読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

異変

 仕えのフシを引き離そうと,侍従の間から駆け足で板床の渡殿(わたりどの)へ出る。足袋のしたで,きしきしと床が鳴る感触が楽しい。時々,気づいたように止まって,布衣のすそを両手にからげ,紅と白に塗られた縄文杉を変わるがわる踏みしめてみる。背後から呼ばわる声が聞こえると,また駆け出す。

 この宮(みや)では他の師集の子どもたちと違って,「様」をつけて呼ばわれる。物心ついた頃からずっと。師集の子どもたちも,私を認めると,片膝をついて栗色の幼烏帽子(おさなえぼし)を手に取る。丘(きゅう)に向かう儀礼服のときも,こうして渡殿を駆けているときも。話し相手は侍るフシばかり。フシは小言ばかり。

 「……におかれましては,間もなく「フミ」の読み解きにお与る御身上,どうか慎み深く,そのように渡殿をお駆けなさいませぬようお願い申し上げます。万が一にもご不測の事態などがありましては,我らフシ如何に責任をお取り申し上げれば……」私はそんな粗相は冒さぬ。フシは揃いも揃って大げさなのだ。

 今日も蒼穹は透き通っている。節がそろそろめぐる。風に天草丘の光華(ひかりばな)の匂いが混じっている。宮でひときわ輝く黄色の花弁は,潤いのある光沢も素敵だけれど,雌蕊(しずい)からほのかに立ち上る甘い香が胸の奥をくすぐる。そろそろ瑞泉に植えた水華も咲く頃だろう。セキ様手ずからお植えになった薄青の根から芽が出たのは,前の節だった。

 「良いか,蒼穹を見上ぐれば,刻は静かに止まっていると感ずる。それは蒼穹の理なればであり,是も非も我々の与るところではない。師集は,オミは,フシはそれを観照し,我ら天司はその悠久を静観するのみ。だが,宮に住まう我々は歳をふり,世を世へ継いでゆく。先に私が取り上げたオミの稚児を見たろう。あの児もいずれは,お前のように長じ,述べ伝えを読み解き,地へ降りる刻もあるいは来るかもしれぬ。」

 セキ様のお取り上げになった赤子は,瑞泉の脇の宿石(すくせき)よりも小さかった。悲しげな声のみ発し,四肢を震わせていた。あの赤子も私のように,いずれは,渡殿を駆けるほど四肢が伸び,蒼穹を見上げ,光華の色と香を娯しむのか。その様を想い,未だよく解けぬ成り合い(なりあい)の不思議を覚えた。セキ様がお手に持たれた薄青の根も,赤子に同じだと仰られた。

 「この根は,厚い華身(かみ)の奥に,水華の花弁を秘しておる。まだそれは花弁の形をとってはおらぬが,瑞泉から水を吸い,大気の力源を微かに取り込んで,節がめぐる頃には花弁を広げよう。お前はいたく光華を愛でているようだが,水華もその名のごとく水鏡の花弁をつけ,清涼な香を放つ。私も光華を好むが,水の化身のようなこの華も好んでおる。」

 渡殿が尽きたので,まっすぐ梯子段を降りた。宮には一面に赤褐色の土が敷かれている。「敷かれている」とは言うが,宮が建てられたときには「すでにありし」とは,フシが教えてくれたところ。瑞泉や天草丘にある石鉱(せきこう)ほど堅固ではなく,瑞泉の淵の水泥(すいど)ほど軟弱ではない。渡殿の板間のように軋みも音(ね)もしないが,硬さは似ている。どこまでも透き通る蒼穹から降り落ちたとは思えない。が,光華のように自ずから生えたとも思えない。

 セキ様は天草丘の土が光華を育み,成り合いを援けると言われた。この奇異な硬さのものに,赤子のふくむ乳のような滋養があるとは思えない。また,水華を花開かせる水や大気の力源が蔵されているとも思えない。けれど,セキ様が言われるのだから,真(まこと)なのだろう。あるいは,蒼穹や宮と同じく,創生語(かたり)に述べ伝えられている理なのかもしれない。早く「フミ」の読み解きをしてみたい。この地のことをもっと識りたい。——

 「ここにおられましたか,そのように足袋のまま土におみ足を……こちらまでお越しいただきますようお願い申しあげます。沓をただちに備え致しますゆえ。ささ,こちらへ。」いや,良い,このまま瑞泉に向かいとう思うておる。「それはなりませぬ。どうか沓をお召しくださいませ……。」

