甲田は野分千鶴と向かい合っていた。じっと不安そうに足元を見つめながら質問に答える彼女に,甲田は努めて事務的に言った。「確認しますが,高校時代の最初の方は,家が同じ方向だから一緒によく帰った。でも,いつからか一緒に帰らなくなった。理由は分からない。それで,最近は一切連絡をしていなかった。事件もニュースで知った。」

 はい,そうです,という野分の声は,取調室の電話を置いている机の引き出しに吸い込まれるかと思うほど弱かった。見た目の派手さとは裏腹な卑下するような態度,他の者なら気づくだろうか,甲田は自問した。明らかにホシとは違う,容疑者とも違う者への,形式的な取り調べ。そのなかに浮かび上がる,ガイシャとの人間関係。そして,その歪な有り様。

 甲田は続ける。「立ち入ったことを伺いますので,最初にご説明したように,お答えになる義務はまったくありません。ですが,もし可能なら,お答えいただけると犯人逮捕につながるかもしれません。あくまで私個人の推測ですが。」野分は,「立ち入ったこと」の語句に一瞬身を引き締めた。甲田は思った,何かがあるのだ,ここには何かが。

 探るように甲田は,「高校時代,最初仲が良く帰っていたのに,途中からそうしなくなったのはどうしてですか」とゆっくり語句を切るように尋ねた。野分は訳もなく欠点を指摘されたように,ぎゅっと身を縮こませた。眉間を逆八の字にしたのは,唯一の抵抗だったのかもしれない。「刑事さん…… 霊って信じますか?」ようやく引き出した本音のはじまりはこの一言だった。

 取調室でこの単語を聴くのは稀ではない。人は自分のした行為を,別の何かの理由で説明したがる。酒に,忘却に,そして霊。神とかいうのもいたな。高級品売り場で香水を盗んだベトナム人が,手を動かしたのは自分ではなくて霊ですと供述してうんざりしたのを,甲田は思い出した。だが,何を引っ張り出すにしても,まずは言い分に委ねるしかないのが取り調べだ。

 ヒトミはよく霊感が強い娘(こ)って言われてました。いつもはひとりぼっちで人を寄せつけない感じなのに,誰かが困ったりすると,それを勝手に察して助けてました。テニス部の後輩や,チアガール部の先輩が,筋肉痛だと思って湿布を貼っても治らないのを,誰に聞いたのでもなく,すぐに飛んでって,変なメモ用紙みたいなものを渡すんです。その次の日には,誰も嘘みたいに治ったそうです。

 それって何なの,なんで分かるのって,一緒に帰るときに聞いたことがあったのですが,おまじないみたいなものかな,って笑ってました。そういう治療みたいなの,誰から教えてもらったのと聞いたときには,少し寂しそうな顔をして,そうねえと言ったきり何も教えてくれませんでした。

 普段は学校であった何気ないことや,新しく買った文房具のことなんかを話してましたが,あるとき,私の家が近くなったとき,真面目な顔して「チズル,これ枕元のどこでも良いから貼っといてくれる?」そう言って,見たこともない星型のような模様が描かれた付箋を,そっと渡されました。私はそういうのを信じていませんでしたが,ヒトミのおまじないなら良いかと,ベッドにテープで貼り付けたのですが,それで……

 気づかなかったのだが,ここで野分はさらに背を屈めていた。どうやら泣いているようだった。書記係に目配せをして,野分にテイッシュを与えた。拭う合間に,自分なりに星野瞳と野分千鶴の関係性を考えてみた。感というのだろうか,この二人は「単なる」友人なのではないような気がした。それに霊というのは……

 それで,どうしたんですか野分さん。「刑事さん,信じてもらえないのは分かっていますが,記録していただけますか。そうですか,分かりました。では,話します。ヒトミの,いえ,星野さんが渡してくれた付箋を枕元に貼ったあと,突然,大きな地震が来たように部屋が揺れ,本棚が大きくぐらぐらしました。その時,私は死ぬんだろうと思いましたが,そうではありませんでした。」

 甲田は自分が経験した神戸の震災を思い出していた。あの震災で息子が箪笥の下敷きになって死に,夫婦関係も一変してしまった。「家全体が,いえ,そのときは地域全体が揺れたと思ったのですが,私の部屋,いえ,私の周囲一メートルほどが揺れたのです。たぶん,それも違って,私だけが揺れたのです。」

 もし甲田が煙草をくわえていたら,大きくしたようなマッチ棒のそれが,下に落ちていくのが見えたかもしれない。あいにく煙草をくわえていなかったので,ぽっかり空いた口を甲田は急いで閉じた。亡くなった息子は,あの震災の数日前に,「ぼくのまわりだけ揺れている」と言っていた。まさか,この野分という娘と震災とは関係があるのか。「野分さん,あなたあの震災のとき,どちらにいらっしゃいました?」

 野分千鶴は質問の意図が分からないと見えて,紋切り型に首を横に傾けた。ああ,すみません,先ほど訊いたことは忘れてください。それで,その,野分さんの周囲が揺れた後,何かありましたか。野分はまた前かがみになり,机の上に置いている組んだ両手に力を入れているようだった。「それから……,それから来たんです。」いつの間にか野分の足元に,涙の落ちる音が聞こえた。

