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fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

失う(原稿版)

 

 一

 

 まっすぐに歩いていたはずだ。それなのに戻れない。——

 「いざとなればと考えて,アメリカのグリーンカードを取得しようとする人が多いのです。」『プライベート・ライアン』の上映前,彼女はあからさまな非難を込めて言った。

 当時は台湾海峡の軍事的緊張が高まっていた。「いざ」という事態を想定して,故郷を捨てて渡米できるように準備をしている者がいる。彼女にはそれが我慢ならなかった。

 そんな彼女の関心を買いたくて,ぼくは「いざとなれば戦うよ」と砂の上のお城のような言葉を,お城の砂のように放った。

 彼女は,観てから同じこと言ってくれる,とため息を一つついた。この映画を観るのは,初めてでないのだと遅まきに気づいた。何度目かの映画にぼくを誘い,その映画に故国の一部の動向への批判を重ねてぼくに伝える。いや,それは,ぼくではなくても良かったのかもしれない。

 ただ,分からないのは,仮定法で,ノルマンディー擁するドイツ占領下のフランスを台湾に置き換えてみても,歴史的事実が仮定法を成立させない。たぶん,一人の一等兵のために命を賭するミラー大尉に,国際上,孤立した故郷にかける自分の想いを重ねたというところだろう。

 冒頭のノルマンディー上陸作戦。効果音だけが流れるその場面を,ぼくはのちにロバート・キャパのモノクロ写真になんども重ねることになった。ぼくの城は満ち潮をまたずに,シークエンスの波にさらわれた。映画が終わり,ぼくは何もいわずに彼女に深く謝罪した。

 台北で集集大震災に遭ったのは,それから数年後だった。地質学者だった彼女の伯父の推察どおり,固い地盤のうえに建てられたマンションは倒壊を免れた。倒壊は免れたが,電気が止まり,ポンプが動かなくなり,水の供給が停止した。大きな揺れから生き残った感慨よりも,都市部と田舎のライフラインの違いを痛感した。

 当分の間,家庭内のメディアとインフラは少しネジを巻き戻した。薄型の大きなテレビが沈黙し,ラジオが雄弁になった。白熱灯は長すぎた労働から解放されて,ろうそくが割に合わない仕事を任された。どうやら人の心も別のネジを巻かれたようだった。家族で培われていた多民族共生が,にわか排他主義に後退した。

 「いざとなれば,あなたは日本に帰れるものね。」映画前と同じ「いざとなれば」が使われている固い牢屋のような言葉を,ぼくは圧しかかる心労のせいだと解釈したかった。

 同じ地で同じ体験をする。それが苦難でも災害でも,それだけでは,人は共有しきれない何かを残す。ぼくの学んだ教訓のひとつだ。

 そして,彼らの口をついて出た「日本」の響きに,ぼくは,自分の知っている日本とは違う「日本」を聞いた。おそらく彼らの「日本」は一次方程式の未知数「X」になり得る。帰れる場所持つ者が帰る場所という「X」。だが,ぼくの日本は本当に帰る場所なのだろうか。帰る場所が帰る場所であるのか分からなくなる。これは教訓ではない。喪失だ。

 こうしてぼくは故郷を失った。いや,翻訳調で言うなら,故郷が失われているのを見出した。これが大げさではない証拠を一つ挙げるよう求められたら,ぼくは,このときを境にして大文字の「国家」をはじめとして,帰属先について一切の感情を失ってしまった事実を挙げる。日本,ふるさと,大学,友人,知人。すべてが形を失っていった。もしかしたら,端から形がなかったかのように。

 ある場所の規則に従い,そこに居ることと,そこを自らの帰属したい場所,帰属すべき場所と考えるのは違う。

 ところで,ぼくのように故郷を失った人間は,この失ってしまった対象について,おそらく二つの思考パターンを取る。一つが,なぜその場所にしがみつくのか分からない,というもの。もう一つが,しがみつく場所があって羨ましい,というものだ。

