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fumi_saeki’s blog

とらのあなほど厳しくはないどころかゆるゆるの文章修行道場にするつもりです。

星野佑

 「最後に,物語に潜む危険について話しておきましょう。先ほどから何度も申し上げたとおり,物語とは何かについて語る行為,あるいは,語られた事柄の総体です。それは同音異義語の騙り,つまり,だます行為,もしくは恣意的に作り出された事柄とつながります。

 みなさんは「フィクション」,すなわち虚構が物語の属性であることはご存知ですよね。ですから,多かれ少なかれ,物語はありもしないこと,あり得ないことを対象とします。この点では,恣意的に作り出された事柄が,必ずしも危険であるとは言い得ません。

 ただし,ことが実在する個人,実在する社会,実在する国家となると,話は別です。人は良心的にも,偽善的にも,はたまた意図的にも,自らを取り繕うために,騙ります。社会や国家も同じく,臭いものに蓋をするように,その存在や行為の正当化を図ろうとして騙ります。」

 ここで少し間を空けた。大きな講義教室には,学生たちがまばらに座っている。目の前でさっきまで懸命にノートを取っていた学生が,ふと見ると俯していた。寝ているのだろう。

 「さらに巨視的に,これを世界規模まで敷衍してみましょう。摂理,ないしは均衡などという言葉で語られる事態を,想像してみてください。何かが起きたとき,それもかなり大きな自然災害のような説明のつかない出来事が起きたとき,人はそれを不可知の存在により(信仰のある方はこの語句の使い方にご容赦ください)予め定められていたと考えたり,何かのバランスをとるために為されたのだと考えたりします。

 それを人の弱さ,つまり,説明が不可能な出来事に説明を与える動因,いえ,与えないと済まない人間に固有の性質である,とひとまず言うことができます。自殺する牛や羊,変色して死を迎えるまですべてを食い尽くす昆虫も,同じ理屈だと説明は可能です。それらの事態も,何らかの存在を前提とした摂理や,均衡を図るための行いの一環だと。ですが,いったんこの性質を「物語」として括弧に入れてみましょう。言うなれば,不可解なことを説明する物語。」

 あれの機械音が,あれの影が頭の片隅をよぎった。頭を軽く振って,思考の淀みを振り払おうとした。手が震えている。忌々しい。

 「古代の神話の類は,ほぼこのようにして作り出された物語です。ふだんの自然現象を擬人化し,自然災害に名前を与え,伝説により説明しようとしました。恒星の群れには星辰を与え,その動きからは黙示という意味を感じ取ろうとしたのです。近代になり,科学がその説明原理にとって替わりましたが,この科学はそれまでの説明原理がもっていた作用−−−−それを仮に「癒しという諦念」と呼んでも構いません−−−−それを放棄することになりました。

 不可解な事態にあった人の心を宥める作用は,この近代の産物には備わってなかったのです。たとえば,大きな震災の発生の仕組みがきわめて明確に示されたとして,震災によって親しい人,近しい人を亡くされた方は慰められるでしょうか。示された資料やデータで感じている強い痛みに納得できるでしょうか。ここに不可解なことを説明する物語の入る余地が生まれます。ただし,そこには語りの属性である,恣意的な騙りが入り込む余地も同時に生まれます。」

 そのとき,授業終わりを告げるチャイムが鳴る前のつぶやきのような音が,天井のスピーカーから聞こえた。

 「時間が来たようですから,続きは次回にしましょう。」

 授業前に,学生に混じって拝聴しても良いですかと尋ねてきた,博士課程の学生がコートを抱えて,教壇に近づいてくるのが見えた。

 「ああ,沢木さん,退屈な授業だったでしょう。一年次生向けの基礎科目ですからね。いえいえ,大丈夫ですよ,話しているぼく自身もそう思ってますから。」非常勤先だったので,2号館の地下にあるカフェで相談を受けることにした。

 沢木という学生は,メールで打診してきた質問にいきなり入ることなく,先ほどの授業の感想めいた話からはじめた。

 先生は,先ほどの不可解なことを説明するという物語の他に,何か別の可能性をお考えなのでしょうか。

 「そうですね,講義を先取りして言えば,私はひとつの個体種全体の意思のようなものを想定しています。哺乳類の自殺,個々のケースについては,脳疾患や神経疾患,雷鳴への怯えなども想定できるでしょう。ですが,集団自殺となると,それでは説明が難しくなります。昆虫に至ってはなおのことです。」