 野分がした切れ切れの話をまとめると,体の揺れを感じた後,形容できない何かがベッドをぐるりと囲んでいたという。そのなかで枕近くのが,機械音のような声で告げた,「コノジュフヲ ハリシモノ イズコナリ」。頭の芯に直に響く「声」に体を支配され,野分千鶴は金縛りにあったように不安に固まってしまったそうだ。朝日がカーテンの隙間から差し込むときには,すべてが悪夢だったと思った。だが,貼っておいた付箋が無くなり,その代わりに何かが焦げた跡を見たとき,夢ではないと分かった,そう野分は消え入るような小さな声で話を結んだ。

 すみません,そういうオカルト的なことではなくて,星野瞳さんが亡くなられた件に,関係するようなことをお聞きしたいのです。ここだけの話ですが,星野さんに関わられた方が,次々と奇妙な亡くなられ方をされているのです。そうなのだ。星野の勤め先の店主,星野の知り合い,その連れ合い。皆が不可解な音に悩まされ,身体の痛みを訴え,星野の死に前後して亡くなっている。

 ガタガタという音に,自分も目を伏せながら話していたと気づいた甲田は,知らないうちに身をさらに屈め,ひどく震えている野分の姿に気づいた。野分さん,落ち着いてください。そう言うと,甲田は書記係に白湯を持って来て欲しいと告げた。後ろの扉がしまると同時に,野分千鶴はやはり小さな声で,「信じてもらえないんですね」と漏らした。「でも,その夜のことがあってから,怖くなったんです,ヒトミが,あれを受け取らなかったら良かったと思って,だから避けて……」。

 甲田は斉藤夫妻の家から発見された黒焦げのバッグを思い出していた。穴だらけの奇妙な家にあった奇妙な物体。念のために鑑識に回したところ,その中から,おそらく青地の生地に縫いつけられたと思しき,金色の糸のかけらが見つかった。それが何を示すのかは,鑑識にも甲田にも分からなかった。こちらも同じだ,結局,手がかりなし,か。

 書記係がプラスチックのコップを持って背後から現れたとき,不意に顔を上げた野分千鶴の目の奥が強く光った。先ほどまでと打って変わり,憎悪を剥き出したように甲田を見据えていた。分かりました。野分さん,ご協力ありがとうございます。お聞きした話はきちんと記録しておきます。もしかしたら,また来ていただくようなことがあるかもしれませんが,あくまで任意です。都合が悪いようでしたら,そう仰ってください。

 その間にも野分千鶴は甲田から視線を外さなかった。取り調べの終わりに気づいた書記係がドアを開け,その後に付き従う野分千鶴を,甲田は目で追わなかった。異様な視線をそうでなくても後頭部に感じていたからだ。どうして突然あんな風に態度が豹変したのだろう。思い出すのも嫌な記憶を,俺がほじくり出したからだろうか。あの目は,引っ張られて出て行った娘の目と同じだった。どうしてこういうことになったのか,その責を問いただす目。

 感情の持って行く場がなくなったような気がした甲田は,机を両手で不意に思いっきり叩いた。その音を不審に思ったのか,隣の取調室から来たであろう若手の刑事がノックすると同時にドアを開いた。大丈夫だ,何でもない。ここは禁煙だったよな。ああそうだな,喫煙室に行く。あとで田辺に戻るように伝えておいてくれるか。調書を見直したいから。

 食卓で冷たくなったアジフライを前にして,甲田はふと野分千鶴の言ったことを考えていた。あいつと同じ,自分のまわりだけが揺れている。あの続きはあいつも体験したのだろうか。形容できない何かに囲まれる,か。疲労などで脳と体のつながりに不具合が生じると金縛り状態になる。体の自由が利かなくなると人は恐怖に襲われ,見えないものが見えたような気になり,聞こえないはずの声が聞こえたりする。くだらん。手にした煙草を吸おうとしたが,すでに火は消えていた。

 その夜,甲田は久しぶりに夢を見た。洋館が見える。黒塗りの古めかしい車が行き来している。男は背広にシルクハットを被り,ステッキを手にしている。和装の者もハンチングのような帽子姿だ。女性は洋風のドレスを着る者とやはり和服姿の者がいる。と,遠くでパタリ,またパタリと,操り人形の糸を切られたように,人が四肢の力を失って倒れる。おい,何が起きている。おい,どうした,気分が悪いのか。抱き起こそうとした着物姿の男の目からは,命の光が消えていた。

 気づくと,まわりの人はすべて倒れていた。レールの上に女性が倒れていたが,甲田がいくら叫んでも路面電車はその体を容赦なく轢いていった。通り過ぎるときに見た運転席の男性も,前のめりになっていて気を失っているか,死んでいるようだった。と,突然,抱きかかえたまま座り込んでいる自分を,ぐるりと囲むように何かが立っていた。ぼそぼそというよりも,唸るように何か呟いている。コトワリ ヤブリシ モノ…… 何なんだ。おい,これは何なんだ,待て,おい待てよ。

 目が覚めたとき,甲田は頭から水をかぶったように汗でぐっしょり濡れていた。体のあちこちが痛かったのは,寝ている間にすごい力を込めていたからだと,手のひらの食い込んだ爪痕を見て思った。

