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fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

ぷつぷつ

 ぷつぷつという音はいつまでたっても止まない。

 ドラマもメディアも「家庭内暴力」ばかり取り上げた1970年代。よくある住宅に住んでいた私たちも,この言葉に毎日触れていた。

 中学生の息子たちは,ことあるごとに,拳で,足で,壁という壁に憤懣をぶつけた。私たち夫婦は,訳も分からず,得体の知れない事態にただただ怯えていた。

 穏やかな性格の夫は,子どもの行為を止めるなどとはまったく考えなかった。共有スペースの穴だけを,忘れた頃にそっとカレンダーやらポスターやらで覆った。

 息子たちが,一人は大学に進み,一人は専門学校に通うことになって,自宅を離れた頃には,まるで戦争がここで起きていたかのように,家中穴だらけだった。

 なかなか夫の昇進も決まらないので,私はパートをはじめた。近所のよく通うスーパーでちょうど募集をかけていたので,他のところは探さずに面接に行った。

 履歴書などもうずいぶん書いていなかったから,少し緊張したが,顔見知りの店長は世間話をしただけで採用してくれた。

 「いえね,斉藤さんはずっとうちに来てくれてますから,もう店内も勝手知ったるでしょう。何か相談事とかあったら,なんでも言ってくださいね。若い子も一人パートで入ってますが,とにかく明日からお願いします。」

 その若い子,ヒトミさんは,息子たちと同じくらいの年齢の,あまりしゃべらない娘さんだったが,何かにつけてそっとサポートしてくれた。少しおっちょこちょいなところのある私は,はじめてのレジ終いで計算が合わなかった。

 「斉藤さん,レジの下,調べましょうか。よく落ちてたりするんですよ。ほら,小銭がありましたよ。」

 家にいるとうっかりしていても,誰も咎めたりしない。手がすべって茶碗を落とそうが,爪が引っかかって畳の目に傷をつけようが,夫は何も気にしない。家のことは全部任せているのだ。

 テレビでは夫が妻に家事は楽だよなあ,などと言ったりするようだが,うちではそんなことはなかった。あの人は穏やかに仕事に行き,穏やかに仕事から帰ってくる。パートするのにも何も言わなかった。

 「最近,慣れてきましたね,斉藤さん。」

 ああ,ヒトミさん,そうね,少しかな。あなたみたいに早くサッカー(袋詰め)できないし,もたもたしちゃって,お客さん怒ってないか心配しているの。

 「大丈夫ですよ,斉藤さん,全然遅くないですよ。そんなに長い列できてないですし。」

 パート終わりに鮮肉コーナーの透明なシートを上からおろしていると,腰に鈍い痛みがあった。若い子はいいわねえ,こういうのがないものね。つい,帰りが一緒になったヒトミさんに愚痴を言ってしまった。

 「そんなことないですよ,私は腰痛持ちで,小さい頃からなんです。」

 あら,ごめんなさい。そうだったの,それは大変ねえ,私のはたぶん更年期かしらね。今まではなんともなかったのに。

 家に帰ってから,夫の好きなサトイモの煮つけと大根の味噌汁に火を入れていると,チャイムが鳴って夫が帰ってきた。

 「なあ,最近,腰が痛いんだ。明後日の休みに,一度整骨院に行ってみるよ。」

 え,あなたもそうなの,と言いかけたが,男の人には更年期はないものねと思って,そうね,行ってみたら,腰は一度痛めると長くなるっていうし,と言った。

 次の日,また次の日と,ヒトミさんはパートを休んだ。体調が悪くなったみたいだよ,と店長が教えてくれた。代わりに入ったワタナベくんは,ぶすっとして接客も仕事も面倒そうに見えた。

 腰の痛みは相変わらずだった。前は体をかがめるときに痛くなったのに,今はこうしてレジに立っているだけで痛い。私も病院に行こうかな。そういえば,あの人,腰どうだったのか聞いてなかった。

