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fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

新たな地

 初めて見るそれは,瑞泉の水のように透明で,瑞泉の水とは違い「それだけで」形を保っていた。透明の深くは,奥ほどだんだんと黒みを増し,そこに浮かんでいる文字(もんじ)は見えそうで見えなかった。コウ様の創生語(かたり)で教わった玉,不思議な文字(もんじ)や印の浮かぶ玉は,このようなものだろうかと思った。

 「興味を持ったようだね。この地を統べる(すべる)「フミ」が編まれしとき,この標も建てられた。いまお前が読み解きを習っている「フミ」にも,この標のことは記されている。だが,何のために建てられたのか,どうしてこの中心丘が選ばれたのかは記されていない。「フミ」に記されないとは,我々の智(ち)では測りがたいということだ。」

 コウ様,それではこの標は——

 「うむ。「フミ」に意(い)と義(ぎ)は記されてはいない。だが,記されていないからとて,無下にはできない。創生語に属するのだからね。そして,セキや,この標は私たち「天司(あまつかさ)」のみ見るのを許されている。他の者が目にすれば,たちまちにして眼(まなこ)が潰れると聞く。だから,我々はこの標の護人(もりびと)でもある。よく覚えておくのだよ。」

 天司には,それぞれの師集(ししゅう)とは別の役割が与えられていた。「フミ」師は「フミ」の読み解きを事とし,卜師は吉兆の方(かた)を解いた。オミは地の験(けん)を積み,符術師は符の使役に与った。天司はそれら師集の技を束ね,併せて天の理(ことわり)を司った。母コウが蒼穹の力源(りきげん)を手に借り集めて,大気を一刻自在に操るのをセキは目にした。

 「我々は天の理を司る。よって天司と呼ばれる。理を司るとはいえ,そもそも理は智を越えておる。ゆえに自在に見えようが,代(しろ)が必要となる。使役ごとに腕に現れる赤卍はその代を払いし印。セキよ,手近の柱にしがみつくが良い。」

 母コウはそう言うと,赤装束から左腕を抜き出し,手のひらを蒼穹に高く掲げた。手のひらに周りから大気の集まるのがセキには見えた。と,その瞬間に一陣の突風が天文丘を包み,縄文杉の床板がガタガタと激しく揺れた。風の強さと床板の揺れに,セキは目を閉じてしまった。風が止み,床板の揺れも止んで,ようやく目を開けると,立ち尽くした母が左手を見ていた。そこには卍の模様が浮き出て,模様をなぞるように血が流れていた。

 天司はそれまで宮(みや)を護った先人の力源も用いることができた。守護七聖人とされる初代エイ以降の天司,アン,タラーク,バン,カーン,キリーク,マン,サク,それぞれの紋字を符と結い(ゆい),先読みをしたり,土を動かしたり,封印玉を繰ったりできた。

 「いいかい,セキ。天司のこれらの技には陰と陽がある。それぞれ,右が陰を,左が陽を司る。ゆえに,力の働きを受くるには陰の右を,力の働きを散じるには陽の左を用いるのだ。二つの働き,すなわち陰陽を併せたいなら,このように右と左を交差させるのだ。」

 最後に教わった発動と吸収の術は,もっとも難ごとであった。だが,それがあったからこそあの刻に黒炎を消すことが叶った。長じるまで,セキはこれら天司のみに許された技を母コウの手ほどきで身につけた。むろん,「フミ」の読み解きはフミ師を侍らせ,はじめは副手(そえで)されながら,のちには自ら白布に文字を綴った。

 いつの頃からか,セキは「フミ」の読み解きをしていて,確たる形はとらない悶(もん)にまつわりつかれるのを覚えた。天司を拝し,その命に従って師集を束ねながら,宮を護持する。母コウの述べ伝えを聞く限り,この巡り(めぐり)に狂いが生じたことはない。片や,編まれた刻より一文字すら変じない「フミ」がある。初代エイ様より守護七聖人,それより幾許の代々(よよ)を経たのか,にもかかわらず久遠の静謐のごとき不変がこの地にはある。

 天司ですら歳をふり,相貌に四肢に変じを生じる。新たな師集の子を取り上げ,新たな師集が加わる。我々は刻のなかに,刻とともに生を営む。瑞泉に咲く水華も節に従う。その上を翔ぶ蜻蛉は幼い虫より蛹となる。が,しかし,蒼穹は「フミ」や述べ伝えと同じく,刻をまるで持たないかのようだ。——「フミ」に記されないとは,我々の智(ち)では測りがたいということだ。——果たしてそうなのだろうか。天文丘で蒼穹を見遣るとき,その変わらぬ蒼さに不安を覚えるのはなぜか。——

 セキ様——そう呼ばわれて,セキは我に返った。両腕の卍模様が見えなくなるほど血が流れ,縄文杉の床板を赤く染めている。横にはアヤが煎じ膏を持って控え,その向こうに測量士が佇んでいる。そうか,「あの悶」の判じがこれだったのだ。初代エイによって「フミ」が編まれた刻に,「すでに我々までの譜(ふ)」は閉じられていたのだ。