ぷつぷつ

 ぷつぷつという音はいつまでたっても止まない。

 ドラマもメディアも「家庭内暴力」ばかり取り上げた1970年代。よくある住宅に住んでいた私たちも,この言葉に毎日触れていた。

 中学生の息子たちは,ことあるごとに,拳で,足で,壁という壁に憤懣をぶつけた。私たち夫婦は,訳も分からず,得体の知れない事態にただただ怯えていた。

 穏やかな性格の夫は,子どもの行為を止めるなどとはまったく考えなかった。共有スペースの穴だけを,忘れた頃にそっとカレンダーやらポスターやらで覆った。

 息子たちが,一人は大学に進み,一人は専門学校に通うことになって,自宅を離れた頃には,まるで戦争がここで起きていたかのように,家中穴だらけだった。

 なかなか夫の昇進も決まらないので,私はパートをはじめた。近所のよく通うスーパーでちょうど募集をかけていたので,他のところは探さずに面接に行った。

 履歴書などもうずいぶん書いていなかったから,少し緊張したが,顔見知りの店長は世間話をしただけで採用してくれた。

 「いえね,斉藤さんはずっとうちに来てくれてますから,もう店内も勝手知ったるでしょう。何か相談事とかあったら,なんでも言ってくださいね。若い子も一人パートで入ってますが,とにかく明日からお願いします。」

 その若い子,ヒトミさんは,息子たちと同じくらいの年齢の,あまりしゃべらない娘さんだったが,何かにつけてそっとサポートしてくれた。少しおっちょこちょいなところのある私は,はじめてのレジ終いで計算が合わなかった。

 「斉藤さん,レジの下,調べましょうか。よく落ちてたりするんですよ。ほら,小銭がありましたよ。」

 家にいるとうっかりしていても,誰も咎めたりしない。手がすべって茶碗を落とそうが,爪が引っかかって畳の目に傷をつけようが,夫は何も気にしない。家のことは全部任せているのだ。

 テレビでは夫が妻に家事は楽だよなあ,などと言ったりするようだが,うちではそんなことはなかった。あの人は穏やかに仕事に行き,穏やかに仕事から帰ってくる。パートするのにも何も言わなかった。

 「最近,慣れてきましたね,斉藤さん。」

 ああ,ヒトミさん,そうね,少しかな。あなたみたいに早くサッカー(袋詰め)できないし,もたもたしちゃって,お客さん怒ってないか心配しているの。

 「大丈夫ですよ,斉藤さん,全然遅くないですよ。そんなに長い列できてないですし。」

 パート終わりに鮮肉コーナーの透明なシートを上からおろしていると,腰に鈍い痛みがあった。若い子はいいわねえ,こういうのがないものね。つい,帰りが一緒になったヒトミさんに愚痴を言ってしまった。

 「そんなことないですよ,私は腰痛持ちで,小さい頃からなんです。」

 あら,ごめんなさい。そうだったの,それは大変ねえ,私のはたぶん更年期かしらね。今まではなんともなかったのに。

 家に帰ってから,夫の好きなサトイモの煮つけと大根の味噌汁に火を入れていると,チャイムが鳴って夫が帰ってきた。

 「なあ,最近,腰が痛いんだ。明後日の休みに,一度整骨院に行ってみるよ。」

 え,あなたもそうなの,と言いかけたが,男の人には更年期はないものねと思って,そうね,行ってみたら,腰は一度痛めると長くなるっていうし,と言った。

 次の日,また次の日と,ヒトミさんはパートを休んだ。体調が悪くなったみたいだよ,と店長が教えてくれた。代わりに入ったワタナベくんは,ぶすっとして接客も仕事も面倒そうに見えた。

 腰の痛みは相変わらずだった。前は体をかがめるときに痛くなったのに,今はこうしてレジに立っているだけで痛い。私も病院に行こうかな。そういえば,あの人,腰どうだったのか聞いてなかった。

 鯖の味噌煮を食べながら,この前の腰どうだったの,と聞いたら,夫はうーんという顔をして,

 「レントゲンも撮ってもらったんだけど,何でもないって。神経痛が起きる年齢だからそれかもしれないって言われたんだけど,前に腰をぶつけたとか,なかったしなあ。」

 ねえ,私もこの前から腰が痛いんだけど,更年期かもしれないから,中央病院に行った方が良いかな。

 「そうか,お前もそんな年か,そうだよな,俺のも単なる年かもしれないな。」

 次の日の朝,あまりにも腰が重くて,はじめて朝ごはんを夫にまかせてしまった。  ごめんなさい。昨晩はそうでもなかったんだけど。

 「いや,大丈夫だから,お前は今日,休みをもらって病院に行ってこいよ。動けなかったら,タクシーを呼んでもいいから。」

 朝ごはんの準備の分,いつもより時間を費やした夫は,いそいそと仕事に出かけて行った。

 スーパーに電話をして,動けるようになったのは昼過ぎだった。夫の言葉に甘えてタクシーを呼んで,中央病院の婦人科を受診した。問診と血液検査,尿検査が終わって,レントゲンを待っている頃には,もう日が暮れかけていた。

 「そうですね,とりあえず骨密度は大丈夫みたいです。血液検査と尿検査の結果をまって,必要なら産婦人科でも診察しますか。」

 痛み止めを処方してもらい,その日は家に帰った。

 次の日,痛み止めが効かないので,我慢しながらスーパーに行くと,店長が事務室から手招きしているので行くと,

 「ねえ,斉藤さん,ヒトミちゃん,連絡取れないんだ。昨日何も連絡がなかったから,てっきり来てくれると思っていたのに,そのまま来なかったんだ。もしよかったらだけど,様子見て来てくれない,一応俺男だから,お願い。」

 店長は最初,一緒に行って欲しいと頼むつもりだったそうだが,今晩から仕入先の会合があって,数日は留守にするとのことだった。腰は痛かったが,ヒトミさんのことは気になった。

 良いですよ,この後,行ってみます。住所分かります?店長から手渡されたメモには,自宅の近所のアパートの名前が書いてあった。

 ヒトミさんのアパートは木造で建ってからかなり年が経っているみたいだった。私たちが結婚した時に住んでたみたいなところね,と思いながら,チャイムがないので,ドアをノックしてみた。

 軽くコンコンとしただけで,ヒトミさんが出てきた。どうしたの,と聞く前にひどく顔色が悪く,髪がぼさぼさになっているのに気づいた。

 「斉藤さん,来られるとは思っていました。汚いですが,どうぞ。」

 そう言うと,布団が敷いたままになっている部屋に案内された。古いちゃぶ台があるくらいで,テレビなどないようだった。

 ヒトミさん,具合悪いの?お茶とか良いから,何かできることがあったら言って。一人暮らしだと大変でしょう?