 ぼくは前者だ。いや,しがみつこうにも,しがみつく形を持たない。形を失ったものにノスタルジーや憧憬は抱こうとしても抱けない。ドーナツとドーナツの穴の関係。

 なぜ故郷にしがみつくのか分からない。その分からなさが,自然の刺青のように拭い難く自分に刻まれているのを知った頃には,彼女のかつての非難は違った響きを持ち始めた。

 ——いざとなればと考えて,アメリカのグリーンカードを取得しようとする人が多いのです。——

 でも,彼女の非難は正確ではない。チェルノブイリ近郊に戻る住民と,チェルノブイリを離れて,チェルノブイリを想う住民は,両面を持つコインそのものだ。この分類には当てはまらない。どちらも,戻る者も離れている者も,あの未曾有の災害があった場所にしがみついているからだ。

 カメラがチェルノブイリ近くの森を映す。

 「ここでしか生きていけないんだよ。もう二人とも歳だよ,このままここに埋まるさ。」朽ちかけた木の塀にすがりながら,老夫婦は歌うように言う。

 ウクライナキエフ近郊の住宅の一室が映る。

 「チェルノブイリはまるで夢のような街でした。あそこでは何でも揃いました。」オレンジ色の壁紙を背景に,大きなサングラスを画面に向けた夫人の声が訳される。

 ぼくは自分の原型を物語に探してみたりする。高校生で読んだ『アメリカ』のロスマン,『果てしなき逃走』のトゥンダ,二人の故郷喪失者。自称「ドイツ人」の少年も,旧オーストリアハンガリー兵も,転々とすればするほど帰属が形を失う。似ていなくもない。

 似ていなくもないのは,二人とも喪失を自分で選択したのではないからだ。チェルノブイリの住民もそうだ。ぼくは違う。潜んでいた喪失を自ら見出した点において。

 ——「なんで,あそこを調査地にしたの。先月の土石流を知っているのに。あそこじゃなくても,実家があるのも農村なのでしょ。」研究室の友人が発した質問の意図は分かる。でも,ぼくの調査の目的は農村そのものではない。

 もし,ぼくがロシア語かウクライナ語ができたとして,申野先生が許してくれるなら,チェルノブイリを調査したいぐらいなのだから。あの老夫婦にききたい。いや,二人の心の中の奥を覗き込みたい。そこで故郷はどんな形を取っているのだろう。

 日本屈指の災害指定地,奥早村を選んだのは,チェルノブイリの代替だから。こんな「替わり」という選び方が,その地の人々に失礼極まりないのは承知だ。しかし,ぼくは,ぼくには,自分という不可解な喪失者をぶつける石が必要なのだ。

 フィールドワークの事前調査,つまり,文献渉猟の段階で,報道を通じて知っていた近年の被災など微々たると思えるほど,この地は過酷な地層を積み重ねてきたことが分かった。古くは江戸時代までの飢饉,新しくは先日の土石流,地震も頻繁に起きていた。年代順に網羅したら,それだけで長めのレポートに仕上がるくらいだった。

 それに比して奥早を対象とした論文は少ない。ほとんどが,奥早を含む也土(なりと)地方の研究で触れる程度だった。一章の一部を当てていれば記述の分量として多い方だ。

 それらの記述は,壊滅を被った共同体がなんども立ち上がった歴史を,無感動な筆使いで記していた。そして,どうしてなんども立ち上がったかについては,無関心を決め込んでいた。

 「これ程までに天災を経験した土地は,地震大国の我が国といえども,なかなか見当たるものではない。だが,真に驚くべきは,天災の度毎に「生き抜いた」住民が一丸となり,村落共同体を立て直した事実である。1792年の震災では……。」

 ぼくは考えてみたりする。この土地には住民が残りたいと思ったのか,この土地が住民を縛っていたのか。土地に縛られたいと住民が思ったのか。土地が住民に縛られていたのか。それともそれらすべてなのか。

 ともあれ,フィールドワークには「参与観察」が欠かせない。調査地に入り込んで,調査地に住む人々の目から調査地を記録するこの手法は,文化人類学の基礎だ。だが,部外者がいきなり乗り込んで,調査地の人々と馴染むのはほぼ不可能だ。調査者と住民をつなぐ「つて」が必要になる。

 この「つて」は大抵が村の権力者だったり,地主だったりする。戦前がその「つて」を見出すのも調査の一つとしたのに対し,現代では指導教官の電話一本で間に合ったりする。

 「村長?ああ,連絡してあげても良いよ。ただ,天災の記憶なんて論文のテーマとしてどうかな?歴史学だったらまだしも。文化人類学なんだから,奥早だったら,里山でやった方が良いんじゃない?」