 フシがお小言を言い終えぬ前に,片膝をつき頭を垂れた。向かいの渡殿の床板の軋む音(ね)がする。あの音は,セキ様——

 「ここにいたか,アヤよ。フシたちが天文丘までお前を探しに来たわ。相変わらず,侍従を惑わせているようだな。次世の天司として,そろそろ少しは慎みを憶えぬとな。お前の識りたいと希う心は感心だが,あまりフシを案じさせるな。」

 破顔はされていないが,言葉じりに優美さが添えられている。このお声を耳にすると,お言葉とは裏腹に許されている気を覚えてしまう。フシを遠くに控えさせ,副手(そえで)されて水華の根を水土に植えたときと同じ慈しみに,胸の中が温かくなる。セキ様,そろそろ節の変わり目にございます。先に(せんに)植えた水華の様子見に参ろうと思っておりました。

 「そうか,節の変わり目が近いか。蒼穹を見ておるとそれと気づかぬが,やはり刻はめぐっているのだな。私もこの節の水鏡の花弁が如何様か識りたい。しかし,中心丘に用があるゆえ,アヤ,お前一人で観てきてくれるか。」はい,セキ様。「その前に,フシよ,沓をこれへ。アヤ,私に免じてフシの進言を聞いてくれるな。」……はい,セキ様。

 セキ様は私の顔をご覧になり,小さく破顔された。そしてそのまま,中心丘の方へ一人,板の間をゆっくり行かれた。私はフシに足袋の土を払ってもらい,むらさき草色の沓を履かせられるがままにした。セキ様のお言付けであれば,無下にできない。足が小刻みに揺れるので下を覗くと,フシも袖で口元を隠して微笑んでいた。

 フシを侍らせて瑞泉に近づくと,すぐに清々しい香がかすかな風にまじった。セキ様の仰られた通り,その香は瑞泉に渾々と湧き出ずる澄みきった透明を思わせた。水に花開くから水華ではない,「水の化身」だから水華なのだ。間もなく瑞泉が見えるというところで,泉の淵から水が溢れるときに聴こえる音(ね)が辺りに響いた。これは,と振り返ってフシに問うと,フシは明るい声で

 「ご自身の御目でお確かめくださいませ。セキ様のお戯れでございます。」と応えた。

 沓の歩みを少し早くし,瑞泉の淵に来ると,そこここに真っ直ぐにのびた水標(みずはだ)色の茎の先に,水面をそのまま花弁にしたような華が咲いていた。透明と潤いは水のままに,けれど,上から覗き込むと自分の顔が写る。まさに水鏡の花弁だ。その花弁が時折,湧き出る泉のごとく揺れると,それが音になって小さくこだました。一輪が,そしてまた一輪がそろって奏でると,さながら無数の泉が湧く響(ひびき)となった。

 セキ様はこれを黙しておられたのですね。響に魅せられて,つい声音をあげてしまった。すぐさまフシが片手を口元に遣り,お慎みなさいませという所作をしたが,その面(おもて)は私と似て,如何にも愉しい風情であった。響と相まって瑞泉そのものが水の音を奏でているようであった。この透明さを聴きながら,それを目でも愛でようと,遥かな蒼穹を見上げたときだった——

 透き通った蒼穹に,黒い芥子粒が浮かんでいた。これまでこのようなものは見た試しがなかったので,最初は自分の眼(まなこ)を不審に思ったが,紛うことなく芥子粒が浮かんでいる。あれは,とフシを振り返ると,五体をひどく震わせ,目が潰れるとばかりに,袖で顔を覆っている。

 「私めの聞きしことに違いませぬなら,あれはおそらく黒点にございます。」黒点!怪し(あやし)のもののように思うが,いかん。「吉凶のしるしと述べ伝えられておりますが,私めも怪しのものとお見受けいたします。お早くセキ様の元へ参りましょう,お早く。」——

 待て。水華の響が止んだ。先ほどまでの愉しき水の音がぴたりと止んでいる。袖を押さえるフシを振り払って花弁を覗き込むと,水鏡の底が次第に紅に染まっていった。これは,と思う間もなく,水華が茎から花弁から炎を吹いた。水より火が!幼き頃に小唄でなじんだ四性(しせい)の理はいかがしたのか。

 ——「火は水に,水は火に。木は土に,土は木に。相容れぬ,相容れぬ。火は水に,水は火に。木は土に,土は木に。相容れぬ,相容れぬ。そは違い,そは違い。そは違い,そは違い。四つばらの,四つばらの。同胞(はらから)の,同胞の。」——

 四性の理が破られている!セキ様に早くお伝えせねば。黒点と水華の炎。宮に何が降りかからんとするのだろう。アヤはフシを急き立てて,今一度蒼穹の芥子粒と水華を見届けると,中心丘へ向かった。