 「あ,いえ,私は大丈夫です。ただ……

  失礼だと思いますが,斉藤さん,最近,腰が痛くないですか?」

 え,そうだけど,前から痛かったし,そういえば,腰痛いってヒトミさんにも言ったわよね。

 「いえ,そうではなくて,痛み止めが効かないくらい痛くないですか?」

 ええ,まあ,病院に行ったから,後は検査の結果待ちだけど,やっぱり年かな。

 「率直に言いますね,私の腰も最近なかったぐらい痛いんです。それで動けなくなってたのですが,こうしてお会いして確信しました。」

 ヒトミさんも腰痛持ちって言ってたもんね。かなり痛かったのね。え,確信ってなあに?

 「おうちにいらっしゃるご主人も腰が痛いって仰ってなかったですか?」

 え,何で知ってるの?うちの人のことヒトミさんに話したっけ?

 「信じてもらえないと思いますが,すぐに引っ越してください。このままあそこにいらっしゃると,良くないことが起きます。お願いします。」

 どういうこと,ヒトミさん,あなたの腰痛や私たちの腰痛がなんなの?

 「とにかく,今日はこれをお渡ししておきます。どこでもいいです,神棚がなければ,少し高いところにある棚のなかでも構いません。置いておいてください。」

 ヒトミさんが手に押し込んだ小さい袋は,何が入っているのかずっしりしていて,深い青地に,星のような模様が金の糸で刺繍されていた。ヒトミさん,これ……

 「いいですから,お願いします。とにかく,それを持って帰ってください。」

 何のことかまったく分からなかったが,ヒトミさんの目というか表情というかには,拒むのを阻むような異様な感じがあった。まあ,話ができたし,あれなら数日休んだら仕事に出られるようになるかもしれない。

 家に帰る頃には自分の腰の痛みが気になって,バッグにいれておいたヒトミさんから受け取った袋のことなど忘れていた。それに気づいたのは,家の玄関に入った途端に,バッグのなかで何かが弾け飛ぶ音がしたからだった。

 驚いてバッグのなかを見ると,見たことのない豆のような粒状のものが,バッグいっぱいに散らばっていた。ヒトミさん,何を入れてたのかしらと思ったその時,家のなかから,ぱち,ぷつ,ぷち,と音がした。

 こんな時間に木がきしむなんて,変ねえ,と思ってもう一度バッグを見ようとしたら,バッグのなかのつぶつぶが火を吹き出した。危ないと思って,バッグをつい手放した瞬間,バッグが炎に包まれた。

 必死で燃えるバッグを踏んだり,玄関マットで叩いたりして消して,安全を確かめると,もう一度ヒトミさんのアパートに駆け足で向かった。何を入れてくれたのかしら,危うく火事になるところだわ。

 ヒトミさんのアパートは先ほどと違い,ノックしても名前を呼んでも何の反応もなかった。どこに行ったのかしら,あんなに腰を痛がってたのに。

 その夜,夫に黒焦げのバッグの説明をするために,ヒトミさんのことを話したが,「最近の若者は怖いね,そんな危ないいたずらするなんて」と眉間にしわを寄せただけだった。

 とにかく,明日,ヒトミさんにもう一度会って,事情を説明してもらわないと。

 その夜,木のきしむ音は,夕方より大きく,回数も多くなった。気になって眠れないので,夫を起こそうと思ったが,夫も同じようで,二人ともだまったまま,音を聞きながら,いつの間にか朝になっていた。

 その朝は,二人とも腰が重くて動けなかった。とりあえず,二人とも職場に電話したが,スーパーにかけたとき,会合に出ていたはずの店長が出て,

 「斉藤さん,とても言いにくいんだけど,あの,ね,ヒトミちゃん,昨晩亡くなったって。原因はわからないんだけど,夕方に部屋からすごい悲鳴が聞こえたらしくて,気になった隣の人があとで通報したら……」

 そのとき,とても大きなぱちんという音が,台所から聞こえた。

 「……ということだから,たぶん警察から聞かれると思うけど,斉藤さん,ヒトミちゃんには会えたの?聞いてる,斉藤さん……」

 ヒトミさんが亡くなった。たぶん,あの何か知らない袋を渡したすぐ後で。

 その後,警察に事情聴取のようなものを受けたが,ヒトミさんの死んだ原因は教えてくれなかった。身寄りのいなかったヒトミさんの葬儀は,本人の残した遺書に従って,誰にも公開されなかったと店長が教えてくれた。

 私たちの腰はますます悪くなり,検査を繰り返しても何も分からなかった。ただひとつこの頃気づいたのは,毎日のぷつぷつという音が,壁の穴からしていること,穴の大きさに合わせるように,それぞれから出る音の大きさが違うことだ。