 ゼミを担当する申野教授のイメージに従えば,そもそも地域の記憶を司る語り部は,「全国的に見ても博物館行き」になっている。ましてや奥早のような小規模の村落のこと,村史が編まれることもまず無いと考えていい。仮に存在しても,絶え間なく続く災害ですでに失われているかもしれない。よって結論,「目下流行の里山でアプローチせよ」。

 構造主義という学問的潮流が世界を席巻してから,学問分野の多くがそれまで守っていた時間軸の設定を変えた。現代の事象を説明するのに,過去を引き合いに出さなくなった。現代の事象はそれに並ぶ現代の事象で説明すること。ぼくという人間は,父や祖父,曽祖父からの家系から明らかにはしない。ぼくの今の人間関係から明らかにする。

 奥早村のあり方を作り上げたのは,たしかに過去だ。しかし,その過去はあくまで参考枠であって,焦点は今現在の奥早村なのだ。

 「良いですか,地域の歴史を文献で調べることは必要不可欠です。たしかに歴史は,生きられた過去であります。しかし,それは現在を説明する必要条件の一つであったとしても,十分条件ではないのです。もし歴史が十分条件だとしてしまうと,現在は必然になります。それは学問ではなく,宿命論です。」

 「フィールドワークと歴史」の授業で,タイの医療をテーマにしている教授が語った。彼の専門は「医療人類学」だった。心霊術の類が未だに「癒し」となっている状況を,先進医療との対比で考察する。理屈は分かる。だが,ぼくはどうしても心霊術が「癒し」になってきたのかを知りたい。同じく,奥早村が苦しい過去を抱えながら,どうして住民はその地にしがみつくのか,その理由を,過去を通して知りたい。

 喪失の理由を,ぼくも自らの過去に求めたことがある。寓話の形式で「ぼく」の組成を明らかにしようとしてみた。しかし,記憶をたどって明らかになったのは,悔しいことに,タイを専門にする教授の言った「必要条件」の一つだけだった。奥早の「非」喪失の記憶をたどることで,ぼくの喪失の十分条件への気づきが見つかるのではないか。

 「初回は,数日間で良い。文献にある地誌の正否を確かめる。ツテを利用して人と触れ合うこと,きちんと自らの立場を説明すること。そうそう,地誌にあっても,自らマッピングすること。インフォーマント(情報提供者)がタバコを吸えば,タバコを吸い,酒を飲めば,酒を飲むこと。まあ,これだけ守っておけば大丈夫だ。」

 研究室の先輩によるフィールドワーク実践のいろは。授業でも実習はするが,百戦錬磨の教員と,初心者に毛の生えた学部生の先輩では,アドバイスのリアリティが異なる。先輩,要するに,郷に入っては郷に従うですね。

 「まあ,後半部分はそういうことだ。地図はとくにマストアイテムだから忘れるなよ。聞き取り調査に集中しすぎて,帰ってきてから思い出すやつが多いんだよ。ネットじゃもちろん手に入らないから,中間発表で文献のをそのまま引用して,先生たちから突っ込まれてひどい目にあう。あと,レコーダーの文字起こしは想像以上に時間がかかるから,その分の時間を余分に確保しておくようにな。」

 バスの停留所「奥早村」は,その名称と裏腹に,村からずいぶん離れていた。一般に,村落は昔の街道に沿って形成され,その街道が近代化の過程で舗装される。とすれば,この目の前に続く道なりに,家屋が点々と連なるはずだ。しかし,道路は土手になっているようで,水平に人家は見当たらない。土手下にも畑が広がるばかりだ。

 どうやら地誌は当てにならないようだ。奥早などのような災害地は,災害のたびに道が新たにされ,最終的に「一番安全な道」が舗装されて残ったのだろう。村と離れたのは,都市部と違って,震災のダメージが不均等に吹き出したからだろう。携帯電話に写真を保存しておいた地誌の略図と,目の前の風景が全く異なる理由をぼくは想定してみる。

