fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

あしのない鳥

 そうでなくとも人が上に乗ることを想定されていない白塗りのアルミ製の手すりは,通常かかっている引力に加え,60キロほど下向きのベクトルでもって加重され,いまや南向きのアパート二階に何とか固定されている短いボルトを,秒速20メートルの初速で排出しようとしていた。

 ゆらりゆらりする足場でかろうじて平衡を保ちながら,頭のなかで7オクターブの旋律が,それ以上の完成度は期待できない和音となって流れたが,彼には聞こえなかった。場違いに日曜日の夕方のにぎやかさを思い出していた彼には,朝未だきの星々もかき消えた赤の背景が大音量で咆哮するのが耳障りだった。

 敗北者,もしくは勝利者。地面から数メートルしか上にいない彼には,どちらでも良かった。ここから,この下らない高みから落下し,あわよくば脳漿をぶちまけること−−−−いな,頚骨を外すか,砕くこと,それだけが絶望的な望み,おそらく叶う可能性など奇跡に等しい望みだった。その望みだけが,愚行を彼に許してくれる気がしていた。山がどうして高くなるのか,その理由は忘れてしまったが,高いところから人が落下する方がずっと自然ではないか。

 手すりの悲鳴はしだいに大きくなった。申し訳程度に打ち込まれたリベットが何本か落ちていったようだ。目を凝らしても見えはしない鉄くずを,何かの印であるかのように探した。こうしてすべてが自然の法則に従い,地の底へ引き寄せられる。そして,ようやく自分が,くたびれたスウェットの上下にスリッパという,あまりに低俗でありきたりの格好をしているのに気づいた。「これでは,誰かを絞殺した動機として,近くにたまたまベルトが落ちていたからと告白するのと何ら変わりない」。ふいに三日前に裁判所に呼び出された時のことを思い出した。

 裁判所へは電車とバスを乗り継がなければならなかった。電車はともかく,この寒い時期に狂ったように暖房の利いているバスは苦手だった。一人自分だけがマフラー,コート,上着を脱いでネルシャツ一枚になっているなかで,みなは何一つ身から取り外さず,熱気と人いきれで窒息しそうな乗り物に平然と乗っている。でも,バスに乗らないと裁判所へは行けない。落ちるためには高いところに登るのが必要なのと同じだ。

 担当の審問官は,職業も年齢も不詳な彼の容姿−−−−虹色のドットが入った毛織のカジュアルなスラックスに,胸ポケットだけ色の異なる柔らかい白いネルシャツ,白黒の格子じまのスリッポン,ラメ入りのべっこうメガネ−−−−を見て,口角をきゅっと一瞬あげた。「他者所有物に関する調査書」と題されたポルトガル語の辞書くらいの厚さの冊子が,無機質なねずみ色の机の上に置かれていた。

 一応安全のために(それは誰の安全のためだったろう)これをかけますが,あくまでこれは規則上の話であって,これをかけてもらったからといって,あなたの身の上がどうなるということではないのです。審問官はそういう趣旨のことを言うと,審問官の横で,破廉恥な妄想に耽っているとしか見えない助手が手錠をかけた。その意外な冷たさは,ことの直前まで冷蔵庫に入れられていたようだった。

 審問官は,冊子のまんなかをおもむろに開いた。そこにいつの間にか挟まれて潰れていた羽虫の死骸があったのだろう,審問官は何かをカリカリと爪ではがした。助手はその仕草に興奮したのか,審問官に流し目を送りながら,鼻から呼気を勢いよく何度か吐き出した。しかし何という格好だろう,あれじゃあ旅行を生業とするセールスマンではないか。助手の服装に規定はないのだろうか。

 審問官は言葉を続けた。「あなたが事件を犯したことはまぎれもない事実です。犯行の事実性については疑う余地がありません。そして,罪の程度がそれほど重くないこともこの事実性のなかに含まれています。ですが,わたしは思うのです。あなたの犯罪の事実性はともかく,あなたという「要素」がこの犯罪をきわめて重くしているのです。いえ,犯したのがあなただから,そしてこの「あなた」という一点について言えば,もっと重い刑を言い渡したくなる衝動に駆り立てられるくらい,悪質だと思っております」。

 中学生のころに読んだ小説に,実の父親から死刑を言い渡される男の物語があった。父親に言わせれば,その息子は「ずっと悪魔的」だったらしい。審問官はその父親ではむろんないが,もしそうなら,判決を宣告するときもきっとこんな風に理知的に話しただろうと思われた。それは感情をつとめて排しているというよりも,内容が理性の働きによってのみ語りうるといった体であった。パイプ椅子につながれていた手錠がかちりと小さな音を立てた。

 大学のときの彼女には妄想癖があり,あるとき自分を囚人のように辱めてくれ(囚人が辱められるのかは知らないが)と,通販で購入したと思われる(彼女がその手の店で直接購入するのを想像するのは困難だった)きらびやかな手錠をトートバックからそろりと取り出した。今かけられている手錠は黒くて,ずっとなめらかな形態をしているので,あのときのように手首にあざは残らないだろうなと想像して,痴情には食い込んだ痕が相応しいような気がした。

