fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

ぷつぷつの終わり

 フィーノで魂を奪われてからというもの,佑は寝るのが怖くなった。ただでさえ内部が空洞になっている,意識まで失えば,二度とその空っぽの体で動けなくなると思ったからだ。だが,そんな不安とは裏腹に,睡眠程度ならば「戻ってこれる」ことを,一睡もせず過ごし続けたある日,思わず意識を失って分かった。自分が寝てしまったのに目が覚めてから気づいたのだ。

 冷え冷えとした月が,背もたれ椅子の横にある小さなテーブルにおいたシュナップスの水面に映っていた。生活費をようやく稼ぐ程度に授業を行い,夜はこうして空虚な乾きを満たすように,強い火酒をあおる。いつまで続くのか分からない魄だけの体を抱え,それでも生きている自分という存在の意味−−−−その意味がそもそもあったのか分からないが−−−−までもが,グラスのなかの氷のように溶けてしまうのではないか。

 けっきょく日本を離れたことで,星野の家系を嫌でも意識せざるを得なくなった。「もともとは陰陽師の類の術師だったらしい。お前は見たことが無いかもしれないが,フクミお祖母様の星模様の印は,そうした流れの証だ。」父には言わなかったが,佑は瞳のお祖母様が青い和紙を指でなぞられている姿を,たまたま襖の隙間から見たことがある。顔をおあげになったお祖母様とぴったり目があったので,すごく恐ろしかった。

 父によれば,まだいくつかの世界が並存していた頃,夜な夜な体から緑の煙のようなものが漏れ出る体質の者があったという。いつからかそれを魂と呼ぶようになったが,そうした体質の者のなかに,自分の意識で出し入れする能力者が現れたそうだ。そして,人をかどかわす死者を,その能力を使って退治し,もって密かに生業とする集団が形成された。

 「佑,ここに風船がある。いいかい,これを膨らませるだろ,お前,どうやって割る。」父はふううと膨らませたゴムの塊を,佑の目の前に差しだした。針とか尖ったものでつつくか,思いっきり両手で握りしめるか,でしょ。佑は当然のごとく答えた。

 「もう一つ方法がある。これにレモンの絞り汁をかけるんだ。」ぽかんとしている息子に,どこから出したのか,レモン汁が入ったと思われる瓶を父は渡した。信じられないながら,佑がポタリと汁を垂らした瞬間,破裂音とともに風船が一気にしぼんだ。ゴムの化学式とレモン汁の化学式が似ているから,境界線がなくなって溶けるんだ。

 「魄そのものである死者を消すためには,同じ比率の魄を直接ぶつければ良い。」それが術者の用いるもっとも単純な原理だと,父は説明した。「ただ,それは能力を持った者の直感にすべて任されている。原理を知ることとそれを使役するのは別なのだよ。」星野が家を分けたのも,能力が発現する者と能力にまつわる伝承を継承する者を分けるためだったと父は教えてくれた。能力はもっぱら直系の女性に発現した。

 そのため佑は,瞳の厳しいお祖母様や優しいお母様の術の理屈は知っていたが,金色の泉に触れることも,魂を魄に変えることも叶わなかった。伝えられた知識だけを持った自分が,まさか魄のみの体になってしまうとは。しかも遺った星野家の唯一の人間となろうとは。皮肉というよりも,血の呪いだとしか思えなかった。

 ふとテーブルの上のグラスに目をやると,風も振動も無いのに映った満月の縁がゆらゆらと揺れている。それに見入っていると,耳元で囁く声が−−−−いや,音が無いので厳密には声とは言えないが−−−−聞こえた。

 たまたま満月というのは出来過ぎのようじゃが,まあ良い。これも巡り合わせとお主らが呼ぶようなものかもしれぬ。いな,お主のことだから「物語」と呼ぶのかな?

 誰だ−−−−とっさに叫んだ,その音も聞こえなかった。

 そうじゃな,今はもう名は無いが,人の形をしておったときはフセと呼ばれておった。とうの昔に人格も無くし,どこにでもおり,どこにもいないと言えば良いかの。弟子たちのなかには,ときに山海,ときに草木,全にして無などという者もおるが,そうした概念すら持たぬ。

 不可知な存在なのか−−−−そのつぶやきも相変わらず音にはならなかった。

 いや,そうではない。大きな渦からは自由じゃが,この八世界に干渉することはできぬ。お主らの家系とも係累はなんら持たぬ。まあ吹くに任せる風のようなものじゃよ。

 さて,此度ここに浮かんだのは訳あってのことじゃ。例の理についてじゃ。

 あれと関係があるのか−−−−

 まあ説明を聞け,まずはお主の「好きな」物語から説いてやろうぞ。そうじゃな,その前に魂魄について伝えておいたほうが良さそうじゃ。お主ら星野の家で伝わっておる魄と魂じゃが,あれは間違っておる。いな,正確に言えば,術者を慮ってそのような物語がこさえられたのじゃ。

 どういうことだ−−−−

 魄も魂も実体は同じ。彷徨う心,彷徨い出ることが叶いし心に他ならぬ。そもそもが一つのものなのじゃ。それをあたかも二つに思わせたのは,術者が心の中身をすべて使い切らぬようにさせるためじゃ。お主は潜ったことがなかろうが,潜った者なら二つを隔てるものなど無いことは一目瞭然じゃあ。ただそのように伝えられているが故に,そのように扱ってきた,そういう了見じゃ。

 そんな,まさか。何代にも,何代にも渡ってそんな「騙り」を演出してきたというのか。そして,フクミお祖母様から瞳,自分も父も,その出鱈目な物語に振り回されてきた…… しかし,だとすると−−−−

