fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

エル・インネル

 こういうアニメをご存知ですか。そう遠くない未来,身体は義体に替え,脳は一部を除いて電子化します。身体も脳も,有限,言うなれば「時」から解放されます。テロメアなど,もはや無関係です。そして,記憶の出し入れも自在です。覚えこんだり,詰め込んだりする必要は無くなります。

 目の前のその人物は,おもむろに細い金属のペンを取り出した。メタリック・シルバーのその先で,自分のこめかみをコツンコツンと打つ。

 こうやって,メモリーをUSBのように,いえ,USBも必要ないですね。オンラインで「挿入」するのです。便利至極です。ところで,そのような技術が可能な近未来が訪れる,と仮定しましょう。あなたも新たな身体と,新たな脳を手に入れたとします。とここで,一つ問題です。——

 妻が遺した愛娘を失った。ちょうどひと月前のことだ。おたふく風邪の初期らしき兆候を見せたと思ったら,すでに脳が炎症を起こした。そこからはあっという間だった。外戻りの最中に,営業部を通じて知らせを受けた時には,娘はすでに危篤だった。

 遺体から離れようとしないので,無理やり引き剥がされたらしい。「運が悪かったのです。お父様,どうかご自分を責めないでください。」と言われた記憶はかろうじて残っている。

 自分を責めた。異変があったはずだ。それとは知れない微かな兆候があったはずだ。幼稚園へ送る前に気づいていれば,いや,その前夜,寝かしつけるときに感じていれば。そもそも,仕事を家に持ち帰らなければ。いや,お義父さんとお義母に頼っていれば。もう少し余裕があれば。暗い一点に向けて,すべてが集まり,すべてが吸い込まれていった。

 「佐藤くん。ちょっと,良いかな。」課長に連れ出されるように,談話室へ向かう。

 「言いにくいのだが,娘さんのこと,本当に残念だった。私も息子を事故で無くして,数年は,いや,今でも,受け入れられない自分がいる。だから,こういうことを告げるのは,私としても非常に辛い……君が慶弔の有給を終えてから,二週間。まったく仕事が手につかないのも無理ない。それは分かるつもりだが,どうだ……」

 しばらく休めか。客観的に見れば,今の自分は「使い物にならない」のだろうな。チームの士気を落とすどころか,すでに企画の足を引っ張っている。しかし,課長の言葉は,自らもかつては当事者だったという仮面をつけながら,「やんわり」と戦線離脱を促している。猜疑心か,いや本心だ。

 綾子がいなくなってしまった——そんなこと実感できるはずがない。はずがないが,耳の底にしかあの子の声が聞こえず,夢の中でしか会えない現実は,実感を叩きつける。不在の実感をこれでもかと叩きつける。どうやら自分は,妻が生きているときは,妻のために,妻を失ってからは,あの子のために,働いていたらしい。

 それ以外に,自分を仕事へと駆り立てるものはなかったのか。パートナーを持つとは,子どもを持つとは,そういうことなのか。しかし,体の肉を素手で,じわじわともぎ取られるような痛みは何なのだろう。耳元で絶望が叫ぶのを毎夜聞くのはなぜだろう。二人が,せめて綾子が戻ってくれるのならば,何をされても耐えられるが。

 そんなことは,無い。そんなことは,あり得ない。もう,終わりだ。終わりにしよう。

 窓を開け放した。六月の初旬は,まだ夜が冷える。靴下を脱いでベランダに出る。遺書は要るまい。理由は疑いようがない。ベランダのコンクリが,夕方の熱を完全に失っていた。逢えるか逢えないか。いや,いずれせよ。もう限界だ。

 暗くした部屋の中で,固定電話が鳴動し,辺りに緑のぼんやりとした光を放つ。こんなタイミングに,誰が。コール音は四回し,留守番電話に変わった。

 「……もしもし,佐藤さん,そこにおられますよね。四谷です。」四谷。四谷左和子か。大学の後輩で,同じ会社の広報室にいる彼女か。妻とも娘とも仲良く付き合ってくれた。妻が亡くなってからは,綾子が懐いて——思い出で苦しめるか。もう放っておいて欲しい。「アヤちゃんのことで,いえ,佐藤さんのことでお電話しました。アヤちゃんに会いたくないですか……。」

 なに,綾子に。会う。何を言っている。綾子は死んでいるんだぞ。認めたくないし,認めないが,それでも「ここ」では綾子には会えない。「……嘘だと思って,話だけでも聞いてください。お願いします。それでは,くれぐれも体に気をつけて,睡眠は取ってくださいね。」

 左和子は嘘をつくような人間ではない。危篤から通夜,葬儀まで付き添ってくれ,そのあとは少し離れて,自分を見守ってくれていた。言葉に出して何かをされるより,無言で「いない事実」を共有してくれる方が,ずっと嬉しいが,それだけに悲しみは深くなる。

 考えてみれば,佐和子のあれは,「気丈な」振る舞いだったのだ。あれだけ綾子のことを可愛がってくれたのだ。そう,まるで自分の姪のように。喪失感が自分だけだと思い,一人悲しみに浸っていたのだ俺は。そうして,それに気づかなかった。

