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fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

男の鮮血

 ニイちゃん,それな十日うたれる前に出られるで。傷害はな,相手の診断書が必要やねん。ニイちゃん押しただけなんやろ。それに手ぇはたいて相手の携帯落としたくらいやったら器物損壊にもならへん。すぐに弁護士に連絡とって弁償しといたらエエ。

 周りからは「弁護士は初期費用が高いから,使いまくらんと意味ないで」とか,「このあと戻ったら,すぐに弁護士会につないでくれって担当官に言い,当番弁護士がタダで来てくれるで」などの助言も聞こえれば,「ワシははよう刑務所行きたいねん,なんで検察官時間かけるんやろ」と,クスリのせいで前歯がなくなったおじさんがつぶやいている。

 検察庁は留置所から予想以上に近く,その鉄格子の嵌った「待合室」は思いの外せまく,微妙に丈の低い背もたれのあるプラスチック製の椅子は,待つ時間をそのまま密かな責め苦の時間に変えた。

 ここに来る人間には二種類しかない。それを見極めるのは容易だ。「待合室」に入れられる時に事務官が抑揚なく言う,「うえに書いてある注意書きをようく読みなさい」という言葉に反応するかしないか。どこ吹く風と黙想に入るのは,少なくとも前歴があるか,「十日をうたれた」者。薄汚れた,お世辞にも流麗とは言えない文字(いつからそこに張り付いているのだろう)に目を凝らすのは,まだ拘留されて48時間が経過していない者だ。

 そもそも司法機構では「時間」という観念が「外」とかなり異なる。一般に刑務所や拘置所で自由の意味は,ほぼ「時間」と読み替えて理解されるが,じっさいに逮捕された者は,「時間」の流れが七寸釘で硬く固定されたことに気がつく。文字通りの拘束時間が,最短で24時間,最長は刑期の年数分つづくというわけだ。

 初犯で,軽犯罪の容疑で逮捕されたとしか見えないサラリーマン風(「ベテラン」でない限り,たいていは留置所から貸し出される上下のスウェット姿なので,あとは髪型とか口調から判断するしかない)の男たちがそわそわし始める。ホテルに置きっ放しの荷物の心配か,出張での自分の役回りを誰が代行するのか心配しているようだ。

 「自分がここにいることが良く分からないんです。弁護士さんとか頼んだことなかったし。でもアドバイスもらって少し安心しました。留置所に戻ったらすぐ弁護士さんに連絡してもらいます。同僚たち,今頃心配してるよなあ。」同じサラリーマン風の男たちがその一言一言に相槌を打つ。

 彼らも会社という組織に「時間」を委ねている。ことによると違法な企業などは司法以上に「時間」を奪っているかもしれない。だが,自らの「主体性」が微塵でも残されている(たとえば,会社を自己都合で辞めることが可能性として残されている)分,事情はあくどい企業の方がずっとまともだ。司法はすべての時間を管理する。

 あるいは自衛隊などを想像しても良いだろう。この「擬似」軍隊では,恐ろしく厳しい宗教団体の初等教育のように,起床時間から布団のたたみ方,夕食の作法や就寝態度まで規律に則って運営される。とはいえ,やはり先の辞退の自由は法律上許されている。

 …25番!ある区域の留置所の25という番号を割り振られた者が呼び出される。狭い犬小屋の重たい扉ががちゃりと開けられ,呼ばれた者が外へ出ると再びがちゃりと閉められる。当の25番には冷たい手錠が,左手そして右手の順でかけられ,腰紐がリードのように結ばれる。検察官の取り調べだ。先のサラリーマン風たちが,自らにも起こるであろう事態に備えるかのように,身を少しきゅっと縮こめるのが分かる。

 併設された(たいてい中に備えられている)裁判所に行く場合は,留置所で前日に知らされる。この点は検察庁も同じだ。裁判所でも,この「犬小屋」とは別の鉄格子のなかに,いったんは収容されるが,検事の取り調べのように各犯各様ではないため,数名がそれこそ江戸時代の市中引き回しのように,手錠とひもで数珠繋ぎになって連れて行かれる。

 そろそろ昼時だろう。事務官たちがバタバタし始めた。と,檻の前の暗幕のように厚いカーテンがさっと閉められる。別の区域の容疑者同士や別性の容疑者たちが目視させ合わないための措置だ。先の番号と同じ理屈(個人情報の保護)だが,裏返せば個人の「個」が剥ぎ取られている証でもある。「ほんま,しゃーないわ。向こうが借金しといて,返せちゅうたら抵抗しよった。んで,自衛隊んときの護身術かましたら,即通報や。こっちは加害者やで。車乗っとったら,これや(平行にした両手を縦にして,軽くにぎり少し外側へ反らす)。BMWも押収しよった。」

 先ほどまで黙ったまま左足の膝を痛そうにさすっていた,リーゼントの崩れた中年男性が口火を切った。え,それ過剰防衛ちゃいます。隣に足を組んで座っていた,明らかに「経験者」の若い男性が言葉を受ける。茶髪がややプリンになりかけているが,毛玉一つない木綿のスウェットにプリントTシャツ,上には無地のブルゾンを羽織っている。「いやな,体が勝手に動いてしまうねん。それになあ,1000万貸してたんやで。」

