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fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

歪み

 自らの望んだ人生を,そっくりそのまま完全に手に入れられる人間は多くない。多かれ少なかれ「失敗」した経験を持つ者は,人生を振り返り,「どこで自分は間違えたのか」自問する。

 この紋切り型の問題設定は,「人生が選択肢からできいていて,それを人は主体的に選ぶ」という命題にもとづいている。

 この命題の危うさは,たとえばその「選択肢」が社会や環境によって与えられていて,その意味で人は「主体性」の一部を(あるいは全てを)放棄させられていると仮定するだけで現れる。

 資本主義社会と共産主義社会,どちらで生まれるかにより人生で選ぶ選択肢は変わる。フランスの社会学者が唱えた「文化資本」の俗流な解釈によれば,生が与えられた家庭の学歴によって選択肢も変わる。

 だが,命題の別の危うさは,「主体的に選ぶ」という部分に認められる。ポストモダンの論者にならって,「主体など無い」と主張したいわけではない。もっとも,彼らの「流動的でない主体など無い」の立場には近しいかもしれない。重要なのは「主体が弾力を持った粘土のように」,やや可塑的であることだ。

 これから話すことは,最初の命題「人生が選択肢からできいていて,それを人は主体的に選ぶ」の二つ目の危うさ,主体の可塑性を示した寓話である。

 

 藤(とう)を蒸す熱気で里田の眼鏡が曇った。他の季節なら窓を開け放つところだが,冬場はそうはいかない。ストーブの暖気も手伝って,工房はむっとした特有の香りで満たされる。

 「サトさん,そろそろ良いですか。」湧子が,レンズを拭いている里田に明るい声で尋ねる。

 いや,もう少し待て。蒸気の匂いが変わるから,いいか,もう少ししたら香ばしさが飛ぶ。そのタイミングで引き出せ。

 切りそろえた藤を大きなステンレスの容器に入れて蒸すこの工程は,次の曲げのために欠かせない。蒸しすぎては藤の弾力がなくなり,蒸しが足りないと藤はうまく「たわまない」。

 必死に蒸気の香りの変わり目を嗅ぎ取ろうとして,筒状の金属に身をかがめる湧子の姿態を,掛け直したメガネを通して里田は凝視している。

 「湧子ちゃんに,これ,出来たんじゃないの?」工房の近所に住む板金屋のユタカが,酒に赤らめた顔をして小指だけを立ててみせる。

 「そりゃ,あんだけの器量良しじゃあ,放っといたって男が集まるよ。」ユタカの弟のタカシが,歯で串からつくねをこそげ取って言う。

 馴染みの居酒屋で久しぶりに一杯ということになったのは,ひと月ほど前のことだ。

 身寄りのない湧子が里田のところに住み込みで弟子入りしたことは,この界隈ですぐに噂になった。職人が比較的多い土地柄,代々の家業をたたむのは忍びなく,と言って弟子の申し込みは期待できない。

 それでなくとも湧子のように若くて綺麗な娘ときては,いくら齢六十を越えても同業者としては正直羨ましいのが本音だ。

 ジャコおろしをつまみつつ,二人の与太話に憮然としていた里田は,

 「ありゃあ,根っからの真面目で,職人気質もある。まだまだだが。男と遊んでる暇なんかあるわけ無い。」と面白くなさそうに言った。

 いやいや,そういう娘にかぎって,ダメな男に入れ上げたりするもんだ。酔いの回りがすっかり早くなったユタカとタカシは,声を揃えた。

 実は,里田には「与太話」だと笑い飛ばせない節がある。

 近頃,休日には湧子が出かけるのを里田は知っていた。どこへ,と尋ねると,決まって「ちょっと用事が」と曖昧に答える。

 住み込みを許しているとはいえ,私用にまで口を出す権利はない。それに夕方には必ず帰ってきて,夕飯の支度にかかる。

 ただ,里田が不審なのは,湧子がきちんと化粧をして,どうやら香水もしていることだ。ふだんは藍染の仕事着に,髪を後ろでしっかり結わえているだけの湧子とは雰囲気が違う。

 いや,まさか湧子にかぎって……

 「お前ら,いいか,あいつは歳から言っても孫みたいなもんだ。きちんとした男なら祝福してやっても良いぐらいだ。それに,そんなことにでもなってるなら,まず俺に相談するだろ。」

 そうだ,もし本当に「そんなこと」になってるなら,自分に話さない訳がない。あの,仕事では何でも尋ね,曲げの力の加え方ひとつとっても自分に相談する湧子が。

 二年目を迎える今,湧子は編みに取り掛かっている。もともと手先が器用なのだろう,湧子が作る「目」は教えた始めの頃から整っていた。だが,本人は不安げに,一段できるたびに「サトさん」と呼んで俺に確かめてもらおうとする。

 「いやね,サトさん,孫くらい離れてるってったって,女は女。それが一つ屋根の下だよ。ほれ,近頃は何ていうか,年の差婚とかってのが流行ってるんだろ。」最後の一滴まで飲もうと,とっくりを逆さにしながらユタカが言った。

 弟子入りを申し込みに来た湧子は高校を出たばかりで,全体が幼い感じだった。それが,今年は二十歳になる。さっぱりした服装だと,体の線も大人になっているのが分かる。

 「いい加減,くだらない話はやめろ。俺が仕事にそんなの持ち込む質(たち)じゃないのは知っているだろ。」あおったお猪口を,里田はテーブルにとんと置いた。

 ユタカとタカシはきょとんとしている。タカシが口を切った。

 「サトさん,前のあれ,まさか忘れたの?藤細工の継承が知りたいとかで,一時期取材に来てた,あれ,オリコさんとか言ってたっけ。サトさん,彼女と……。」

 里田は一度に酔いが冷めた。

 折子。藤製品好きが高じて,作る工程が取材したいとうちにやって来た二十歳過ぎの女。俺が蒸し,曲げ,編み,巻くのを最初は遠目から写真に撮り,何回か来るうちに体が時折触れる近さで見ていた女。

