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fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

観察

 売れない詩人のニクトがありきたりの「愛」を表すのにどのようなメタファー使うか考えているちょうどその頃,クトシュはこの世で自分が一番すてきだと思う言葉は「愛」だと恋人に電話で伝えた。

 電話口でその言葉を聞いたフシェフチーはマドレーヌの焼き加減が気になってつい「そうね」と曖昧な相づちを打つ。オーブンのなかではこんがり焼きあがるのを待ちながらマドレーヌの一つが真夏の眩しすぎる太陽を想像していた。

 マドレーヌが真夏の太陽を想像する−−−−イマージュが溢れるのを期待してミルク入りのコニャックを舐めていたライターのクートは,キーを叩く手を休めた。いくら何でも「飛躍」がすぎないか,まさかお前は焼き菓子の物語を書きたいわけじゃあるまい。

 「いいか,クート。かび臭い言葉かもしれないが,イマージュだよ,イマージュ!それを思うがままに吐き出すんだ。吐き出し続ければ,いずれ形になるもんさ。昔の詩人を見てみろ,みんな適当なことを書いてやがる。それで登りつめた。けっきょく自分勝手でいいんだよ。」

 ディーヴィーはいつだってそうだ,この前も『遥かなる散逸』(500ページを超える大作)をものの三日で書き上げたと,チェリー酒をショットでくいとやりながら大口叩きやがった。あんなのが三日で書けるもんか,これまで誰にも打ち明けずに書きためてきたのを,三日三晩でうまくつぎはぎしやがったんだ。

 クートは自分の手が止まると決まって,先輩の作家ディーヴィーの言葉を思い出してぶ然とした。本当はどこかで「もしかすると野郎は本当に三日で」という考えがあるのだが,それを受け入れるのが,それを認めてしまうのが怖いのだ。

 頭に浮かぶイメージや光景を言葉に変換しようとどんなに努めても,結果がいつも保証される訳ではない。裏返せば,意図しなくともイメージがふっと浮かんで,慌ててメモか何かに残す羽目になることもある。クートの場合は,書くこと書くことが,いずれもどこかで見てきたことのような気がした。自分はそれを写しているだけではないのか。

 イマージュ,イマージュ!うるさいってんだ。まるっきりオリジナルなものなんて,世界のどこ行ったってあるもんか。俺がこうしてコニャックを飲みながら,心のなかでは叫んでる姿だって,どっかの誰かがすでに何かの作品のなかで書いてる「イマージュ」かもしれないじゃないか。そうじゃないってどうやって証明するんだ?

 うんざりしたクートは,こうなればそこらの映画一本そっくりそのまま文字にしてやるなどと思ったりもするが,それも一時のことで,やっぱり書き写している感じの方が気になってしまうのだった。意図してないはずなのに,文字列に仕上がってみると既視感ばかりに襲われる。それどころか,思い浮かべている段階で「どこかで」という感覚に捕らわれる。

 才能がないことを一度認めてしまうと,前に進めなくなるものだ。どこかでその可能性に気がついていても,はっきり認めさえしなければ進める。その歩みがいくら遅々としていようと,その向かう先がどこであろうとも。だが、それでも可能性の影が自分の影に,もうすでに手をかけているのは,ヒリヒリと焼けつくように感じている。 その感じを覚えつつも,書き続けること。クートもそういう類の書き手だった。

 燃えさしがささった灰皿を囲むように積まれた本から,クートは『遥かなる散逸』を乱暴に引っ張り出した。大河のような悠揚さを基調にして,そこで骨太な登場人物たちが,現代という時代を彩ったテーマに沿って人生を展開する。俺が見たことも聞いたこともない景色がそこにはある。

 たとえば,このモルトゥースというペテン師。生の逸楽をあっちこっちで吹聴し,酒場で気のあった女を次から次へと抱きながら,つきまとう虚無を振り払えず,最後は死に飲み込まれてしまう。その死に様はどうだ,文体こそ真剣だが,内容は滑稽この上ない。虚無に飲み込まれる淵にあって,こいつは恍惚としてやがる。

 「……逸楽主義者の裏面をなしていた虚しさは,今やその奇妙な笑いに歪んだ仮面を引き剥がそうと鉤爪をかけたが,その瞬間,放蕩を存分すぎるほど重ねた四十男は,けたたましい声を上げながらその仮面を自ら破壊せんとばかりに頭を柱に打ちつけた。何度も何度も打ちつけて裂けた額からは,血が吹き出したが,その血を見ながらモルトゥースは世界もこれを見よとばかりに,舌が飛び出る勢いでカカカカカと高笑いした。その様は,さながら中世の処刑場で血を浴びて熱狂する愚かな民衆の一人を思わせた。……」