 その額に興味が湧いたのか,サラリーマン風の男性たちを中心にざわめきが広がる。どんな理由で貸したのか誰かが質問する前に,事務官が現れ,ひざ下くらいに設けてある横長の狭い「小窓」から,次々に某メーカーの袋パンを入れる。一頻りパンのバケツリレーが続くと,次は糖尿病には危険な甘さのコーヒー牛乳のコップが回される。小窓がかちゃりと閉まると,それぞれがそれぞれの反応で目の前にある異様な組み合わせのパンを検分している。

 ダイエット中でない男の子でも敬遠したい,油ギトギトの揚げカレーパン(しかも分量がすごい)に,これまた大ぶりで中身がしっかり詰まったあんパン。他の留置所は分からないが,一つの事例としてこの「油」も「時間」に負けないくらい重要な用語だ。19番を割り振られた彼のいた区域では,朝は市販のミルクコーヒー(紙パック)に業務用のパン2個,昼夜ともに仕出しの弁当だったが,メインとなるおかずはほぼ揚げ物だった。

 彼なりに統計を取ったところ,どうやら三回に一度は揚げ餃子が,二回に一度は白身フライが出た。それを同室(同「檻」というべきか)の二人は,もくもくと,しかもかなりの速さで平らげた。一人は還暦を越えて歯が一本もなく,もう一人はアパッチ族の猛者のような面構えをした五十過ぎくらいの男性だったが,二人揃ってものの10分ほどで弁当箱を綺麗にしたから,ゆっくりで小食な彼は本当に辟易した。

 寡黙なアパッチの猛者はさておき,歯のない老人は彼に何かと話しかけた。元自衛隊隊員,若いときは高給取りで,高度経済成長期の東京を起点に「ぶいぶい」言わせたらしい。「そうね,すごいときは一晩で二百は使ったかな。」若い男女が一糸まとわぬ姿でひしめく秘密のクラブにも一時は通っていたという。そんな金に糸目をつけない青春時代が高じてか,老人は競馬に負けた憂さ晴らしに詐欺を働き逮捕された。

 長く硬い髪を黒いゴムでくくっていた猛者の方は,やたら留置所の「さき」に詳しかった。巨額の詐欺容疑に求刑される年数を心配していた老人に,刑務所と拘置所の相違,そこでの囚人の扱い,出される食事など,ぽつぽつと情報を与えていた。ただし,歯のない老人は難聴だったので,しぜん彼が代わりに拝聴することになったが。

 初犯で右も左も分からない彼には,この同室の二人はとても頼もしかった。検察庁や裁判所での振る舞い,弁護士への要望の出し方,担当官への態度。そっけなく,でも文字通り微に入り細を穿って教えてくれた。何もかもが,これまで彼が「外」の世界で関わってきた人間よりも「まし」だった。容疑はともあれ,この金網の中で過ごす状況を分かち合う点において,同等として扱ってくれたのかもしれない。

 そんな二人だったが,彼らをとくに苦しめたのが,便通だった。コンクリに絨毯を敷いただけの留置所の部屋で,これといった運動もせず(その区域では月曜日から金曜日まで「運動」が許されていたが,上も下も囲われて,外の景色さえ見えない狭いスペースではせいぜい立ち話ぐらいが関の山だった),出てくる食べ物を日常の変化として喜ぶようでは,余程の腸内フローラがないと便秘になるのは必定だ。

 たしかに便通の改善には,ロケットペンシル手法の「食べ物を入れること」が効果を及ぼすこともあろう。だがそれとて,食べ方と食べ物を選ぶ。毎回,食物繊維の乏しいパンや弁当を凄まじい速さで平らげているのであれば,入れたから出るという命題は危ぶまれる。一方の彼といえば,パンは三分の一程度,弁当は野菜の惣菜だけ。揚げ物もご飯もほとんど食べなかった。だが,不思議と二人の苦悩とは無縁だった。

 食べないと体がもたへんで。二人も担当官たちも彼に声をかける。だが,食欲がないのだから仕方ない。検察庁に行くたびに五時間以上は取り調べを受ける老人は,体力こそ最後の抵抗と言わんばかりに,歯のない口で食べ物にむしゃぶりついていたが,アパッチの猛者は,日に日に食べるペースが落ちて行くようだった。「あかんな,薬もらわんと。」

 聞けば拘留十九日にして便通が一度もないとのこと。押し下げられたナニが硬くなりすぎて,気張れば気張るほど周りが裂けて血がしたたる。オレンジ色の保安灯で少し明るめに照らされた深夜に,アパッチは険しい顔で鍵のかからないトイレに向かう。不眠症の彼は,支給されたスウェットの袖で両目を隠しながら,その動静を見守るではなく,聞き守っていた。ぽたり,ぽたり,ぽたり。それから流す音。

 とうとう猛者はある日某メーカーの下剤を頼んだ。「出ないのか」という担当官の問いに,「来てからいっこうに出まへんねん。もう血だけですわ」と答える。「そりゃ難儀やな,月のモノみたいなもんやな,痛いやろ。」どう見ても経血を体験したことがない担当官の言い振りに,彼はイラついたが,そんなことを指摘したところで未決保留の生活は変わらない。左手薬指に見える指輪は家族がいるを証。家庭で吐けない言葉が吐ける場所,彼の留置所の定義が一つ増えた。

 翌々日の夜。アパッチの猛者にようやくやすらぎの時が訪れた。何かが裂けるように噴出する音が聞こえ,猛者の安堵とも悲鳴とも判断のつかぬ吐息が,寝静まった檻の中に静かに響いた。その音自体には不快感を覚えながら,彼は起きたら昨晩は出ましたかとどのタイミングで言おうか考えていた。