 「そうだ。宮に残された土は,土が紡ぎ出す営みだけは,「フミ」を編んだ者も予測できなかったことだった。お前が不審に思ったように,土の上では生が営まれる。いかに宮が地を忘れようとしても,宮の一片の土がそれを覚えている。宮を「蒼穹」に浮かべた理由は分かる。土と地は,花を,虫を,お前たちの生を彩るだけではない。共にあろうとすれば,花も虫も,そしてお前たちの生すら脅かすこともある。

 それらを恐れればこそ,いや,それらに思い煩うことなく生を全うしようとするからこそ,宮を地から離したのだ。そうすれば,不変の「巡り」のなかで静かに生を営めるからな。だが,ここにある土が,それが「まやかし」であることを最もよく証明する。「フミ」を読み解いて矛盾を感じたお前は,やはりこの地の一つの終末を迎える「宿世(すくせ)」だったのだ。」

 「測量士様——セキ様——

 アヤよ,案ずるな。煎じ膏をこれへ。測量士殿の仰る通りだ。私の代でこの地のあり方は変ずる。それは,我々の想うだにせぬ末(まつ)を生むやもしれぬ。「フミ」にも記されておらぬことだからな。我々の智を超える——私は笑っているのか。何が待つやもしれぬのに。代々の述べ伝えがすべて破られるのに。私は笑っているのか。不思議なものだ,畏れよりも悶が解けし安らぎの方が大きかろうとは。

 測量士殿,標をお願い申し上げまする。私を継ぐ,いな,新しいこの地には,我が娘アヤが立ち会いましょう。我々が知らぬ地を見せてくだされ。

 「分かっている。アヤ,中心丘へ向かうぞ。他の者は最後の天司の世話を頼む。お前にも違う形の地で,これまでとは違った生の営みをしてもらいたいからな。ようやく「フミ」の時代が終わる。そうだ,天司,これはまったく異なる流れのようで,実は理の円環だということは分かるな?」

 創破創!創りては破き,破いては創る!円環!——

 「そうだ。お前たちが「創りし」世界は破け,そして,いま新たに「創られる」。お前たち天司が危惧していた円環は欠けはしない。安心して身を休めよ。」

 ……これも「宿世」か。あれほどまでに案じていた円環が欠けるどころか,円環の理そのものの働きであったとは。お母様——

 「よし,アヤ,袖に触れているのだ。行くぞ。」——

 測りごとをしたのだろうか,測量士とアヤの姿が忽然と消えた。程なく,宮が静かに下降し始めた。と,中心丘に向かったときと同じく,測量士とアヤが音無く目の前に現れた。——!!!アヤの両目に,両目に左卍と右卍が黄金色に光っている。これは——

 「天司は力を発動させると,手や腕にこの卍模様が浮かぶと聞いていたが,この娘はどうやら違ったようだ。お前のその腕の傷は,時間が経てば消えるのだろう。うん。この娘の両目の模様はおそらく消えまい。この測量士の測りごとに近い力を備えているようだ。もっとも,地が新たに変ずるにあたって,起こりうる災厄を減ずる力をもっぱら宿しているようだが。」

 し,しかし,なぜ我々の「フミ」に基づいた術の印が……もはや新しい地では,それまでの術など虚しい(むなしい)のでは?

 「さてな。理がそう「望んだ」のだから,浮かんだのだろう。お前たちは理と言うと,まるで石塊かなにかの無機物のように思うだろうが,あれでいて,お前たちみたいな存在に,似ているところもあったりするんだぜ。洒落てるとは言いたくないが,理なりの天司への置き土産だろうな。おっと,下まで降りると衝撃が走るから,気をつけろよ。」

 お母様,私も生きている間に娘の卍模様を見ることができました。お母様にもお見せしたかったです。この娘は私たちの,私たち天司の娘です——

 「セキ様,いえ,お母様。私の目を見てください。お母様にも中心丘での出来事をご覧に入れとう存じます。さあ——」。

 お前の目にはそのような力が——ここは……中心丘の標があった場所か。漆黒の虚が見える。うむ?測量士殿が右手になにやら印を組み……梵字を唱えておられるのか。うむ,あれは逆さ梵字!左手にあるのは……封印玉,いつの間に!土気色の光が玉から放たれている!……アヤは?両目に手を当てている,痛むのか?うむ……手を外した,光が両目に吸い込まれて……

 セキは測量士が天司と「真逆」の術を行っているのに気づいた。受(じゅ)に用いる陰の右手で印を結び,散に用いる陽の左手に封印玉を持っている。そして,唱えるのは梵字ではなく,逆さ梵字。おそらく標に封じられた地のものを,封じるのとは逆に解放するためなのだろう。その解放の予兆があの土気色の光に違いない。——しかし,その光をアヤの目が吸い込むとは。そして,あれは卍模様が目に——

 「そうです,お母様。私が新しい地のために,地のものと契りを結んだのです。その証がこの二つの眼(まなこ)です。お母様のお言付けの通り,この眼にしっかり成り行きを刻みました。この模様は,測量士様が仰っていた理のお戯れだけではありません。地のものと共に生きるのを護るための証でもあるのです。」

 アヤ!母はお前につき従おう,皆の者,宮が地へ降りるのに備えよ。——測量士殿は——アヤの視線に気づいてそちらを見遣ると,測量士が右手を軽くあげた。おそらく別れの挨拶だったのだろう。その刹那,測量士の姿は忽然と消えた。

 宮が静かに地へ降りようとしていた。