 今私たちは寝たきりのような生活をしている。あれから息子たちとは連絡がつかず,警察に行方を捜してもらっている。夫が早期退職してもらった退職金を使って自宅療養しながら,警察の連絡を待っている。

 そして,ぷつぷつという音は今も続いている。

サワコの雪男

 サワコから,披露宴の招待状が届いた。彼氏とかそういう恋愛話と,まったく結びつかないイメージだったサワコがいつの間に,というのが私が最初に思ったことだった。

 大学のUMAサークルで知り合ったとき,サワコは赤いチェックのネルシャツに,細身のデニムパンツ,白いコンバースのハイカット姿で,メイクといえば眉を描いているくらい,このうえなく自然体だった。

 小さいときに日本最後のツチノコを目撃した,と主張するサワコは,暇をみつけては,キャンパス近くの山での雪男散策に余念がなかった。

 「イエティじゃないの,雪男。日本なんだから和製よね。」

 それならサークルもユーマじゃなくて,日本未確認生物部とかでも良いんじゃないの,ときいたら,

 「ユーマは世界の共通用語だから良いの,そのままで。」

 イエティは違うの?

 「雪男はね,雪女と対になってるの。雪女の男性バージョンが雪男なの。」

 白装束を着て,冷たくかわいそうな女性の男版?白和装の,触れたら凍える美男子ってこと?ふつう雪男って,大きい毛むくじゃらな原始人じゃないの?サワコは,大きくううんと首を振った。

 そんな雪男探索に行っては,季節の山菜ばかり持って帰るサワコに,男子部員は,食糧調達が真の目的ではないか,サークルの本分を見失っているのではないか,とかげ口をたたいた。

 なかでもヒバゴン論争でサワコにけちょんけちょんにされたアキテルは,その急先鋒で,何かにつけてサワコにかみついた。いや,議論をふっかけるとかではなくて,あらぬ噂というかデマを流すだけだった。

 アイツの両親って、例の諜報機関の機密情報をぬすみ出そうとして,クビになってアメリカ国籍をはく奪されたんだって。いまは自宅で変なもん発明して金稼いでるらしい。どうせあの陰謀だらけの超大国の技術をウリにしてるんだろうな,アイツの親だから。サワコはこれを第三者から耳にして,

 「いつか,名誉不遜で訴えてやる」と鼻息も荒く怒った。そもそも名誉毀損だし,それに,雪男の話と同じくらい真剣なのはなんで?小学生でも言わないバカバカしいデタラメだってくらい誰だって分かるのに,と私は不思議だった。

 噂といえば,サワコが帰国子女だってのは本当だったのだろうか。

 彼女と英語の授業が一緒だった子と,卒業してからたまたま居酒屋で鉢合わせした。話題はごく自然にサワコの話になった。サワコの発音の「キレの良さ」と,ネイティヴの先生に物おじしない「オシの強さ」を思い出しながら,彼女はありゃホンモノだねと言っていた。

 それよりね,先生が細かいこと指摘すると,あの子,小さな声でガッデムんって連発するの。ふつうそんなこと言わないでしょ。しかも,ガッデム「ん」よ。本場だとあれが正しいのよね,たぶん。

 サワコと英語のクラスが別だった私は知らなかったが,脇を向きながらガッデムんをつぶやく彼女の姿は,想像してみると,すごく彼女にふさわしい気がした。

 私は,捕獲も確認もできない未確認生物に,二年で見切りをつけ,残りの学生生活はバイトに明け暮れた。卒論をコピペしながら書き上げたときには,第二希望だった某アパレル企業の内定が出ていた。

 卒業年度になってもサワコが先頭に立ってサークルの勧誘に出ていたと,同じ科の後輩たちは誰かれなくささやいていた。先輩は就活しないで,相変わらずイエティを探してるらしい。イエティじゃなくて,雪男だよ,と私は思ったが,訂正するのはいろいろややこしい気がしたので,口には出さなかった。

 サワコとはそれっきりになっていた。

 目の前にある招待状には,サワコの名前のとなりにアキテルの名前が記されている。二人がいつ付き合いはじめたのだろうという疑問よりも,アキテルが「名誉不遜」で訴えられなかったんだと私は考えた。

 それにしても媒酌人のジョナサンって誰だろう。相変わらず謎の多いサワコらしいと言えば,そうだけど。

 きっと,披露宴の会場には,UMAサークルのOBがたくさん招かれるのだろう。出し物も影絵のネッシーや、河童のコスプレイヤーによるキュウリ踊りだったりして。

 なんだか急に懐かしい気分になった私は,卒業してから経った年数を,久しぶりに指折って数えてみた。

キューピー100パーセントライター

 クニヒコさんはとにかく唐突だ。この前もいつものように,眠い目をこすりこすりお弁当を作っていたら,「今日,金沢に出張だから駅弁ですますよ」って涼しい顔で言って,私がようやく事情を飲み込む頃には,タバコをスパスパさせながら,玄関から早足で出て行った。あとにはタバコの煙だけが残った。

 私は何だか悔しくて,クニヒコさんのために作ったアボカドとシュリンプのサンドを,ぐしゃぐしゃにくずしながら,お腹も空いてないのに大口で食べた。食べ終えると,クニヒコさんが食後にするように,タバコを加えるふりをしてみたけど,虚しくなるだけと思ってやめた。温かいミルクコーヒーに,砂糖をたくさん入れたら,少しだけ落ち着いた。

