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fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

窓の向こうで降る雨(1)

 沢木と別れる少し前,楓はまだ返していなかった合鍵をつかってこっそり部屋に入った。神経質な沢木はいつもみたくアイマスクに耳栓をして寝ていた。そのベッドの隣に下着姿で滑り込んでくっついたら,沢木の無精髭が頬にちくちくした。

 お前,驚かすなよ。いつ入ったんだよ。っていうか,鍵返せよ,いい加減。もう終わりにしようって言っただろ。なんで来るんだよ。

 それ,何度も聞いたよ,沢木さん。でもこうしていたいんだから,仕方ないよ。理由なんか,わたし分からないよ。

 沢木は黙ってわたしの右側にまわり,首の下から回した左手の指先をブラのカップの隙間に入れ,右手で這うように下半身をなぞりながら,わたしの右耳を甘噛みしたり,耳の穴に舌を入れたりする。いつの頃か沢木の定番になった前戯の手順。いつも同じなのに,感じ方はいつも違う。

 そうやってカラダをいじるから,と考えようとするけど,もう右手は下着の中に突っ込まれていて,核の周りをじらすように動いている。「なあ,ずっとしたかったんだろ,お前。バカだよな,俺ら。こんなんじゃあ,どうにもならないだろ。」わざと悪ぶって沢木は右の中指をそっと挿し入れる。

 何週間も放ったらかされていたわたしは,もう欲しくてたまらない。沢木のをスウェットの上からまさぐり,下着ごと脱がせ,自分は脚を開いて沢木を導く。体の位置が何度か変わりながら,その間にわたしは何度もアタマが真っ白になった。沢木は動きを早めたり緩めたり,長く引いたり短く突いたりして,わたしのなかに全部どくどくと出す。

 気がついたらわたし一人ベッドにいた。隣の部屋でカップを持ち上げたり置いたりしながら,沢木はテーブルでカタカタとキーボードを打っていた。前のようには一緒に横に寝ててはくれないんだ。アタマとかなでてくれないんだ。沢木と自分を隔てるのがもうドア一枚ではないことを,楓はこれ以上にないほど思い知らされる。

 楓が起きたのに気づいたのか,沢木は画面から顔を離さずに言う。「なあ,何回考え直しても,もう無理なんだってことぐらい知っているだろ。ずっと前から終わってたんだって。お前だって同じこと言ってたじゃないか。」言葉のわりに口調がやさしい。沢木は終わると,少しだけいつもやさしくなる。

 うん。そうだね。わたしも何回も考え直したけど,やっぱり無理だったって思ってる。サヨナラ,ソウスルヨ。同じフレーズしか思い浮かばないんだ,沢木さんだってそうなんでしょ。知ってる。サヨナラ,ゲンキデヤレヨ。でも心もカラダも,アタマ以外の全部がイヤだって叫んでるんだ。沢木さんが良いの,沢木さんが。

 同じことを繰り返していてもダメだよ,という沢木の声をぼんやり聞きながら,下着をつけ服を着る。沢木さんが買ってくれたスカート,やっと履いたよ。もらったピアスもつけたよ。時計も,ほら。もっと前から受け入れとけば良かった。自分には似合わないって思ってなかったら。前だったら,よく似合うね,キレイだねって褒めてくれたかな。ねえ,今はその言葉を誰に使ってるの。

 沢木は玄関まで送ろうとしたが,楓が顔いっぱいに涙をためたまま,それを隠そうともしないでパンプスを急いで履いているので,かける言葉が見つからなかった。「鍵を…」と言いかけたが,まあ良いやと思った。

 沢木の部屋を出たら,少し冷たい風に楓の胸がすっとなった。空を見た。もう四月になる。近くの家に梅の木があって,最後の花をつけていた。それを携帯で写して,ツィッターにあげた。近所に梅が咲いていました。もう春ですね。たわいのない文面だけど,いまの自分が何を打っても似合わないような気がした。

 楓が出て行ってから,沢木はキーボードを叩くのをやめて,おもむろに頭を両手で強く抱え込んだ。楓が部屋に入ってくるのを自分は知っていた,服を脱ぐのも。それだけか,いや,そうなるのは自分も望んでいた。楓の中に久しぶりに出した時,もしかしたらという想いがあった。どうしてだ,どうして同じことを繰り返そうとする。

 語学学校で非常勤講師をしていた沢木は,バイトで通っていた楓の背筋の伸びたような佇まいと,人を寄せ付けない感じに例えようのない興味をもった。黒く,おそらく少し硬い髪と,鋭角のあご,そして年齢にそぐわない静かな口調。仕事も礼儀もきちんとしているのに,どこか薄い膜のようなもので他者と距離を取っている。

 年齢が同じか少し上くらいだったら声をかける勇気はなかっただろうなと,沢木はよく思ったりした。もしかしたら楓も同じだったかもしれない。二十も違う男性だからこそ,包み込んでいる膜から自分を少し覗かせることができたのではないか。

 授業時間が余ったので,余談として海外のセクシャルマイノリティー事情を話したあと,次の教室に向かおうとしている沢木に,教室の黒板をていねいに拭いている楓が声をかけた。「先生は,大学か何かでLGBTとか学ばれたんですか。」そんな質問とも確認とも取れるような感じの言葉だった。

 一時期流行った文学理論をかじっていた沢木は,正直に「専門ではないけど,一応ね」と簡単に答えたが,話の続きを楓が待っている様子だったので,自分の家族構成を簡単に話し(「妹も含めて女性が多い家庭で育ったんだ,最初母はぼくを女の子に見立ててたみたいだったよ,スカートとか履かせられてる写真が残っていた」),セクシュアリティのグラデーションに照らすと,女性寄りかもと付け加えた。

 黒目でまっすぐ沢木を捉えていた楓は,自分が最初に好きになった人が女性だったと告げた。秘密を打ち明けるという感じではなく,ようやく共通の話題ができたような印象を沢木は受けた。不意に最近オンラインのアダルト動画で,男性器に目が行きがちな自分を思い出し,沢木は「そういうのあるよね」と自己分析して納得したような口調で話した。

 やりとりは授業と授業の間の数分だったが,それから楓は,沢木の授業終わりに何かしらの話題を持ってくるようになった。それはたわいのないことから,自分の人生に関わるものまで実にさまざまだった。(つづく)