 ですが,寄生虫の研究を通して,近年では寄生虫の繁殖のために自殺をさせられる昆虫も,たくさん解明されていますよね。それはどうですか。

 「おそらくそれは一つの科学的説明でしょう。脳科学の分野での研究が発展すれば,もしかしたら私が話している物語も,忘却と同じように,脳の一つの機能作用と説明される日がくるかもしれません,ですが……」

 不意に自分の表情が曇るのを感じた。そうではない,そうではない……

 「私は哲学者ではありませんが」と,言葉を継いだ。「人間の意思の強さ,何にも代替不可能な事態を引き受ける強さを望んでやみません。実存あるいは不条理という言葉を使う方もおられるでしょうが,私はそのような抽象的な観念ではなく,世界を覆っている物語と実際に対峙する,場合によってはそれを相対化し得る別の物語をぶつける,一人ひとりの強さを願います。」

 すみません,不躾に感想めいたことを言ったりして……いつ 強い語気になったのだろう,沢木は明らかに恐縮していた。先生をお伺いしたのは,別の件なのです。

 「はい,たしかメールにお書きになっていたのは,フィーノでのフィールドワークに関してでしたよね。あの国の政情はこの頃ずいぶんと安定しましたね。軍部による事実上の支配が終わり,UUNの主導で民主制へと移行しているとの報道をもちろん見ましたが。」

 ええ,前もった動きが何もなく政府軍が政権から撤退したのには驚きましたが,一部報道は,水面下で民主活動家と断続的に接触していたのではないかと推測しています。ただ気になるのは,先生もご存知だと思いますが,あの国では僧院のあからさまな政治介入が有名で,かつてTEPPと覇権争いを演じたUWEの壊滅についても影で糸を引いていたと言われていました。それが,今回の一連の民主化の動きには抵抗どころか,その姿すら一切見せていません。

 思わず右目がぴくりと痙攣した。僧院,僧院のことが知りたいのか。

 これが奇妙なのは,軍事政権時代に投獄されていた歴史学者リーブロの獄中ノートが最近見つかりまして,そこには,国家を動かしていたのは政府軍ではなく,主導権は最初から完全に僧院にあったと記されていたからです。それが事実だとすると,軍部の撤退よりもまず僧院の撤退が問題になるのだと思うのですが…… 先生がフィーノにいらっしゃった頃は,UWEが壊滅した直後あたりだったと聞いています。その時期,僧院と政府はどのような関係にあったのでしょうか。

 「私は…… 近隣諸国に比べてテロの事案と実態が,いわばつかみやすい,という理由でフィーノを選んだだけでして,当時の僧院の立場などについては何も知りません。UWEに続いてTEPPも壊滅したので,それを機に現地を引き揚げましたし。」

 そういえば,先生は帰国されてから,国際関係論や紛争はあまり取り上げられずに,独自の物語論に絡めてテロについて論じられていましたね。ええと,「テロの背後にある物語も,テロそのものとは区別して,一つの語り(騙り)として読むべきである」でしたか。テロについての研究をも,テロそのものと混同する風潮を批判する視点としては,アメリカの学者も同じような主張を行っていたと思います。

 「テロを解決しようと真剣に考えるのであれば,テロの論理を(私の言葉では物語を)理解しないまでも知る必要があります。そのうえで,命を動員してまで何かを変えようとする物語に,別の形の物語を対置しなくてはなりません。人は自分を物語り,また,物語に自分を委ねるものなのです。自らの物語りを委ねる物語が,圧倒的であればあるほど,その大きな力を前にして別の可能性を見出すのは困難になります。」

 ようやく頼んだコーヒーが来たので,三温糖の淡い白と茶色のブロックを一つずつ黒い渦の中に入れた。沢木がそういえばと,話題を変えて切り出した。

 先生は先の授業で,四つの文章を示されて,不可知の存在を措定的に認めたうえで,その意志にもそぐわない事態が起きうることを示されました。あれは,本題である独自の物語論と一見別のことを論じられていると思いましたが,どういうことでしょうか。

 ああ,あれですか。授業で話したのは次のような内容だった。

 「たとえば,ここに四つの文を提示します。命題ほどのものではありません。

 死ぬべきではない者が死ぬ。

 死ぬべき者が死ぬ。

 死ぬべき者が死なない。

 死ぬべきではない者が死なない。

 さて,話を続ける前に,留保をつけておきたいのですが,ここでの想定からは,司法による裁きは除外します。人が合意のうえに作りだし,尊守しているという意味で,唯一公に許されるこの暴力については,ドイツの思想家が検討しています。そちらを参考にしてください。また,病や事故や災害なども除外します。あえて平板に言うなら,突然死の類が想定されていると考えてください。