 もし,自分がこのまま消えたら,佐和子は……佐和子に罪は一切無い。

 裸足のまま入り,ソファーに投げ出した上着から,携帯電話を取り出した。四谷左和子の名で二十件の履歴があった。——

 とここで,一つ問題です。

 テーブル越しだったのに,この言葉を発した途端,その人物の上半身が一瞬こちらへ伸びてくるように見えた。圧倒されて,つい後ずさりする。

 新しく入れ替えた脳に,あなたの記憶ではない記憶が,移植される。としたら,どうなるでしょう。あるいは,あなた自身が移植したのに,記憶がすり替えられていたら。

 「それは——私の記憶ではないのですから,私ではなくなる——ということでしょうか。でも,記憶だけで人間ができているわけではない……」

 メタリック・シルバーの細いペンを,今度は嗅ぎぐように鼻元にもって行き,その人物は,目をじっとこちらに向けて動かさないまま,左右の口角だけを心持ちあげた。つり上がった口角だけが,私の目を奪った。

 そうですね。脳だけが記憶を司っているとは言えません。が,それでも,記憶のほとんどは脳の管轄下です。そして——厄介なことは,記憶と感情が結びついていることです。

 「記憶と感情が,それはあるエピソードを思い出すと,喜んだり,悲しんだりする,という意味ですか。」それでは,別段,こんな人物に説かれるまでもない。ごくごく当たり前のことだ。

 当たり前のこと,とお思いですか。ふむ。なるほど。

 「いえ,そんなことを言ってはいません。ただ,そういうことは往々にあるのでは,と思っただけです。」表情に出てしまったか。

 これをご覧ください。普通のよくある紙です。

 「はい。」再生紙を思わせる茶色のA4サイズの紙を,その人物は両手で,上の両端をつまんで,自分の顔の前に吊り上げた。このオフホワイトのテーブルに,いつ準備したのだろう。出すところは見ていないが。

 よろしいですか。では,次にこうします。テーブルに戻すと,今度はペンでさっと何かを書いた。そして,それを同じく両手で端をつまみ,自分の顔の前に出す。そこには,楕円状の不器用な円が書かれていた。

 「あの,これが何か。」手品か何かだろうか。事前の説明もないので,何をしたいのか,何の意味があるのか,まったく見当もつかない。

 そうですか。では,少し説明します。最初の方,まっさらな紙。次の,私が変な形の円を書いた紙。二つの紙を見せられたあなたは,それぞれ,どこを見ていましたか。

 「ええと。」最初の紙の時は,どこを見るでもなかった。何も書いていないのだから当然だ。一方,楕円が書かれた方は,楕円を見ていた。「最初のは,別にどこも見ていませんでした。二つ目は,楕円を見ていたと思います。」

 その人物は答えに満足したように,紙をテーブルにゆっくり置いた。

 その通りです。最初は,どこも見ていず,次のは,楕円を見ていた。では,この紙を記憶だと考えてください。最初のがまっさらな記憶,次のがマーキングされた記憶。

 「どういうことでしょう。」いよいよもって訳がわからない。紙が記憶だと。

 まあ,そう眉間にしわを寄せないでください。こう言い換えたら,少しはお分かりになるかもしれません。先ほど,記憶と感情の話をしました。まっさらな記憶は,感情を伴わない記憶です。他方の,マーキングされた記憶は,感情を伴う記憶です。

 「あの,まだ完全に理解できないのですが。」

 記憶というのは,元来この紙のように——そうその人物は言って,楕円を書いていない面を見せた——まっさらなのです。そうでなければ,見るもの聞くものすべてをストックすることになり,メモリーはすぐに溢れてしまいます。

 このように——今度は楕円が書かれた面を見せた——まっさらなものの中に,定点となる「しるし」をつけます。そして,「しるし」の有無で,優先順位をつけて引き出しやすくするのです。

 「それは,なんとなく分かりました。ですが,感情の方は。感情がどう関係するのでしょう。」

 この「しるし」には色々あります。それこそ,色であったり,匂いであったり,手触りであったりもします。もちろん,感情でもあります。とくに悲しいという喪失感は,記憶に消えがたい「しるし」,いえ,刻印を残します。刻印が深ければ深いほど,記憶はそれに囚われます。——

 「佐藤さん。変な言い方ですが,来ていただいて,本当にありがとうございます。あの,ここ数日でずいぶん,その,辛い思いをされていたようですね。」

 四谷の視線を,無精髭で縁取られた顔の細い輪郭に感じた。「やつれた」と言いたいのだろう。呼び出されなければ,髪の毛に櫛も入れずに乱れたままでいるところだ。佐和子も「やつれて」いる。悲しみは,共有できても,それぞれがそれぞれの重さを,現実を背負う意味では,分有はできないのか。

 「あ,すみません。ジロジロ見たりして。食欲が無いのは分かりますが,先にフレンチトーストを頼んでおきました。あっさりしていて,あと野菜スープも付いてますから,少しでも口にしてみてください。」