 その間中,審問官は,いつの間にか机に置かれていた機械の画面に食い入るように,キーボードを打っていた。そのなかで同じ音が何度か続いたのは,表現に苦しんで削除ボタンを連打していたからだろう。先ほどの自説の犯罪論(どうやら罪の本質が,それを犯した当の本人の本質にあるとする)がどのような文章に仕上げられるのか,そもそも組み入れられるのか考えてみたが,こちらが介入できることでもないので,カタカタという音を聴きながら,調査室の右斜め上に設置してあるカメラを目の端で見ていた。

 調査そのものは本日で終わりになるでしょう。ご足労でした。前にもお話ししましたが,あなたという方を知れば知るほど,この国は法治国家で良かったのかと思わざるを得ません。審問官は,まだ主張が足りないと感じていたようで,相変わらず機械に目を向けたまま,そう呟いた。今にも審問官に抱きつこうとしている助手は,よだれを垂らしながら頭を左右に激しくふっていた。あまりに振りすぎたようで,彼の手錠を外すときにあやうく卒倒しそうになった。

 すべてがそうで,いつでもそうなのだ。意味のないことが起きるのではなく,起ることに意味がないのだ。ここから飛び降りても,もしかしたら調査書ではなくて本当にポルトガル語の辞典かもしれない冊子を読んでも,冷え切った手錠(それは裁判所の所有物だが,もしかしたら昔の彼女が彼の記念にと差し入れた物かもしれない)をかけられても,おそらく何の意味もないのだ。そして意味がないと考えているから,自分は悪質な犯罪者に他ならず,法治国家外の存在なのだ。

 そのとき,手すりの端がガラスを金属片でひっかく音を立てて壁からはがれ,と同時に彼の体は,綱渡りの刹那をカメラで捉えた静寂に固定された。続いて右半身に重い塊をぶつけられたような鈍痛がはしり,こめかみが異常に激しく鼓動した。頭にぬるま湯を感じたが,目の前の道路に赤い液体がゆっくり広がっていくのが見えたので,親切な通行人が湯を垂らしてくれたのではないと分かって安心した。

 近隣のテレビからだろう,「妙齢な」ご婦人と不倫していた若手の国会議員が,さらに買春の疑いありと朝いちばんのニュースが流れていた。遠くから小型犬の鳴き声が聞こえた。小さい犬は高い声で吠える。小学校のときに同じクラスの女の子が飼っていたのも小さな雑種だった。家の前を通るときに吠えてきて,ある日とうとう彼の右足のふくらはぎに噛みついた。包帯に松葉杖でホームルームに顔を出すと,担任の教師は噛みつかれた彼を一方的に責めた。女の子の犬は,噛みついたかどでガス殺処分が決まったのだという。当の女の子はその日学校を休んでいた。

 犬の嗅覚が人間と比較にならないくらい鋭いのは,同じ頃に読んだ動物図鑑から知っていた。飼い主の異変もその類稀なる嗅覚で判断し,初期のガンを見つけた事例もあったそうだ。人の目には見えない悪いものも嗅ぎだしてしまう,それがこの哺乳類の特性だとすれば,あのとき夢中で噛みついたのは,彼の体を構成している悪質の芽を嗅ぎだしたからではないのか。やがて成長し,後戻りも抑制も効かなくなる悪質の小さな原子核を。最初に防ごうとしたこの生き物が殺されるのであれば,教師の怒りも女の子の悲しみもきわめて正当ではないか。

 次に気がついたときは,多すぎる救急隊員たちがさも迷惑そうに,粗末な担架で彼を搬送するところだった。誰が巻いたのか頭にタオルらしき布を感じた。意識の状態から自分の願いは叶えられなかったことを悟ったが,もはやどちらでも構わないような気がした。三年前に部屋を出て行った彼女の方が最初に彼を裏切った。それに当てつけるでもなく彼は彼女を裏切った。

 裏切りに気づいていたが,ひたすら蓄電池のように我慢した彼女は,とうとう震度8強はあろうかと思われるエネルギーを噴出した。彼が配膳したテーブルがひっくり返されたのが先か,耳をつんざく金属音が先だったのか,いやどちらが先かなどはどうでも良かった。強い力で彼は身体中を引っ張られ,押し倒され,腹を両足で昇降運動の繰り返しのように踏んづけられた。

 隣の部屋まで逃げたのがさらに彼女の激昂を誘ったのか,後ろ首めがけて近くにあった「家庭の医学」が振り下ろされた。首筋の骨ばった部分が嫌な音を立て,意識を失いそうになったが,どうしてこんなところに「家庭の医学」があるのか不思議で仕方がなかった。いつ購入されていたのかさえ記憶になかった。たぶんこの救急隊員たちの家には,アパートにある消化器と同じように,一家に一冊は備え付けられているのだろう。そこで彼は再び気を失った。