 「おれ,どっちもいけるけど,それでも良い?」勇気を振りしぼってクニヒコさんに告白したとき,そう言われて「どっちも」って何?って思ったけど,クニヒコさんが顔を,紙をくしゃっとしたように笑ってたから,私はその「どっちも」がどうでも良くなった。クニヒコさんは暇を見つけては,私の部屋に泊まるようになった。

 いつもより早く仕事が終わると,クニヒコさんはとても優しい。もたもた食事の準備をする私を後ろから抱きしめて,「チエのエプロン姿っていやらしいね」と耳元でささやく。今日はどうしたのって聞こうとするけど,そんな時間はくれなくて,クニヒコさんはもうスカートの下から手を入れてる。

 「チエは感じやすいんだから。」そんなに触られたら濡れちゃうよ,クニヒコさん。私のかすれた声とカラダをよじるのに反応して,クニヒコさんのがだんだん固くなっていく。テーブルに両手をつかされ,下着をさっと脱がされ,クニヒコさんが入ってくる。「ぐしょぐしょだよ,チエ,いやらしいな。」ゆっくりしたりはやくしたりして,ときどきうなじをきつく吸いながらクニヒコさんは言う。

 でも,終わったあとは,クニヒコさんはまるで思想家みたいに難しい顔をして,タバコをスパスパする。私はお腹の奥にクニヒコさんの余韻を感じながら,乱れた衣服を整える。パスタの鍋が沸騰していて,ラグーソースの少し煮つめすぎた香りがする。先にパルメザンを用意しとかないと,と思うけど,まだクニヒコさんのが入っている感じがして,カラダが思うように動かない。

 「チエ,明日,会社の同期と飲むから,晩ごはんはいいや。」大好きな鉱石の図鑑を見ながら,クニヒコさんが言う。そういえば前に,「チエはタルクだな」って言われた。タルクって何って聞き返したら,「うーん、軟らかい石ってとこかな?チエのつるつるの肌のように」とはぐらかされた。ダイニングテーブルのソファーにいるクニヒコさんは,どこか遠くから来た人のようだ。ターバンを頭にまいた,石を売る砂漠の商人みたく見える。

 砂漠には砂がたっぷりあって,でも石が無いから,普通の石でもきっと宝石みたいだろうなと思った。クニヒコさんは,石を売るだけでなくて,あの図鑑をつかって石の鑑定もする。タルクは軟らかい石だから,きっと高く売れるのだろう。でも,クニヒコさんはタルクを売らない。これは売り物ではないんだよ,いくらお金を出されても無理ですね。

 あるとき,クニヒコさんが変なことを言った。「キューピー100パーセントライター」。え、キューピー100パーセントライター?思わず聞き返したけど,ガスの代わりにマヨネーズが詰まったライターとか,マヨネーズが好きすぎて,体脂肪率がマヨネーズ100パーセントのモノ書きの人を想像して可笑しくなった。「ねえ,クニヒコさん,さっき,キューピー100パーセントライターって言ったよね?」クニヒコさんは何も答えないで,またしても図鑑に見入っていた。

 クニヒコさんは図鑑を見ながら,石を鑑定している。ピンクのような緑のような石。どこにでも転がっているふつうの石に見える。あの不透明なのってなって言ったっけ。オフホワイト。それは白か。鑑定家クニヒコさんは,驚いたような顔をしている。あんな顔見たことあったっけ。いつものようにタバコを加えているけど,スパスパしてない。え,その石,売るの。そのとき,私はクニヒコさんの手の中で,その石になっていた。

 久しぶりに外食して帰ると,郵便受けに家の鍵が入っていた。変な気がしたので,急いでエレベーターに乗って部屋に入ると,クニヒコさんのタバコのにおいがこもっていた。明かりをつけたら,テーブルの上にメモのようなものが一枚,タバコのケースに敷かれていた。「好きな人ができた,さようなら。」くせのある字で,そう書かれていた。

 クニヒコさんが,「どっちも」好きになれる人だとは,どこかで納得しないまでも認めていた。誰かが誰かを好きになるのも仕方ないことだ,と私は思う。私が石が大好きなクニヒコさんを好きになったように。でもね,クニヒコさん,ひとことで良いから,こんなことはクニヒコさんの口から聞きたかったな。私,勝手に放りだされて悲しくならないほど強くないよ。

 テーブルの上にぽたぽた涙がこぼれたけど,雨が降っても大事な人は帰って来ないように,いくら泣いてもクニヒコさんは帰って来ない。たぶん,携帯電話もつながらないだろう。でも,そう思ってもぽたぽたは止まらなかった。最初につながったとき,泣いている私の口に指を入れて,クニヒコさんがその指をちゅるんとなめたのを思い出した。私は自分の指を口に入れてみたけど,なんだか余計に悲しくなって,ぽたぽたがぼたぼたに変わっただけだった。

 ダイニングテーブルに,鉱石の図鑑が置かれていた。クニヒコさんはあまり荷物を持ち込まない人だった。まるでホテルに泊まりに来るみたいに,つぎの日に必要なものだけ持ってきた。今までもこんな風に置いていったの。図鑑もわざわざ買ったのかな。図鑑には,大きな付箋が目につくようにつけられていた。それをたどってぶ厚いページをめくると,いつかのタルクが載っていた。ねえ,クニヒコさん,私が石鹸みたいに脆いって知っていたのに,こんな別れかたするの。ズルイよ,ほんとに。