 鯖の味噌煮を食べながら,この前の腰どうだったの,と聞いたら,夫はうーんという顔をして,

 「レントゲンも撮ってもらったんだけど,何でもないって。神経痛が起きる年齢だからそれかもしれないって言われたんだけど,前に腰をぶつけたとか,なかったしなあ。」

 ねえ,私もこの前から腰が痛いんだけど,更年期かもしれないから,中央病院に行った方が良いかな。

 「そうか,お前もそんな年か,そうだよな,俺のも単なる年かもしれないな。」

 次の日の朝,あまりにも腰が重くて,はじめて朝ごはんを夫にまかせてしまった。  ごめんなさい。昨晩はそうでもなかったんだけど。

 「いや,大丈夫だから,お前は今日,休みをもらって病院に行ってこいよ。動けなかったら,タクシーを呼んでもいいから。」

 朝ごはんの準備の分,いつもより時間を費やした夫は,いそいそと仕事に出かけて行った。

 スーパーに電話をして,動けるようになったのは昼過ぎだった。夫の言葉に甘えてタクシーを呼んで,中央病院の婦人科を受診した。問診と血液検査,尿検査が終わって,レントゲンを待っている頃には,もう日が暮れかけていた。

 「そうですね,とりあえず骨密度は大丈夫みたいです。血液検査と尿検査の結果をまって,必要なら産婦人科でも診察しますか。」

 痛み止めを処方してもらい,その日は家に帰った。

 次の日,痛み止めが効かないので,我慢しながらスーパーに行くと,店長が事務室から手招きしているので行くと,

 「ねえ,斉藤さん,ヒトミちゃん,連絡取れないんだ。昨日何も連絡がなかったから,てっきり来てくれると思っていたのに,そのまま来なかったんだ。もしよかったらだけど,様子見て来てくれない,一応俺男だから,お願い。」

 店長は最初,一緒に行って欲しいと頼むつもりだったそうだが,今晩から仕入先の会合があって,数日は留守にするとのことだった。腰は痛かったが,ヒトミさんのことは気になった。

 良いですよ,この後,行ってみます。住所分かります?店長から手渡されたメモには,自宅の近所のアパートの名前が書いてあった。

 ヒトミさんのアパートは木造で建ってからかなり年が経っているみたいだった。私たちが結婚した時に住んでたみたいなところね,と思いながら,チャイムがないので,ドアをノックしてみた。

 軽くコンコンとしただけで,ヒトミさんが出てきた。どうしたの,と聞く前にひどく顔色が悪く,髪がぼさぼさになっているのに気づいた。

 「斉藤さん,来られるとは思っていました。汚いですが,どうぞ。」

 そう言うと,布団が敷いたままになっている部屋に案内された。古いちゃぶ台があるくらいで,テレビなどないようだった。

 ヒトミさん,具合悪いの?お茶とか良いから,何かできることがあったら言って。一人暮らしだと大変でしょう?

 「あ,いえ,私は大丈夫です。ただ……

  失礼だと思いますが,斉藤さん,最近,腰が痛くないですか?」

 え,そうだけど,前から痛かったし,そういえば,腰痛いってヒトミさんにも言ったわよね。

 「いえ,そうではなくて,痛み止めが効かないくらい痛くないですか?」

 ええ,まあ,病院に行ったから,後は検査の結果待ちだけど,やっぱり年かな。

 「率直に言いますね,私の腰も最近なかったぐらい痛いんです。それで動けなくなってたのですが,こうしてお会いして確信しました。」

 ヒトミさんも腰痛持ちって言ってたもんね。かなり痛かったのね。え,確信ってなあに?

 「おうちにいらっしゃるご主人も腰が痛いって仰ってなかったですか?」

 え,何で知ってるの?うちの人のことヒトミさんに話したっけ?

 「信じてもらえないと思いますが,すぐに引っ越してください。このままあそこにいらっしゃると,良くないことが起きます。お願いします。」

 どういうこと,ヒトミさん,あなたの腰痛や私たちの腰痛がなんなの?

