fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

故郷喪失者

 月の白い光の中に,紋字が溶けていく。黒が褐色になり,やがて色がなくなる。最後は桜の一片が風に翻るように消えていった。その様を見送っていると,村長がいつの間にか横に立っていた。

 「そうなんですよ,こんな風にいつの間にか横に立たれていたんです。馴染みだったはずの路地なのに,見たこともない骨董屋がありました。そして,導かれるように店の中に入って,異形のものを手にしていたのです。」——

 視線は消えてゆく紋字を追いながら,ひとり思い出すように,つぶやくように,村長は糸巻に声をかけた。異形のもの。昨晩,村長が口伝えを引いて,「変わりたるもの」と口にしたのがそれだとは,何とはなしに気づいていた。

 土地信仰によっては,ふつうなら恐れの対象となるものが,畏怖をともなった信仰対象となる。天狗やその原型とされる烏天狗はその典型例だ。

 「山岳信仰とは,天に屹立する岩山の先端に霊が宿ると考えたもので,切っ先が鋭いほど霊山としての位が高かった。霊が宿るのであれば,そこでは人と自然との境界を越えることができのではと想定され,山伏が集って修練に励んだ。面白いことに,彼らが修行に励めば励むほど,彼らは人から離れ,といって自然にもなれず,天狗や烏天狗に姿を変じた。」

 霊山にフィールドワークをした日本史専攻の知人の講釈だった。

 災害や飢饉に度重なって見舞われた厳しい土地ほど,恐れの対象が畏怖をともなった信仰対象になる傾向がある。戸井さんが巡った東北などが典型だ。秘仏と並んで,神社の鳥居を支える鬼が,ずっと身近な存在となったりする。しかし,それが——

 「糸巻さん,不躾なことをお聞きしますが,あなたは先ほどの寄り合いの様子を観察しながら,自分の故郷(ふるさと)を思い出しておられませんでしたか。あぜの話,田畑の話,用水路の話。聞いているあなたは,何と言いますか,気持ちが高揚されているように見えました。」

 いえ,そのようなことは無いと思います。ぼくは故郷を捨てましたから。村長さんが持ち出された例え話を借りるなら,ぼくの目の先には故郷がありません。昼間に見えない星とは違うのです。——あれは,小さい時のエピソード記憶がたまたま蘇っただけだ,あの場面場面には何の感慨もない。頭に浮かんだ映像の羅列にすぎない。

 「案外,分かっているつもりで分からないことは多いものですね。」

 村長は糸巻の言葉を受け流すでもなく続けた。

 「私をその骨董屋に誘った男は,店の者ではありませんでした。置いてある品をひとつ,またひとつと手にとって巧みに説明するので,ついそう勘違いしたのです。いえ,その言葉が妙な説得力を持っているので,そう思ったのかもしれません。ですが,異形のものを形どった像を手にして突然気を失ったあと,「あの男」ではない店主が介抱してくれて気がついたのです。」

 あの,村長さん,どういうことでしょうか。骨董屋で対応された男性が,店主ではなくて,あとで本当の店主が出てきた,ということですか。では最初の男はいったい——何の話をしているのだろう。自分の知らない骨董屋での出来事を持ち出して,何が言いたいのだろう。

 「気を失っている間に,最初の男とはまた別の男が出てきて,掛け軸の話をしたのです。店の奥にかかっていた一振りの掛け軸です。糸巻さん,あなたもご覧になりましたね。あの内陣の間にかけてあったものです。何も描かれていないので,不思議に思われたでしょうが。」

 糸巻はろうそくの灯で照らされた奥の間の,白い一点を見つめていた。蜜蝋の炎が揺れ,影がその白い色の表面をさっと掠めた。炎がふたたび静止すると,掛け軸は前と同じ白に戻っていた。炎のゆらぎが作った影だと思ったが,そこまでろうそくの影は伸びていないのだった。

 「先に,あの影は私だと言いました。同じ影が,異形の変性した一部でもあるとも言いました。あの骨董屋で私を誘った(いざなった)のは,もう一人の私でした。そのもう一人の私が,この奥早で起きることを予見していたのです。影のことを忠告したのも,異形について調べさせたのも,もう一人の私だったのです。」

 糸巻が浮かべた表情から,自分の話があまりに断片的であると悟った村長は,捕捉するように自分が奥早に来るまでの顛末を語った。

 例の骨董屋での出来事からのち,彼は「駆り立てられる」ように,各地の骨董屋を転々とした。求めていた異形の像があらかた手に入ると,民俗学の研究書を片手に,東北を隅々まで巡った。それまで知識も皆無だった異形のものについて,自分なりの「調査と研究」を終えた頃には,やはり「駆り立てられる」ように奥早に向かっていた。

 奥早ではちょうど村長の座が空いていたので,推されるままに村長に収まった。だが,それももう一人の自分の働きによるものだった。影が異形の変性した一部である以上,この村を守るためには自分以外では務まらなかったのだ。——この話はまたいずれ,という調子で村長は続けた。

 「鬼や天狗など,昔話の世界だと思っていました。もちろん,そうした像や絵巻があることは知っていました。でも,どこかで子どもか民俗学者のものだと思っていたのです。それが,土地と人を結ぶ絆の証,いえ,土地と人との共通の記憶であることに思い至ったのです。どうして私がもう一人の自分に促されたのか,そもそもどうして「私でないといけなかったのか」は分かりません。ただ——。」