 外ではいつの間にか降り出した雨が,室内にきこえるほど,雨足を強めていた。

男の鮮血

 ニイちゃん,それな十日うたれる前に出られるで。傷害はな,相手の診断書が必要やねん。ニイちゃん押しただけなんやろ。それに手ぇはたいて相手の携帯落としたくらいやったら器物損壊にもならへん。すぐに弁護士に連絡とって弁償しといたらエエ。

 周りからは「弁護士は初期費用が高いから,使いまくらんと意味ないで」とか,「このあと戻ったら,すぐに弁護士会につないでくれって担当官に言い,当番弁護士がタダで来てくれるで」などの助言も聞こえれば,「ワシははよう刑務所行きたいねん,なんで検察官時間かけるんやろ」と,クスリのせいで前歯がなくなったおじさんがつぶやいている。

 検察庁は留置所から予想以上に近く,その鉄格子の嵌った「待合室」は思いの外せまく,微妙に丈の低い背もたれのあるプラスチック製の椅子は,待つ時間をそのまま密かな責め苦の時間に変えた。

 ここに来る人間には二種類しかない。それを見極めるのは容易だ。「待合室」に入れられる時に事務官が抑揚なく言う,「うえに書いてある注意書きをようく読みなさい」という言葉に反応するかしないか。どこ吹く風と黙想に入るのは,少なくとも前歴があるか,「十日をうたれた」者。薄汚れた,お世辞にも流麗とは言えない文字(いつからそこに張り付いているのだろう)に目を凝らすのは,まだ拘留されて48時間が経過していない者だ。

 そもそも司法機構では「時間」という観念が「外」とかなり異なる。一般に刑務所や拘置所で自由の意味は,ほぼ「時間」と読み替えて理解されるが,じっさいに逮捕された者は,「時間」の流れが七寸釘で硬く固定されたことに気がつく。文字通りの拘束時間が,最短で24時間,最長は刑期の年数分つづくというわけだ。

 初犯で,軽犯罪の容疑で逮捕されたとしか見えないサラリーマン風(「ベテラン」でない限り,たいていは留置所から貸し出される上下のスウェット姿なので,あとは髪型とか口調から判断するしかない)の男たちがそわそわし始める。ホテルに置きっ放しの荷物の心配か,出張での自分の役回りを誰が代行するのか心配しているようだ。

 「自分がここにいることが良く分からないんです。弁護士さんとか頼んだことなかったし。でもアドバイスもらって少し安心しました。留置所に戻ったらすぐ弁護士さんに連絡してもらいます。同僚たち,今頃心配してるよなあ。」同じサラリーマン風の男たちがその一言一言に相槌を打つ。

 彼らも会社という組織に「時間」を委ねている。ことによると違法な企業などは司法以上に「時間」を奪っているかもしれない。だが,自らの「主体性」が微塵でも残されている(たとえば,会社を自己都合で辞めることが可能性として残されている)分,事情はあくどい企業の方がずっとまともだ。司法はすべての時間を管理する。

 あるいは自衛隊などを想像しても良いだろう。この「擬似」軍隊では,恐ろしく厳しい宗教団体の初等教育のように,起床時間から布団のたたみ方,夕食の作法や就寝態度まで規律に則って運営される。とはいえ,やはり先の辞退の自由は法律上許されている。

 …25番!ある区域の留置所の25という番号を割り振られた者が呼び出される。狭い犬小屋の重たい扉ががちゃりと開けられ,呼ばれた者が外へ出ると再びがちゃりと閉められる。当の25番には冷たい手錠が,左手そして右手の順でかけられ,腰紐がリードのように結ばれる。検察官の取り調べだ。先のサラリーマン風たちが,自らにも起こるであろう事態に備えるかのように,身を少しきゅっと縮こめるのが分かる。

 併設された(たいてい中に備えられている)裁判所に行く場合は,留置所で前日に知らされる。この点は検察庁も同じだ。裁判所でも,この「犬小屋」とは別の鉄格子のなかに,いったんは収容されるが,検事の取り調べのように各犯各様ではないため,数名がそれこそ江戸時代の市中引き回しのように,手錠とひもで数珠繋ぎになって連れて行かれる。

 そろそろ昼時だろう。事務官たちがバタバタし始めた。と,檻の前の暗幕のように厚いカーテンがさっと閉められる。別の区域の容疑者同士や別性の容疑者たちが目視させ合わないための措置だ。先の番号と同じ理屈(個人情報の保護)だが,裏返せば個人の「個」が剥ぎ取られている証でもある。「ほんま,しゃーないわ。向こうが借金しといて,返せちゅうたら抵抗しよった。んで,自衛隊んときの護身術かましたら,即通報や。こっちは加害者やで。車乗っとったら,これや(平行にした両手を縦にして,軽くにぎり少し外側へ反らす)。BMWも押収しよった。」

 先ほどまで黙ったまま左足の膝を痛そうにさすっていた,リーゼントの崩れた中年男性が口火を切った。え,それ過剰防衛ちゃいます。隣に足を組んで座っていた,明らかに「経験者」の若い男性が言葉を受ける。茶髪がややプリンになりかけているが,毛玉一つない木綿のスウェットにプリントTシャツ,上には無地のブルゾンを羽織っている。「いやな,体が勝手に動いてしまうねん。それになあ,1000万貸してたんやで。」