 目で文章を追いながら,クートは先ほど自分が書いた箇所を思い出した。今こうしている時にも,別の場所では別の出来事が進行している。当たり前のことだ。大事なのは,それらの取るに足らない出来事が不思議とつながって,人物たちが動きだす。そして,物語がつむがれる。こんなのはどうだろう。マドレーヌに替えて,オーブンの脇でマドレーヌを待つフシェフチーの「もう一人の恋人」を登場させるというのは。

 そうだ,フシェフチーの裏切りに,「愛」がこの世で最も素晴らしい言葉だと思うような陳腐なクトシュは気づかない。こんな男なら,恋人の相づちの「曖昧さ」にも気づかずに,伝えた時点で一人有頂天になっているだろう。その電話の向こうでは,良い香りのマドレーヌを熱そうにつまみながら,フシェフチーはクトシュの見知らぬ男と抱擁して唇を重ねている。

 浮かんだ光景をクートは言葉に移すが,「電話の向こうで」と書いたあたりで,その光景の陳腐さ,自分が造形したクトシュという男と同じ陳腐さを感じて,ふたたびキーボードから両手を離した。マドレーヌをつつきながら,抱き合ってキスをする。こんなイマージュなんぞ,くだらない映画にでもくれてやれ!山盛りになった灰皿からまだ吸えそうな煙草を探して,「ホスポダ」という飾り文字が表面に躍るマッチ箱を手に取った。

 自分には所詮,ディーヴィーが描くような人物は思いつかないのか。こちらが手心を加えてやらなくても,一種の思想を持って自ら生き,自ら死ぬ人物。あのペテン師さながら,主義に振り回されて病み,病んだ行き先で,自分本来の姿がむき出しになり,主義も病をも乗り越える,そんな人物を。俺の人物は何だ,でくのぼうにも足りやしない。

 仮に操り人形の物語の意義を考えてみよう。人間が意思を奪われた人形のように扱われる,そのような状況はこれまでの歴史に幾度となく現出した。神の宣託がすべてを決し,王の死につき従って粛々と死を強要された時代。私生活まで見張られて,不安がありもしない罪を作りあげる全体主義の時代。クートには,そのような物語や人物がなぞりうる時代との接点が見いだせない。いや,見出そうとすらしていない。彼は「一から作ること」にしか余念が無いのだ。

 ともかくマドレーヌのくだりからおかしくなっているのは事実だ。電話口のフシェフチーは,週末の愉しみにバスタブにたっぷりの湯をはって,さあ入ろうかというところを呼び出されて,男のつまらない戯言にうんざりする。大体,この男はいつも間が悪い,いい加減にして欲しい。これまで我慢してきた陳腐さに,週末の愉しみまで削がれて女はとうとう怒る。

 「ねえ,クトシュ,あなたっていつもそうね。どうして勝手に電話してきて,自分のことばかり話すの。私にも一人の時間が欲しいときがあるの。もう放っておいてちょうだい。」やはり,こう書いてみると,どこかで見たことのある場面になってしまう。畜生どうしてだ。浴槽にゆっくり浸かるのを週末の愉しみにしない女など,そもそもいるのだろうか。

 どうしてフシェフチーはこれまで「こんな男」に我慢できてきたのだろう。クートには,先ほど描こうとした,マドレーヌをかじりながら次第に淫らになっていく女の姿が想像されて,フシェフチーが魅力に欠けるとはどうしても思えない。とすれば,陳腐な男にもどこかしら女を魅了する部分があったということか。だが,それは決して肉体的な側面ではなかろう。「愛」を手放しで讃えるような男がベッドで豹変するなどと考えられないからだ。

 すでにクートが自らの言葉に飲み込まれていることはお分かりだろう。そう,彼は,クトシュのみならず,浮かんでくるイメージ(クートの世界ではフランス語で呼ばれている)がありきたりなことに嫌悪感を抱きながら,同時にそれらに支配されている。クートの苦しむ姿をこれ以上覗いても,目にするのはその堂々巡りだけだろう。

 あるいは陳腐さを逆手にとる脱出口を見出して,陳腐さにまみれた物語を生み出すかもしれない。世の中はそうした取るに足らない事柄で満ちている。だから,ある意味でクートがいたるところに陳腐さしか見いだせないのは正しい。あとはその「事実」とどう折り合いをつけるかだ。

 そう,私だったら,一人の作家を取り上げて,彼が世界を構成する一つの事実とどう対峙するか描くかもしれない。そうクートのような作家を。