 そのように条件を絞って想定すると,二つ問題が浮かび上がります。一つがここで使われている「べき」をめぐる問題です。「べき」とは何か。仮に先ほどの不可知な存在を持ち出すならば,そうした存在の意志が望んでいることを「べき」が表していると言えるでしょうか。もう一つは,これらの文のうち,一つ目と三つ目と,二つ目と四つ目には大きな違いがあります。分かりますか。

 そうです,二つ目と四つ目が「べき」の問題を抜きにしても,真の命題「らしい」体裁をとっているのに対して,一つ目と三つ目は条理に合わない事態を言い表しています。これに今言った「べき」の問題を絡めるならば,一つ目と三つ目の文が意味するところは,不可知の存在の意志が望まない事柄が起きたこと,となるでしょう。」

 この内容を踏まえて,沢木は唐突に自らの意見を言いだした。

 本日の授業や,論文を拝読させていただいた限りでは,先生はあくまで仮定として不可知の存在を認められているように見えて,実は不可知の存在を信じておられるような気がしています。さらにその不可知の存在が望まない事態が,この世界では起きうる。物語はそれを告げ知らせる一つの道具立てであり,そのような事態にもし遭遇してもそれに立ち向かう「強さ」を保つための最後の砦である−−−−申し訳ありません,比喩的になってしまいまして−−−−そのように理解できるのですが。

 「いえ,それは誤解なさっています。私は一言も不可知の存在を認めるなどと書いたことはありませんし,口にしたこともありません。」

 コーヒーカップを置いたときに,手の震えが伝わって,黒い液体が少しソーサーにこぼれた。突然,何を言いだすのだ。僧院に関する質問にはもう答えたはずだ。

 それはそうかもしれません,ですが先生は……

 「もうフィールドワークに関する質問はよろしいでしょうか。この後,別の授業が控えているものですから。もし宜しければ,宗教社会学を専門とする知人に,フィーノの僧院について聞いてみます。国際関係論の研究では描かれていない背景が知れるかもしれません。あくまで可能性ですが。」

 沢木まなみ。彼女は何を知りたいのだろう。僧院が,僧侶たちが忽然と消えて無くなった事実,軍部さえ知らないあの事実だろうか。−−−−首筋でどくんと,ひときわ血流が大きくなったような感覚があった。−−−−それとも「それ」を引き起こした世界に背理するあれのことだろうか。いずれを知っても,いや,知りたがっただけで命を落とすかもしれないというのに。

 「では失礼します。」

 何が自分の不興をかったのだろうという表情で,コートを手にしたまま彼女はその場に佇んだ。

 フィーノでUWEの壊滅の真相を探っていた俺は,あれに,あれによって抜け殻にされた。星野の家の最後の生き残りという理由だけで,俺は魂を宿さない生きた死人にされた。分家だからお前は自由に生きろ。父の願いは日本を離れたフィーノで潰された。どうしてこんな遠い国でまで,家の運命はまつわりつくのか。

 真昼なのに漆黒に投げ入れられたときに,あのときにあれが出した機械音は,今でも頭に響いている…… デメェーティ・ヴィアィ・アニーモ…… 魂を取り去れ。ネルボ,魄だけにされて,俺は僧侶たちを感知する手駒にされた。魂魄の片割れを,しかも魂のない俺を僧侶たちは見つけられても殺すことはできない。

 そうして,俺を見つけた赤い長衣の僧たちは,手にした呪符に星が浮かばないのが理解できないといった風に驚愕の表情をし,その刹那一人ずつ,俺の前であれに取り囲まれ消されていった。それを最後の一人−−−−ターバンとストール上のマスクで覆っていたが,あの目はなぜか幼い頃の瞳を思わせた−−−−に至るまで,何人も何人も何人も何人も消していった……

 また頭の中で機械音が響いた。やめろ,いいか,やめるんだ!

 あれは不可知の存在などでは断じてない。それに背くもの,その意志の希いに反する存在だ。理(ことわり)と称して均衡の物語をでっち上げ,命を奪うことのみを行う存在。俺の母の命を奪い,瞳の命を奪い,俺の魂を魄から引き剥がしたあれを,俺は絶対に認めない,断じて認めない,だが,だが,どうすれば……

 次の授業のチャイムが鳴るのを告げるように,ぷつぷつという音が,スピーカーから聞こえてきた。