 その額に興味が湧いたのか,サラリーマン風の男性たちを中心にざわめきが広がる。どんな理由で貸したのか誰かが質問する前に,事務官が現れ,ひざ下くらいに設けてある横長の狭い「小窓」から,次々に某メーカーの袋パンを入れる。一頻りパンのバケツリレーが続くと,次は糖尿病には危険な甘さのコーヒー牛乳のコップが回される。小窓がかちゃりと閉まると,それぞれがそれぞれの反応で目の前にある異様な組み合わせのパンを検分している。

 ダイエット中でない男の子でも敬遠したい,油ギトギトの揚げカレーパン(しかも分量がすごい)に,これまた大ぶりで中身がしっかり詰まったあんパン。他の留置所は分からないが,一つの事例としてこの「油」も「時間」に負けないくらい重要な用語だ。19番を割り振られた彼のいた区域では,朝は市販のミルクコーヒー(紙パック)に業務用のパン2個,昼夜ともに仕出しの弁当だったが,メインとなるおかずはほぼ揚げ物だった。

 彼なりに統計を取ったところ,どうやら三回に一度は揚げ餃子が,二回に一度は白身フライが出た。それを同室(同「檻」というべきか)の二人は,もくもくと,しかもかなりの速さで平らげた。一人は還暦を越えて歯が一本もなく,もう一人はアパッチ族の猛者のような面構えをした五十過ぎくらいの男性だったが,二人揃ってものの10分ほどで弁当箱を綺麗にしたから,ゆっくりで小食な彼は本当に辟易した。

 寡黙なアパッチの猛者はさておき,歯のない老人は彼に何かと話しかけた。元自衛隊隊員,若いときは高給取りで,高度経済成長期の東京を起点に「ぶいぶい」言わせたらしい。「そうね,すごいときは一晩で二百は使ったかな。」若い男女が一糸まとわぬ姿でひしめく秘密のクラブにも一時は通っていたという。そんな金に糸目をつけない青春時代が高じてか,老人は競馬に負けた憂さ晴らしに詐欺を働き逮捕された。

 長く硬い髪を黒いゴムでくくっていた猛者の方は,やたら留置所の「さき」に詳しかった。巨額の詐欺容疑に求刑される年数を心配していた老人に,刑務所と拘置所の相違,そこでの囚人の扱い,出される食事など,ぽつぽつと情報を与えていた。ただし,歯のない老人は難聴だったので,しぜん彼が代わりに拝聴することになったが。

 初犯で右も左も分からない彼には,この同室の二人はとても頼もしかった。検察庁や裁判所での振る舞い,弁護士への要望の出し方,担当官への態度。そっけなく,でも文字通り微に入り細を穿って教えてくれた。何もかもが,これまで彼が「外」の世界で関わってきた人間よりも「まし」だった。容疑はともあれ,この金網の中で過ごす状況を分かち合う点において,同等として扱ってくれたのかもしれない。

 そんな二人だったが,彼らをとくに苦しめたのが,便通だった。コンクリに絨毯を敷いただけの留置所の部屋で,これといった運動もせず(その区域では月曜日から金曜日まで「運動」が許されていたが,上も下も囲われて,外の景色さえ見えない狭いスペースではせいぜい立ち話ぐらいが関の山だった),出てくる食べ物を日常の変化として喜ぶようでは,余程の腸内フローラがないと便秘になるのは必定だ。

 たしかに便通の改善には,ロケットペンシル手法の「食べ物を入れること」が効果を及ぼすこともあろう。だがそれとて,食べ方と食べ物を選ぶ。毎回,食物繊維の乏しいパンや弁当を凄まじい速さで平らげているのであれば,入れたから出るという命題は危ぶまれる。一方の彼といえば,パンは三分の一程度,弁当は野菜の惣菜だけ。揚げ物もご飯もほとんど食べなかった。だが,不思議と二人の苦悩とは無縁だった。

 食べないと体がもたへんで。二人も担当官たちも彼に声をかける。だが,食欲がないのだから仕方ない。検察庁に行くたびに五時間以上は取り調べを受ける老人は,体力こそ最後の抵抗と言わんばかりに,歯のない口で食べ物にむしゃぶりついていたが,アパッチの猛者は,日に日に食べるペースが落ちて行くようだった。「あかんな,薬もらわんと。」

 聞けば拘留十九日にして便通が一度もないとのこと。押し下げられたナニが硬くなりすぎて,気張れば気張るほど周りが裂けて血がしたたる。オレンジ色の保安灯で少し明るめに照らされた深夜に,アパッチは険しい顔で鍵のかからないトイレに向かう。不眠症の彼は,支給されたスウェットの袖で両目を隠しながら,その動静を見守るではなく,聞き守っていた。ぽたり,ぽたり,ぽたり。それから流す音。

 とうとう猛者はある日某メーカーの下剤を頼んだ。「出ないのか」という担当官の問いに,「来てからいっこうに出まへんねん。もう血だけですわ」と答える。「そりゃ難儀やな,月のモノみたいなもんやな,痛いやろ。」どう見ても経血を体験したことがない担当官の言い振りに,彼はイラついたが,そんなことを指摘したところで未決保留の生活は変わらない。左手薬指に見える指輪は家族がいるを証。家庭で吐けない言葉が吐ける場所,彼の留置所の定義が一つ増えた。

 翌々日の夜。アパッチの猛者にようやくやすらぎの時が訪れた。何かが裂けるように噴出する音が聞こえ,猛者の安堵とも悲鳴とも判断のつかぬ吐息が,寝静まった檻の中に静かに響いた。その音自体には不快感を覚えながら,彼は起きたら昨晩は出ましたかとどのタイミングで言おうか考えていた。