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fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

そして人は反社会分子となりぬ

 草野オダマキの記憶は,祖母ボリジの黒ずんだ爪で剥かれた無花果の熟れたドロドロの実ではじまる。

 口に含むとき,祖母ボリジは「かぶれるから,口の端につかないように」と,毎回つぶやいた。その儀式は,草野オダマキが,庭で孤独に伸びながら揚羽蝶の幼虫に葉を食い散らされている山椒と同じ背丈になるまで続いた。

 無花果の木は,草野オダマキが鏡に映った人間が自分だと分かる頃には,くねった柔らかい枝を家に覆いかぶさるように広げていた。その葉はざらざらして,葉脈は自分の血管よりずっとたくさんの血を運んでそうだった。

 夏になると,祖父セツブンソウがホースの口をきゅっと指ではさんで,透明なビームを打ちまくり,緑だらけの庭をキラキラに変えた。祖母ボリジが無花果にはかけないようにと口すっぱく言っても,祖父セツブンソウは悪戯顔で遠慮なくほいほい水をかけた。

 祖父セツブンソウがピクルスみたく,アルコールに漬かって死に,何かと悪態をついていた祖母ボリジが,まだ悪態をつき足りないかのように祖父セツブンソウを追って,得体の知れない病で亡くなった後,父クロッカスは無花果の樹を切り倒した。

 祖父セツブンソウが夏に水をかけていたからか,その中心部に口を開けていた穴に,草野オダマキがくだらない宝物を密かに隠したからか,切り倒した時,無花果は根元までドロドロに腐っていた。

 祖父セツブンソウのこの世からの退場とともに,夏の庭からは,無花果から降る水滴も,キラキラも失われた。ヒートアイランド現象とエルニーニョを味方につけた日差しが,庭の不均等な砂粒を,蟻の大砂漠に変えた。

 祖父セツブンソウは絵に描いたような頑固者でひねくれ者だった。血液型が悪かったのか,草野オダマキが小学校でくだらない遊びに興じていた頃に,祖父セツブンソウは脳を病んで左半身が動かなくなった。

 それまで叩いてきた大口と面倒な完璧主義が祖父セツブンソウの体に復讐し,余計なことに頑固とひねくれに磨きをかけさせた。学歴の低かった祖父セツブンソウは,磨きをかけられた頑固とひねくれを最大限に発揮して,テレビとテキストを交互に睨んで物理と化学を修めた。

 草野オダマキは物理も化学も専攻しなかったので,祖父セツブンソウはさらに数学も修めた。朝のテレビ学習が終わると,祖父セツブンソウは草野オダマキを呼んで,二次関数を,ルートを,Σをと,自分の修行の成果を,やる気のない草野オダマキで確かめた。やり込められることがあっても,草野オダマキの知らない化学と物理でリベンジを果たした。

 さらに祖父セツブンソウは,いつの間にか来なくなった「富山の薬売り」を代表して,健康オタクの役割も掛け持った。酢に一週間漬けられて,殻も溶けた卵は父クロッカスでまず試された。父クロッカスは一口食べる前に「不味い」と言いかけたが,実際に食べて悶絶した。

 祖父セツブンソウは宵の闇が降りてくると,草野オダマキを呼んで,一緒にトマトジュースのプルタブを押し上げた。草野オダマキが後にトマトから離れられなくなったのは,トマトジュース教の賜物だった。父クロッカスは嫌いなトマトジュースを避けるために,その時間帯は家に近寄らないようにしていた。

 父クロッカスは仕事と称して飲み回るようになった。祖父セツブンソウは飲みに行くと称して飲みに行った。草野オダマキとその妹たちは,べろべろになった二人を順番に玄関先で迎えた。祖父セツブンソウは酔いながら酔ったふりをし,父クロッカスは素面を装って酔っていた。酔っ払いが二代続けばどうなるか,祖父セツブンソウも父クロッカスもまったくアウトオブ眼中だった。どうやら草野オダマキの家は酒にやられる運命だった。

 母ザクロは祖父セツブンソウとは明確な対立を,祖母ボリジとは不明確な対立をしていた。祖父セツブンソウは血液型が悪かったのか,磨きのかけられた頑固さとひねくれからか,自分より高学歴だったからか,母ザクロを憎んだ。酔生夢死を履き違えた父クロッカスはおんぼろな盾だったので,母ザクロは見えない矢を無数に受けて(あるいは,母ザクロのプライドが放たれた矢を許せず)度々家出をした。

 草野オダマキは母ザクロの家出を最初は悲しんだ。祖父セツブンソウを恨み,「フシンカン」という概念を,言葉ではなく感覚として身につけた。口角泡飛ばす祖父セツブンソウを見ながら,同じく「ミニクイ」という概念を眼に刻み込んだ。草野オダマキは糸を無くしたカイトになった。草野オダマキの歪みの始まりだった。

 小学校の頃,勝手に校庭に侵入していたオカシナ人が,砂場で突然痙攣して泡を吹いた。その泡は草野オダマキのなかで,頭の回路が焼き切れた祖父セツブンソウの口角に浮かぶ泡と重なった。それらを見なければ「いけない」草野オダマキは,しかし,幼少時にひっそり始めた馬鹿祭りを続行していた。それ以外の何も草野オダマキのスケジュールにはなかった。