 その通りじゃ。お主の心は−−−−お主たちの言い方を借りれば魂魄は,少なくとも半分は残っておる。あれも,理と称しとるあれも,お主たちの伝えてきた物語にまんまといっぱい喰わされおったんじゃ。

 それだと魂を奪われた屍人である自分が,どうして動けるのか説明がつく。そうだったのか−−−−

 ふむ,とりあえず得心したものとして,進めるぞ。ここからが肝心じゃ。じゃが,今から話すことは辺(べ)で拾ってきたもの故,そのまま渡す他ない。お主のいう物語からは逸脱しておる。よって,口で聞き,耳で話すのじゃ。

 フセが耳元で音もなく伝えたのは,佑の知る物語とはまったく異なっていた。もし似ているものがあるとすれば,密教の古い伝承の類だったろう。蔵のなかにひっそり眠ったまま伝えられ,同じくひっそり伝えられた特別な解釈を施しながら読み解くもの。つまり,読み解くための鍵が必要なのだが,その鍵は失われている。「辺」とはそのような伝承が行き着く場所なのであろう。−−−−

 声は告げる。穴と門は人の家としてつながる。ゆえに穴を開けば門が開く。世界の門が開く。じゃが,まずはネを救うこと。語りを取るでもなく消すでもなく,ネをアンに与えること。さすれば理は別の調べを奏でる。もう一つの刻とその形が現れよう。

 ネのことは,かつての弟子,オとトに任せておる。お主は理がもっとも強く現れし場所へ行き,ネを理に与えるのじゃ。さすれば,後は自然とうまく運ぼう。じゃがしかし,その前にお主の心を,お主の騙りから解き放たねばなるまい。辺のものはそのようにしか感得できまいからのう。では,後は任せたぞ,できるのはここまでじゃ。

 お主らの家が行いし罪業は,因果の円環に委ねるとしよう。このフセの役目でもないしの。

 フセの遠くなる声を耳で感じながら,佑はグラスを見つめたままだったことに気づいた。そこに映った満月に吸い込まれていくようだ。キ,それがお主の心の名前じゃ。それを忘れるな。

 

そこここが欠けているキの肌の色合いは,満月の光と影の境界線の色だ。

フセの声が音もなく響く。

お前は私であり,私はお前である。

我らが分かたれているとは,そのように語られているからにすぎない。

語りに惑わされるな。

本質は,赤子が己の指を,四肢を分からないのに等しい。

赤子には我も彼もない。 すべてが同じであり,すべてが異なる。

我らはどこにでもいて,どこにもいない。

存在のたゆたう間から浮かび上がり,いつの間にか消える。

ここは全てであり,同時に無である。

いいか,キよ。

フセの音なき声は,これから告げられる音階を先取りする。

キは何も恐れていない。

全てがあり,全てがないのであれば,恐れと喜びの区別はなくなる。

ねじ曲げるためには,一度ネを取る。

だが,それは戻すために行う。

そうすれば,世界の扉が開く。

開かれれば,開かれずにいた刻とは,すでに異なる。

声を出すのだ。

声を出すことと語ることは自ずと違う。

語るのが声を出すだけではないように。

キはうなずく。

出している音だけが与えられるのではいことを知るのだ。

キの音が出る。

「かつて彼の地に

世界を夢により

束ねんとする者あり。

青い音をまとい

金の色を響かせ

果てしのない闇をめぐる。

七つの世界は

その門を開き

夢を迎えんとする。

されど理(コトワリ)

最後の門を閉ざし

声を語りに変えぬ。

語りは声を忘れ

声は語りを忘れる

かくて理(コトワリ)語りとなりぬ。」

キは泣いている語りを見出す。

声なき語りは泣き止んでつぶやく。

そのつぶやきが破けて声に変わる。

語りを結びあわせていた穴が門に変わり,その門が開ける。

 

 斉藤家の門を開いとき,建物を包みこむ,自分の心にぴりぴり反応を示す感じは消え去っていた。立ち入り禁止のテープを剥がしながら,玄関に入ると,そこには瞳が立っていた。

 ここにたくさんの心を預けたんだね。久しぶりという言葉の前に,佑は音にならない声を,大人になった姿の幼馴染にかけていた。瞳はそれに目で答えて,室内の方を指差した。うん,分かってる。たくさんの声が聞こえるよ。こんな風に歪みが正されるのなら,瞳もみんも死ぬことはなかったのに。

 瞳が頭を振った。そうだね,ここまでしなければ,物語を変えることはできなかったんだ。ぼくもようやく声を知ったよ。聴こうとすれば,聴けたはずの声を。その意味では,ぼくはあれと同じく,語りに囚われていたのかもしれない。ぼくの声は変わった?

 そうか,自分でも分かるよ。うん,これからはいつでも会える。フセが教えてくれた−−−−いや,響きを感じ取れる箇所を見い出させてくれた。もうこんな風に「語る」ことはないから,一言だけ。

 理は,きっとずっと前からあの無定形のままだったんだ。それを生み出したのは,この社会だったかもしれないし,あるいは,ぼくらだったのかもしれない。いや,もうこの話は止そう。ここで木霊す声がすべてなのだから。

 瞳に見送られながら入った台所には,もうぷつぷつという音は聞こえなかった。その代わり,声を受け入れた第八世界の歓声が,素敵な和音を奏でていた。これを斉藤さんたちにも聞かせたいな,と思ったが,みんなの声もいつの間にか一緒に和していた。