 これはまったく新たに地図を作成しないといけないようだ。しかし,アプリのマップも表示されないとは。骨が折れそうだ。

 ようやく土手下に民家が見え始めた辺りに,右になだらかな斜面に沿って折れる道が現れた。村の入り口の目印だろうか,今までたどってきた道路と斜面のちょうど境目に鳥居のようなものが建っていた。全体的に色が黒ずんでいて,きちんと判別できないが,細かい模様が全体に薄く彫られている。周りが微妙な丈の草で囲まれているので,放置されていると思えなくもない。

 ともかくは写真をと,携帯電話のフラッシュをたいていると,背負いの網かご「かれてご」を負ったおばあさんがこちらへ向かってくる。時計は昼下がりを示していた。昼食には遅すぎ,仕事終わりには早すぎる。かごには何も入っておらず,から手であるのを見ると,ちょっとした休憩か農具を取りに戻ったのか。白い頭巾で顔はよく見えない。通り過ぎるときに,折口村長の家を尋ねたてみた。

 折口村長は,顔全体に刻まれた深い皺と白髪と対照をなすように,声にかなり若々しさを残していた。「村長をしております,折口と言います。申野先生からご連絡を受けております。この奥早を例にして,里山の現況について調査されるとのことでしたね。わざわざ遠い所,お疲れでしょう。」

 どうやら申野先生は,二年間受けた専門の授業の印象以上に,自己主張が激しい方らしい。どうしても里山で調査をさせたいようだ。ええ,里山の「歴史的」経緯を調べたいと思っております。ぼくは「里山の現況」を言い換えて切り出した。最初に村長さんに奥早村についてお話をうかがいたいのですが,ご都合の方は……

 こちらの質問に返すように調査期間を尋ねた村長は,想像より長く想定していたのか,「お急ぎのようですね」と言い,今日はとくに用事もないので,これからでも質問に答えます,と協力する旨を笑顔で示した。「ただ,私も,村長になってそれほど年を経ていませんからできる範囲で,ですが」と付け加えるも忘れずに。

 携帯電話にメモをするのは,先の先輩の「調査十禁項目」に含まれていたので,あらかじめ質問リストをしたためておいた無地のメモ用紙を取りだした。「ご親切な」申野先生が「里山」という取り掛かりを与えてくれた以上,それに乗りかかる他ない。あとは,どのように話の筋を導き,奥早の被災の記憶と土地と人の結びつきへ誘うか。

 ええと,里山というと,村長さんもご存知のように,いま現在の生態系とそれに寄り添った「効率的な」農業形態等を対象とします。ですが,そうした一般論と異なり,奥早の場合は,先日の土石流のような「大変な」自然災害によって,その生態系と農業形態の二つの条件が,他の里山と比較できないほど頻繁に変わってきたと思うのですが。

 「ええ,おっしゃる通りです。奥早では,たとえば,十年前と現在とでは,川の流れが変わり,山の形が変わったと言われます。地震による地割れと,先日のような土石流や土砂災害によって,棚田の数は減り,十年前であれば主要産品であった米の収穫量が見込めなくなりました。いまは別の作物で代用しています。むき出しになった山肌を利用して,馬鈴薯や近年評判のキヌアを栽培したりもしました。」

 ここに来るまで少し見させていただきましたが,あそこの斜面は元から竹林ではなかったのですね。村落と川をはさんで奥に見えた山は,以前の災害によるのだろう,頂上から向こう奥にかけては竹林を残しつつ,村の側はすっかり山肌を出していた。そここに畝らしき凹凸が見えたのは,馬鈴薯やキヌアを植えるためのものだろう。

 「そうですね。竹が生えていると,たしかに根によって土が固くなります。村向こうはそれで土砂崩れが起こっていません。ですが,その一方で,竹は稲と同じく酸性の土壌を作るので,中和が大変なのです。筍や孟宗竹を栽培しようにも,竹林の管理に手間がかかります。災害を逆手にとるようですが,地味の失った土地をあえて活用しています。」

 奥早を含めた也土地方の農作物をあつかった論文に,村から見える山肌の向こう側が,ずっと竹林だったことを笹のマークで示していた。他方で,村側の斜面には,このような山間部に珍しく,榛の木や沼杉が植生していた時代があったことも示していた。これでは雨量が重なれば,いずれ土砂災害は不可避に訪れる。質問リストにある「何か対策を講じなかったのか」は,このタイミングだと責めるような印象を与えると思って控えた。