 行きつけのカフェか。こんな場所に三十過ぎの男は,しかも打ちひしがれた何者ともしれぬ中年は,いかにも不釣り合いだ。と,見ると佐和子は,両腕でほお肘をついて,手で目を覆っている。

 同じ姿勢のまま,嗚咽を隠すように,努めて静かに佐和子は話した。

 「ここ,アヤちゃん,好きだったんです。カフェのテラスをぐるりと,綺麗な水路が囲んでるんで,少し目を離すと,すぐに水をパシャパシャしていて。あまりに楽しそうなので,こちらもちゃんと注意できなくて。」

 四谷さん。——君も辛いのに,本当にすまない。口ではそう言いながら,すぐ脇を綾子がパタパタと,跳ねるように走って行って,しゃがんで水を手で叩く姿が見える気がした。

 「すみません。思い出したいのに,思い出すと,辛くて辛くてしょうがないんです。なんで,冬子さんじゃなくて,綾子ちゃんじゃなくて,私が生き残ったんだろうって。——こんなに辛いなら,自分がいなくなった方が……」

 四谷さん,もうそれ以上は言わないで。冬子も綾子も,そんなこと望んでいない。ぼくも同じです。むしろ,あの二人の分も,お願いだから,生きてやってください。ぼくが二人なら,そう願います。……

 佐和子の両手と顔の隙間から,溢れた涙がガラスのテーブルに落ちた。

 「もし,そう思って下さるなら,こちらに連絡してください。佐藤さんの想いと思い出は,いえ,悲しみは何とかなるかもしれません。お願いします。本当にお願いします。」そう,四谷佐和子は言って,涙をぬぐいながら伝票を取ると,メモを押しつけて行った。携帯電話らしい電話番号だけが書かれていた。

 その連絡先に電話をしたのは,しかし数日後のことだった。切々とした懇願は分かったが,それでも四谷の話には釈然としないものがあったからだ。何度か途中までプッシュしては止めた。

 広報室は営業部と離れていたので,四谷に会うことはなかった。顔を合わせたら,それに背中を押され,もっと早く電話していたかもしれない。いや,それも分からない。ただ,眠る口実と忘れる口実から——本当は前者しか叶わなかったが——つい酔いすぎて,最後までプッシュしてしまったから,だけだった。

 驚いたことに,電話向こうの女性は,こちらの姓名をすでに把握していたようで(四谷が教えたのだろうか),ある雑居ビルに何時来るようにだけ告げた。そうして,あの人物との対面が始まった。——

 刻印が深ければ深いほど,記憶はそれに囚われます。佐藤さん,あなたが楕円を与えられた瞬間に,そちらを見続けたように。さて,先ほどの話に戻りましょう。新しい脳を手に入れたあなたに,別の記憶が移植された場合どうなるか。一つの答えは,その記憶は感情でマーキングされていますから,あなたは感情をも入れ替えられることになるというものです。

 「感情はそれ独立のものではなく,上から覆われたものでもなく,記憶と結びついている,ということですか。」その理屈はわかるのだが。

 そうです。感情は決して記憶の上澄みではありません。記憶の形成に関わる,いえ,記憶そのものでもあるのです。記憶そのものであるという危険性——いえ,これは今ここでお話する必要はないでしょう。ですから,あなたが囚われている深い悲しみに,手を加えようとすれば,記憶を少しばかり改ざんしなくてはなりません。

 「記憶の改ざん。それはマインドコントロールのようなものですか,それとも,心理療法のようなものですか。」そんなことは聞いたことがないが。

 男は銀のペンを器用に,くるくると指から指へ回した。また,左右の口角が心なしか上がったように見えた。

 いえ,違います。「記憶の改ざん」とは,文脈からそう言ったまでのこと。正確には,感情の改ざんです。言うなれば,先ほどのお話のマーキングを少しずらすのが,この方法です。と,申しましても,また新たな疑問が出てくるでしょうから。簡単に図示しましょう。

 そう言って,その人物は再生紙状の紙に,今度は二つの文を書いた。

 A 大事な人を亡くした 悲しい

 B 大事な人を亡くした でも楽しい思い出がある

 この二つの文の「後半を入れ替える」のが,例のマーキングを入れ替えることになるのだと言う。果たして,そんなことが可能なのだろうか。

 二つの文章の後半部分が,記憶と結びついた,いえ,記憶そのものになっている感情を表しています。「悲しい」を「でも楽しい思い出がある」に入れ替えるのが,私たちの仕事です。一見,行動療法,心理療法を連想させますが,まったく似て非なります。私たちのは,一瞬です。そして,一生です。あなたの大切な奥様とお子様との大切な思い出を,楽しい思い出に変えさせていただきます。

 「あなた,方は,一体,何者,なのですか。」その圧倒的な言葉の力に押されて,切れ切れにようやく声にした。

 紹介が遅れました。私は「エル・インネル」の代表Mです。あなたを悲しみから解き放つ者です。