 言葉を切った村長は,糸巻へ目を向けた。そして,微笑んだ。

 「私が糸巻さんと同じ,故郷を失った者だったからかもしれません。糸巻さんのご両親は……そうですか。私は二親とも亡くしています。長男だったのですが,父の葬儀にも母の葬儀にも帰らず,まだ墓に手を合わせたことがありません。性格が合わなかったと言えば,それまででしょうが,私の中の何かが両親を拒絶していたのです。」

 両親を拒絶したことで,二人と結びついた記憶も拒むようになった。生まれ育ったのは奥早ほど田舎ではなかったが,田んぼや畑は家の周りに広がっていた。幼い時分の遊び場も田畑だった。田植えを手伝い,トマトや茄子を「もぎ」,下草を鎌で刈った。ぬかるみで泥のついた里芋を抜き,雪の下にキャベツを見つけた。服はいつも土だらけになった。——村長は回想した。

 「それらすべての記憶を拒んだのです。拒んだのですが,忘れたはずだったのですが,不思議ですね,ずっと夢に見るのです。亡き父,亡き母が現れ,私は幼い頃に戻っていて,農作業を手伝っているのです。いえ,土をこねくり回したり,泥だんごを作ったり,虫を追いかけたりしているんです。異形を追い求めるうちに,これが,この過去を受け入れることが,もう一人の私の望んだことだと知りました。」

 二回生のときに文化人類学を専攻して,その学問史や著名な民族誌を知って行けば行くほど,奇妙な違和感を覚えた。どうして「自分の地」を探求しないのだろう。どうして「自分の地」以外の地に熱中できるのだろう。「植民地支配による産物だから」。それは理解できる。いや,「自分の地」ではないから,というのが正しいのではないか。

 もし,「自分の地」に同じ熱を傾けるなら,自分の身体が覚えた「地」の感触は,学問的な言葉に変換され,客体化され,もはやそれまでの「自分の地」の感触ではなくなる。——ぼくは,知らないうちに,故郷を客体化して,学問的な言葉に換えてしまっていたのか。だから,皮膚で感じる土の冷たさや温かさ,名も知らない小さい花や草を揺らす風が,もう自分のものではないと思ってしまったのか。

 糸巻の想念を,まるで承けるかのように,村長は言葉を継いだ。

 「私は学がないので分かりませんが,言葉には何かを形づけると同時に,何かを縛りつけてしまう働きがあると思います。言葉によって編まれた伝承や歴史も同じです。この奥早を「災害の地」と言葉にして,「災害の地」としての歴史を書くことは可能ですし,そうされてきました。ですが,「人と地が向き合った地」と言葉にして,「人と地が向き合った地」としての歴史を書くことも可能です。」

 人と地が向き合った地。向き合わずに故郷を一方的に対象化し,それを拒んだ。そしてそんな自分を故郷喪失者と命名した。ぼくは対象化することで故郷を一方的に失くし,つまり,故郷喪失者を自ら作り出し,演じてきたというのか。

 「何かときちんと向かい合うことは,とても大変なことです。体力も精神力も使います。嫌なこともたくさんあります。だからと言って,そこから逃げて,一つの言葉に押し込めてそこから逃げても,その先には何もありません。空虚が待ち受けているだけです。その空虚を託つ(かこつ)のも良いでしょう。本当の空虚に囚われることを考えれば,まだ大丈夫ですから。ですが,私のように,もう一人の自分が,自分の中の何かが土の記憶を持っているなら,それをいつかは,いつかは肯定してあげてください。」

 村長はそう言うと,まるで少し話しすぎたと思ったかのように,顔を赤らめて側を離れた。——ぼくは,奥早を「災害の地」と決めつけて,そこになぜ人がしがみつくのかを知りたいと考えていた。故郷喪失者の対蹠物(たいしょぶつ)として。「人がしがみつく」のではない。「災害の地だから」,ではなく,「災害の地なのに」でもない。ここに住まう人たちが土の記憶を大事にするから,住まわれた土が人の記憶を大事にするから,ここはここであるのだ。

 ふと,こんな風に根を詰めて考えている自分が可笑しくなった。ぼくはもっと虚ろで無関心なはずだったのに。——誰かの埋め合わせになることで,少しずつ自分が目減りしたと思っていた。そしてそれでも別に構わなかった。台湾で震災に遭ったとき,自分の周囲が明確な形を失ったと思っていた。そしてそれでも別に構わなかった。自分の居場所はどこにも無く,自分が存在する理由は「誰かを埋め合わせる」だけだと思っていた。そしてそれで別に——

 ポケットのなかで振動がした。探った手が当たった感触で携帯電話を入れていたことを思い出した。画面は大きな文字でかけてきた相手を示していた。少しためらったが,タップした。

 「もしもし,大伴さん,調査,終わったよ。——泣かないで,今から帰るから。唐突だけど,できたらこれからずっと一緒にいてくれる?あ,いや,ずっと一緒にいよう。先の話だけど,ぼくが生まれたところに連れて行きたい。すごい田舎だから驚くかも。——もしもし,うん,分かった。ありがとう。もう泣かないで。帰るから。」

 登った日に照らされた山は,潤った緑と艶やかな茶に染まっていた。糸巻は新緑と土の香を目一杯すいこんだ。