fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

大伴さん

 彼は失踪したのでも,故郷を失ったのでもないと私は思うんです。彼は,糸巻くんは自ら故郷を失おうとしたのです。そう私は確信しています。——

 「大伴さん,どういう意味ですか?あいつが「故郷を失おうとした」とは?……大学に入ってから,それまでと人が変わったように,私や家内の手伝いをしてくれてたんですよ。仕事が終われば,一緒に酒を呑んで……私はね,大伴さん,息子とそんな風に呑めるのが,時間を共に過ごせるのが,すごく幸せだったんです。」——

 糸巻くんのお父さんは,何かに不意打ちにあったように,涙を流しておられた。ううん,違う,あれは糸巻くんがいなくなってからの,お父さんなりの「喪失感」が,私の冷たい言葉を受けて,堰を切ったように流れ出たんだ。

 たぶん,私は「すごく冷静に」話したんだろうな,感情が無いみたいに「すごく冷静に」。そういう風に受け止められても仕方ない。糸巻くんと関わって,糸巻くんの心の大事なところに触れて,私の一部も,無機物のように,体温を失ってしまったのかもしれない。

 —— あの夜,私がご飯をと誘ったのに,糸巻くんが呑みに行こうと誘い返したあの夜,私は,酔った糸巻くんを自分のマンションに連れて帰った。慰めるためなんて,都合の良い口実だ。糸巻くんが何かを失ったと言うなら,その何かに私はなりたかった。だから——

 陳さんは糸巻くんをずっと縛りつけていた。時間もお金も,そして身体も。いつか授業前に携帯をずっとかまっているから,LINEってきいたら,糸巻くんは苦笑いしながらうなずいて,

 「LINEにすぐ既読をつけないと,彼女怒るんだ」。 ラブラブなんだねって「わざと」からかったら,不思議そうな顔をして

 「ううん,たぶん何かが足りなくて,それをぼくで埋め合わせようとしてるんだと思う」

 携帯から目を離さずに答えた。そんなの,彼女って言うの糸巻くん,と頭のなかで言葉にしてみた。

 糸巻くんが貯めていたバイト代は,「台北へ来てって言われたんだ」という理由で,すべて旅費に充てられた。集中講義明けに,みんなで担当の先生と飲みに行くのに,「今日はちょっと」って行かなかったのも,彼女が許さなかったからだって知っている。次の日に疲れていたのも,彼女と「そういうことしてた」からでしょ,分かるよ——

 だから,二人が別れたとき,糸巻くんはようやく自由になったんだって思った。そして,私はそのときに,糸巻くんを自由にしたかった理由がわかった。私は,糸巻くんとずっと一緒にいたかったんだ。うん。

 「大伴さんって『異邦人』読んだことある?あれ,ぼく好きなんだ。カミュの不条理って,すごく強い思想だから怖いんだけど,ムルソーを好きになるマリィの気持ちって,なんだか分かる気がする。」——

 誰かを好きになるでしょ,その誰かも自分を好きだと思う。だから二人は同じ立場だって考えてしまう。でも,それは違う。ムルソーはマリィを愛していない。愛されていないけど,マリィは,自分が「ムルソーを愛してるから」それで良いんだと思う。

 「でもね,マリィの愛は哀しい。ムルソーを愛しているから,だから哀しい。」

 私,愛ってよく分からない。好きになった人はいるけど,愛した人っていない。愛ってどんなの?

 「そんなの,ぼくも分からないよ。でも,分からないから,もしそれに出会ったらすぐに分かると思う。たぶん。ソーニャみたいな,その物語のなかにいるのに,別世界から入ってきた人みたいに,すぐに分かると思う。」——

 大伴くんのソーニャが知りたくて,『罪と罰』を図書館で借りたけど,ロシア語の名前は長くて覚えられないし,一人ひとりのセリフが長すぎて,途中で誰が話しているのか分からなくなった。

 陳さんは,私が糸巻くんと二人で食事に行くのも許さなかった。大学の友達だから,そういう男女関係とかって無いから,と私は思ったけど,台湾は違うと一喝された。ここは台湾じゃないよ,と思ったけど,それも口にはしなかった。

 そして震災が起きた。その日から集中的に報道された台北の様子を観て,私は何かをずっと間違えていたと気づいた。

 人はいなくなる。その人が望まなくても,周りの人が望まなくても。だから,いなくなって何かを後悔するなら,後悔しないようにしなくてはいけない。その結果,自分が望まなくて,その人が望まないことが起きたとしても。

 あの夜,酔った糸巻くんを玄関先に座らせて,赤くほてった首に手を回した時,もしかしたらもう二人一緒にはいられなくなるかもしれないと思った。そして,陳さんが「抜け」ても,決して二人にはなれないと思ってもいた。だから——

 糸巻くんは拒まなかった。拒むと思っていたのに……。拒まないで私も埋め合わせようとしたの?……それが糸巻くんを空っぽにしたの?——

 「もし,仮にだけど,ダムと違って,流す涙が,雨水や地下水で補充されなかったら,いつか尽きると思う?——幸せって無尽蔵の天然資源だと思う?」

 糸巻くん,涙って生態的な資源だから,刃みたいに欠けたりしても修復するんだと思うけど。ふつうに過ごして,ご飯食べたり,笑ったりしたら水かさが増えるんじゃない?その例え方,正しいの?