 父クロッカスが理想の息子に描いた夢のために,草野オダマキは馬鹿祭りの合間をぬって野球をさせられた。中途半端に才能を与えられた父クロッカスは,何かにつけてくだらない武勇伝で,草野オダマキをがんじがらめにした。そして,それに気づかなかった。その触手は,本当は得意でない英語にまで及び,ナイフの文字と発音の違いを自慢げに強調し,他方で草野オダマキがたまたま良い成績をとっても認めようとはしなかった。

 その代わりに1足す1はなぜ2になるだの(「泥だんごは二つ足すと大きな1個になる」),マッチはなぜ火がつくのかだの(「それも知らないで,全国で3位になったのか」),地球外生物くらい無関係な問いを,父クロッカスはカウンターパンチとして繰り出した。のちに草野オダマキは「産婆術」を知ることになるが,父クロッカスのそれは踊りの術の方だと思った。

 草野オダマキはそれでも父クロッカスとのささやかな思い出を大事にした。病院終わりにゆく喫茶店,気まぐれで連れて行かれる魚釣り。しかし,父クロッカスは「タイギメイブン」という薙刀を家庭内外でふるうのに忙しく,草野オダマキの「フシンカン」を助長した。聖夜祭に父クロッカスが枕元においたのは,ことごとく草野オダマキの望まないものだったことも,もしかしたらこれに与ったかもしれない。

 その頃,草野オダマキは意味不明な「イジメ」というものを体験していた。幼稚園では同じ組のおっさんみたいにでっぷりした子に命令されて,その子が嫌う子をカバンで叩いた。たまたま入れていた粘土細工が,その子の頭を数針分切った。母ザクロは泣いた。泣いて草野オダマキをその家に連れて行き,これでもかと謝罪をさせた。なぜ草野オダマキが叩いたのか,母ザクロはその理由を知らなかったし,知ろうともしなかった。

 中学に入ると,一歳年上の猿みたいなのが草野オダマキを餌食にした。呼び出された先には,同じく一歳年上の猿の手下と草野オダマキの友人がいた。草野オダマキは友人の前で罵倒され,脅され,なぶりものにされた。オーマイガー。草野オダマキを「売った」その友人は,その後も普通の中学生活を送り,「フシンカン」に加えて「フカカイ」という新たな概念を草野オダマキに与えてくれた。

 草野オダマキの「フシンカン」は,狂った自己防衛に逃げ場を見つけようとした。空手の本をウキウキしながら買って,そこに書いてるメニューを毎日こなした。家の物置の柱に古い敷物を巻いて,正拳づきを繰り返し,上段蹴りを繰り返した。祖父セツブンソウは物置が傾いてしまうと,やはり口角に泡を吹いた。草野オダマキは知られないように正拳づきと上段蹴りを繰り返した。頭の中ではすでに牛一頭倒せる実力が備わっているはずだった。

 小学校四年のときに転校してきた娘ストケシアに,草野オダマキは一目でまいってしまった。ヒューヒュー。友人たちと連れ立って川辺で遊んだとき,草野オダマキは娘ストケシアの小さな手に触れた。娘ストケシア父親を幼くして亡くしていたと聞いたとき,草野オダマキは頼りがいのあるマイトガイになろうと決心した。草野オダマキのそのような見え透いた下心は,「フシンカン」の後ろで着実に成長していた「ムソウ」が苦労して産んだものだった。娘ストケシアが好意を寄せたのは,腎臓を悪くしていた友人だった。

 それは草野オダマキの歪みが少しだけ進行をやめた時期のことだった。無理やり入らされた中学の野球部(これも父クロッカスの差し金だった)の「課外練習」のサッカーで,一年上の部員がロックオンを間違えて,ボールではなくて,草野オダマキのすねをしこたまに蹴った。立とうとしたら,足に力が入らず無様に転倒した。涙がちょちょぎれた。靭帯の損傷だった。草野オダマキはくるぶしから太ももまで石膏でかちかちに固められた。顧問も部員も,この件については口笛を吹いて忘れることにした。

 その頃流行していたGame Bookを,怪我にかこつけて草野オダマキはたくさん購入してもらった。うひひ。しかし,一つとしてクリアできなかった。がーん。学校側に対する抗議デモを一人でするべく(もしかしたら年金で購入した新車を見せびらかしたくて),祖父セツブンソウは,松葉杖をついて歩く草野オダマキを中学に迎えに来た。帰宅すると,草野オダマキは勉強の合間をぬって,その頃覚えた自慰をコタツの中でおこなった。頭が真っ白になり,その白さに強烈に反比例するほど黒くなる感覚にとらわれた。

 自慰を繰り返すたび,草野オダマキは自ら「ミニクサ」を増殖させた。今や「フシンカン」と「ムソウ」と「ミニクサ」は,三つ巴になって草野オダマキを内側からばりばりと破いていった。草野オダマキはこの世界には(草野オダマキはまだ「世界」を知らなかったので,彼が生きている生活の総体と言う方が正確だ)安心して身をゆだね,自らを浄化し,逃げる必要のない場所はないと確信した。

 これらのどれか一つでも草野オダマキの身上書から消すことができたなら,と草野オダマキは「ムソウ」する。おそらく(これは仮定法だ)草野オダマキは今とは違った形になっていたかもしれない。少なくとも,社会というものの存在を今よりは大事にし,規則にも少しは従順だったかもしれない。

 草野オダマキは反社会分子である。本当はそれだけのことかもしれない。そう草野オダマキは「ムソウ」する。