 「とにかく,今日はこれをお渡ししておきます。どこでもいいです,神棚がなければ,少し高いところにある棚のなかでも構いません。置いておいてください。」

 ヒトミさんが手に押し込んだ小さい袋は,何が入っているのかずっしりしていて,深い青地に,星のような模様が金の糸で刺繍されていた。ヒトミさん,これ……

 「いいですから,お願いします。とにかく,それを持って帰ってください。」

 何のことかまったく分からなかったが,ヒトミさんの目というか表情というかには,拒むのを阻むような異様な感じがあった。まあ,話ができたし,あれなら数日休んだら仕事に出られるようになるかもしれない。

 家に帰る頃には自分の腰の痛みが気になって,バッグにいれておいたヒトミさんから受け取った袋のことなど忘れていた。それに気づいたのは,家の玄関に入った途端に,バッグのなかで何かが弾け飛ぶ音がしたからだった。

 驚いてバッグのなかを見ると,見たことのない豆のような粒状のものが,バッグいっぱいに散らばっていた。ヒトミさん,何を入れてたのかしらと思ったその時,家のなかから,ぱち,ぷつ,ぷち,と音がした。

 こんな時間に木がきしむなんて,変ねえ,と思ってもう一度バッグを見ようとしたら,バッグのなかのつぶつぶが火を吹き出した。危ないと思って,バッグをつい手放した瞬間,バッグが炎に包まれた。

 必死で燃えるバッグを踏んだり,玄関マットで叩いたりして消して,安全を確かめると,もう一度ヒトミさんのアパートに駆け足で向かった。何を入れてくれたのかしら,危うく火事になるところだわ。

 ヒトミさんのアパートは先ほどと違い,ノックしても名前を呼んでも何の反応もなかった。どこに行ったのかしら,あんなに腰を痛がってたのに。

 その夜,夫に黒焦げのバッグの説明をするために,ヒトミさんのことを話したが,「最近の若者は怖いね,そんな危ないいたずらするなんて」と眉間にしわを寄せただけだった。

 とにかく,明日,ヒトミさんにもう一度会って,事情を説明してもらわないと。

 その夜,木のきしむ音は,夕方より大きく,回数も多くなった。気になって眠れないので,夫を起こそうと思ったが,夫も同じようで,二人ともだまったまま,音を聞きながら,いつの間にか朝になっていた。

 その朝は,二人とも腰が重くて動けなかった。とりあえず,二人とも職場に電話したが,スーパーにかけたとき,会合に出ていたはずの店長が出て,

 「斉藤さん,とても言いにくいんだけど,あの,ね,ヒトミちゃん,昨晩亡くなったって。原因はわからないんだけど,夕方に部屋からすごい悲鳴が聞こえたらしくて,気になった隣の人があとで通報したら……」

 そのとき,とても大きなぱちんという音が,台所から聞こえた。

 「……ということだから,たぶん警察から聞かれると思うけど,斉藤さん,ヒトミちゃんには会えたの?聞いてる,斉藤さん……」

 ヒトミさんが亡くなった。たぶん,あの何か知らない袋を渡したすぐ後で。

 その後,警察に事情聴取のようなものを受けたが,ヒトミさんの死んだ原因は教えてくれなかった。身寄りのいなかったヒトミさんの葬儀は,本人の残した遺書に従って,誰にも公開されなかったと店長が教えてくれた。

 私たちの腰はますます悪くなり,検査を繰り返しても何も分からなかった。ただひとつこの頃気づいたのは,毎日のぷつぷつという音が,壁の穴からしていること,穴の大きさに合わせるように,それぞれから出る音の大きさが違うことだ。

 今私たちは寝たきりのような生活をしている。あれから息子たちとは連絡がつかず,警察に行方を捜してもらっている。夫が早期退職してもらった退職金を使って自宅療養しながら,警察の連絡を待っている。

 そして,ぷつぷつという音は今も続いている。