 「だから,仮に,の話。大伴さんは,自分が涙を流さなくなる姿って想像できる?誰かに幸せを与えられなくなってしまったサンタクロースって想像できる?」

 糸巻くんの唇をかるく噛むと,レモンサワーの匂いがした。リネンシャツのボタンを一つずつ外していると,その手を糸巻くんが止めて,自分で外し始めた。すごく静かだったから,シャツの白い光と混じって何かの儀式みたいだった。

 下着を少しずらして,糸巻くんの手を導いたら自分でも驚くほど濡れていて,なぜか知らないけど涙も出てきた。糸巻くんは一瞬動きを止めて,それからゆっくりと私のをなぞってくれた。——

 私も何かが足りなかったのだろうか。糸巻くんとつながって何かが溢れる感じは,数日すると嘘のように消えてしまって,代わりに不安がその消えた場所をえぐるように深く浸食した。糸巻くんに抱きつくと,体に触れてもらうと,入ってきてもらうと,その不安の影は少しだけ減った——ううん,たぶん不安を忘れることができただけなんだろう。

 「ロスマンは女中を妊娠させて新大陸に放擲(ほうてき)されたんだ。でもね,あれって女中がロスマンを誘ったんだ。ロスマンの穴を埋めるように,女中はロスマンの故郷で暮らすんだ。ロスマンはこの地から消えるのにね。」

 故郷喪失者。糸巻くんはロスマンだったのだろうか。図書館で『アメリカ』を借りたときに,社会学を専攻している知り合いが,シカゴ学派のモデルの勉強って声をかけたけど,そんなの知らない私は,読む前からロスマンを放擲するのに関わった「女中」の気分だった。

 「ロスマンはね,十字架を前にひざまずく彼女に惚れたんだよ。」——

 フィールドワークの基礎知識で参与観察を学んだ後,糸巻くんは,何か刺激的なものに触れてしまったようにぼんやりとしていた。

 「他者が生活を営む場に,異物じゃないように入り込むってどんな感じかな。異物なら排除されるよね。排除されないで,でも他者になり切れずに,その場に居るってどんな感じなのかな。なるべく気配を消すつもりが,とうとう自分自身も消してしまって」——

 そんなことが可能なら,もうその人はどこにもいない人になっている。だから喪失者だと糸巻くんは言った。参与って,そんな極端なことじゃないでしょ。やっぱり異物感は残しつつってことじゃないの?

 「そうかな,ぼくは『闇の奥』のクルツみたいな存在が,極端だけどひとつの究極の参与観察だと思う。すべてを暗くて深い森林に賭け,そこから搾取し,そこに君臨しているように見えて,その暗くて深い森林にすべてを捕まえられている。そんな絡まりから抜け出せないのは,彼が「それ以外のすべてを失っているから」。でも,クルツはそこに居るんだ,居続けるんだ,森林に,森林の中に。」

 いつ頃からか,糸巻くんは,専攻の文献を話題にしなくなった。前ならレヴィ=ストロースの綴りが有名なジーンズメーカーと同じだ,とか冗談言ってたのに。なんで私の知らない文学の話ばかりするのときいたら,フィールドワークカーは「みんな帰る場所があるから」って。文学のなかには,「帰ってくる場所のない」人物が出てくる。

 「でも,ぼくが知っているのは,何かによって,誰かによって「帰れなくなった」登場人物だけ。自らの意志で「帰らなくなった」人物はいない。だから,翻訳で読んでいても,その文脈から登場人物が,故郷に対するベクトルをみじみ出しているのが分かる。……故郷って,犬の方向感覚みたいに大脳白質で司っているのかな。」

 糸巻くんが故郷と発音するたびに,私のなかにあったその言葉の輪郭と中身がぼやけていった。糸巻くんがコンドームのなかに果てるたびに,私のなかの糸巻くんがぼやけていった。——糸巻くんは,捨てたいから故郷という言葉を声に出すの?糸巻くんは,私を埋めようとしたいから私のなかで果てるの?

 「大伴さん,ぼく,フィールドワークに行くよ。参与観察,どうなるか見てて。あ,見ててって言っても,実際は見れないよね。ぼくが故郷喪失者にたるかどうか自分で確かめてみる。」

 それが糸巻くんと話した最後の言葉だった。私はね,糸巻くん,もっと空っぽになっても,糸巻くんと一緒にいたいよ。故郷も,糸巻くんも,全部が分からなくなっても,糸巻くんと一緒にいたいよ。私を埋めなくても良いよ。——

 だから,一緒にいて,お願い。