 そのように自然災害が発生するごとに,農作物や生活の形態を変えるのは,時間的にも費用の面でもとても負担を強いられる大変なことと思います。村の方々が,やはり協力して,土地の改良と作物の変更に当たられているのでしょうか。たとえば,寄り合いか何かで決めて,新たな里山のあり方をどうするか検討されるのですか。質問の途中で,一瞬だけ折口村長が怪訝な表情を浮かべたように見えた。何か失礼なことを口にしたのだろうか。

 「土地の改良と作物の変更ですか。そうですね。村が総出で,いえ,総出で行います。ただ,寄り合いは……ありますが,……あくまで考えを出し合うだけです。皆がそれぞれの考えを出すと……あ,いえ,そこで決定します。そのように書いておいていただけますか。」

 怪訝な表情はこちらの不手際ではなかったようだ。唐突に村長の説明がしどろもどろになりはじめたのを聴いて,何か別の要因があるのだと直感した。土地の改良と作物の変更は,個人ではできない。「総出」をなぜ繰り返したのだろう。また寄り合いは,奥早のような古い共同体では珍しくないはずだが。論文にはたしか,「共同体の立て直し」の組織化を,「寄り合いによる合議制で決定してきた」と記していた。考えを出し合うだけ,とは。

 「自然災害は,ああ,そうですね。とても大変です。ただ,天災と言うように,防ぎようがないので,仕方ないと思っている村民が多いと思います。いえ,「仕方ない」とは違います。この地に生きる限り,これは恩恵です,いえ,何でもありません。すみませんが,質問を変えていただけないでしょうか。」村長は答える順番を慌てて入れ替え,また,奇異な言い方をした。「恩恵」としての自然災害。困難な土地に不断に向き合う者は,このような言い表し方をするものだろうか。——

 概して,折口村長との話から論文をつぎはぎした情報以上のものは得られなかった。「村長になってそれほど年を経ていませんからできる範囲」は決して謙遜ではなかった。それよりも,今回は初日ということもあり,夕方までの時間を村の散策に充てて別の疑問が生じた。その疑問は,当然すぎるほど当然すぎて,奥早をじっさいに訪れるまで考えてみなかった自分自身に驚くくらい自然な疑問であった。

 村長の話に出た十年前,村の全戸数は論文によれば約三十。先日の土石流を報じたニュースでは二十弱。そして,こうして歩いていて田畑で目にするのは高齢者ばかり。詳しい統計を取るまでもなく,明らかにもう限界集落だ。ジビエの対象となるイノシシやシカも出ない。それなのに,村長はそうした村の将来への「心配」や「不安」のようなものは微塵も見せなかった。気に係るやりとりは置いておくとして,村の長はすでに諦めているのだろうか。

 もし仮にそうだとしたら,奥早に「自分という不可解な喪失者をぶつける石」を期待したのは間違いだったということか。村民まで諦めていて,共同体が消えて無くなってしまうのなら,それは「石」にもならないのでは。しかし他方で,ここ以外のどこに,人間存在に深く関わる故郷との結びつきを求め得よう。そのように考える反面,やはり,一つの仮説の証明が終わってしまったように考えている自分もいる。

 災害が多い不便な共同体に,それでも「故郷」として執着するのではない。人が土地を,土地が人を縛るのでもない。人と土地が織りなす共同体そのものが失われつつあるから,もはや執着する現実的な意味が無いのだ。おそらく折口村長をはじめとした今の村民は,それでも執着するだろう。だが,それは未来へ投げ出されたノスタルジーや憧憬とどう違うのだろうか。このまま調査を続ければ,申野先生が喜ぶ別の里山に関するテーマになろう。

 去来する想いは,周囲を観察しながら歩いていようが,立ち止まって写真を撮っていようが止め処がなかった。結局,日本で調査をする限り,このような結果に至ってしまうのかと極論して勝手に悲観したりもした。とりあえず一日目を終えようとして,村の入り口,今度は出口に戻って,奇妙な感覚を覚えた。周囲を見遣って,思わず小さく声を出しかけた。先ほど来るときに見た鳥居らしきものの形が変わっている。小さいとはいえ,このような印が変わるとは。