 あるとき,工房を閉めた後で,いつものお礼にと食事に誘われ,お返しにとバーに連れて行って,二人でさんざん飲んで,それから……

 「あのオリコさん,けっきょくどうなったの?一時は,ほれ,「いい仲」だったんでしょ。」鬼の首を取ったとばかりにユタカが声を大きくした。

 「何を言うんだ,あれっきりだよ。取材が終わって,はいさようなら。実にすっきりしたもんだ。」言い返す声が震えないように里田は気をつけた。

 あれから何度か体をかさねた。折子は藤を作る里田に「男の色気を感じる」と言った。どっちがたくさん泡を出すかと,蒸す前の長い藤を二人で咥えて,バケツのなかにぱちぱち泡立てた。

 私もすっかり蒸されて,サトさん好みに曲げられちゃう。布団のなかで折子は汗ばみながら息をついた。二人して果てると,編みってこんな感じ,と張りのある足を自分のに絡めた。だが折子には……俺の他に別の男がいた……

 湧子はあんな女とは違う。俺の技を伝承する,いや,俺のすべてを受け継ぐんだ。

 暖簾をくぐって外へ出た時,もしユタカとタカシが泥酔せずに里田の目を見据えたなら,その目の奥に光る異様なものに気づいたかもしれない。

 その週,湧子はまた化粧をして外出した。いつもと違い,夕方を少し過ぎて帰ってきた。襖を開けて見せたその頬は少し赤み,どこか嬉しそうだった。 「すみません,サトさん,今からご飯,支度します。」

 どこへ行ってきたんだ,休みのたびにお前はどこへ行くんだ,と言いたくなる衝動を抑え,里田は鼻の上でずれている老眼鏡を,読んでいた新聞に向けた。その目先では文章が解体し,文字の羅列になった。

 翌日,網の「目」がやはり気になる湧子は,里田に手本を頼んだ。何の気もなしに藤の蔓を持つ湧子の手を取ったとき,里田のなかで何かが渦まいた。

 その手はかつて里田の胸をなで,首筋を這ったあの折子と同じみずみずしく白い小さな手だった。つい力が入ったのか,湧子が,

 「サトさん,痛いです。」と小さな声を出した。

 「いや,すまん。ちょっとぼんやりしてしまった。その編みで良いから,とりあえず自分なりに進めてみろ。」そう言って白い手を離した里田は,脇と背中に冷たい汗を感じていた。俺はどうしたって言うんだ……

 「サトさん,少し休んでください。お疲れなんですよ。」

 工房の奥で腕を枕に横になっていると,畳が何かの重みで軋んだ。手が腰のあたりをさすっている。柔らかく,ゆっくりと,背骨から左右に広げるように。そのままの姿勢で頭だけ回すと,折子の顔が微笑みかけた。帰ってきたのか,あの男はどうした。

 「サトさん,サトさん……。」肩を揺すりながら,湧子が心配そうに覗き込んでいる。

 「大丈夫ですか,うなされてましたよ。」

 その夜,得体の知れない興奮で寝つけない里田は,明日は湧子に巻きを教えようと考えていた。あの白い手を取って,腕を絡めて,俺のを体に覚えこませてやる。

 「あの,サトさん,本当にこれで良いんですか。」背中にぴったりくっついた里田の体を感じながら,困ったように湧子は言った。

 そうだ,これで良い。この蔓をこう持って。そう。絡めるようにする。藤の組んだものは,こう持つ。そうだ。それで蔓を回していく。湧子の手に手を絡めるようにしていると,次第に里田の下半身が熱くなってきた。それを湧子のお尻のあたりに押しつける。

 「サトさん!サトさん!やめてください!」

 気がつくと湧子は里田の前に立ち尽くし,涙を浮かべていた。

 「どうして…… どうしてこんなことするんですか?」湧子はひどい侮辱を受けたように,強い口調で言った。

 そのとき里田のなかで何かがはじけ飛んだ。

 「お前は,お前は休みのたびに出かけては男と会ってるんだろう。なんで俺に隠すんだ。全部知ってるんだぞ。俺を利用して,その男のところへどうせ行くんだろ!全部分かってるよ俺は!」

 里田の怒号に,涙も忘れ一瞬呆気にとられた湧子は,気を沈めると静かに言った。

 「来月,私がここに来てからちょうど二年になります。藤細工を教えてもらって,その上に住まわせてもらって,何かお礼がしたいと思って……

 昔よく通っていた手芸屋さんに相談したんです。それで時間がかかりましたが,ようやく出来たので嬉しくて……

 でももう良いです。そんなサトさんは見たくありませんでした。短い間でしたが,本当にお世話になりました。」

 呆然とする里田をおいて,湧子は少ない荷物をまとめると,一礼して工房を出て行った。

 むっとする熱気のなかで一人,里田は曲げにかけていた藤の一つを取り外し,ステンレスの筒のなかに放り込んだ。蒸しが終わると,それを別の形の曲げにかけた。そしてそれが乾くとまた同じ作業を繰り返した。

 三度目で藤は音もなくぐにゃりと折れた。

 工房の奥へ所在もなく向かうと,テーブルの上に包みが置かれていた。中には服のようなものがたたんで入れてあった。それを広げた里田は無言で椅子にへたり込んだ。

 服に見えたそれは,胸に「サトさん」という刺繍の入った手作りの作業用エプロンだった。