 手にしていた携帯電話に保存された画像を確認した。にわかに信じられなかったので,つい目の前のものと画像を目で数回往復した。たしかに先ほどとは形状が明らかに違っている。画像は,一段目,つまり,笠木と島木が重なった上部が一本で表され,二段目を欠いている。いわば鳥居の原型のようなものを映しているが,今目にしているのは馬の蹄鉄のように上部がたわんでいる。一本の樹木で作られたように,つなぎ目もない。

 まるで自然木を,ゆっくりと時間をかけて曲げ,それぞれの両端を地面に差し込んだように見える。だが,画像と比べても,色味は同じ黒っぽく,拡大してみると表面の細かい模様も似ている。写真におさめてこのように画像で確認をしなければ,見間違いだと済ませてしまいそうだ。数時間あったとはいえ,この短い時間に取り替えられたのだろうか。このようなものは,そもそも取り替えたりするものだろうか。

 念のため足元の下草を片方の手で軽くかき分けてみる。根元には掘り返した跡もなく,ずっとそこに立っていたように見える。そう,前のものを上からすっと抜いて,同じ穴に今目にしているのを挿したような感じだ。不審に思って周囲を見渡すが,やはり一度通った村の入り口だ。説明はできないが,下の土の具合次第では不可能ではないかもしれない。足で踏んだ感じほど硬くなかったら,高齢者でも五人集まればできないとは言い得ない。

 逆Uの字になっているオブジェに,あらためて携帯電話でフラッシュをたいた。これが奥早の風習であれば,明日来たときにも再び目にできようし,折口村長に画像を見せて確認することもできる。今はバス停を目指そう。ここからだと,近くの町まで一時間。来た時に調べた時刻表では,あと二十分ほど待てばいい。携帯電話のアプリで確認する。もうすぐ日が暮れるだろう。

 ふと前方を見ると,「かれてご」を背負ったおばあさんが前を歩いている。白頭巾をしている。あれは,来る時に折口村長の家を尋ねたおばあさんか。どうして同じ方向へむかっているのだろう。もう日が暮れるというのに。それともあのおばあさんと似たような格好をした別人だろうか。いや,そうだとしても,これから農作業をするならせいぜい一時間ほどだ。何かの収穫か,あるいは畑に忘れ物でもしたのだろうか。その姿を目でも足でも追いかけながら,ふと思った。

 ぼくが捨ててしまった故郷でも,休日に農作業をしていた父親がよく畑に忘れ物をしていた。それは収穫したばかりのナスやかぼちゃであったり,時には鎌や鍬などを忘れたりもした。収穫に向かって目的と,兼業とはいえ商売道具を忘れるとは,とよく呆れたものだった。調査に出た申野先生が,メモとボイスレコーダーを忘れたりすることはあるだろうか。いや,あるまい。

 しかし,バス停にまだ着かない。村落からけっこう歩いた記憶はあるが,感覚的にはふつう行きよりも帰りが近く感じるはずだが。初めて訪れる場所だと,周囲への観察に集中力を使うため向かう時は情報処理に手間取る。その分,同じルートをたどって帰ると,向かうほどの集中力は使わないため,情報処理が経済化される。この相違が感覚の違いに反映される。

 いや,わらべ歌の例もあるか,ともふと思う。行きはよいよい,帰りはこわい。あれは「遠い」ではなくて「こわい」だが。飢饉の際に,神社に奉納が強要された過酷な過去を歌ったものだったと憶えている。歴史的事実としては埋もれていても,なかには行った道を戻れない者もあったかもしれない。少し先に目をこらすと,右手に折れる道があるようだった。来る時に左に折れる道なんかなかったはずだが。

 その右手に折れる斜面の前に,確実に記憶にあるはずの民家が土手下に見えていた。まさか,と思いながらさらに行くと,もはやそれは予感などではなく,圧倒的な確実性を備えてきた。今たどってきた道路と右手に折れる斜面の近くに,それはあった。鳥居のような形をした,それは。

 ぼくは心のなかでも黙したまま,携帯電話のアプリを開き,保存されている写真を見た。そこに写っていたのは,奥早に向かった時と同じ鳥居状のものであった。そして,今目の前にあるものとまったく同じだった。道路は一本道だった。どうして同じものが。そのとき,「折口村長の家をお尋ねかの」とあの白頭巾のおばあさんが横からぼくに聞いた。