fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

暗い記憶

 温もりのあるロウソクの光のなかに,アヤちゃんの顔が浮かび上がる。潤んだ目をしながら,頬を目一杯に膨らませる。自分でも「もうダメ」というように,小さい体を大きく震わせる。佐藤さんがそれを見て,笑っている。ふふふ。私はふと暗がりに目をこらす,たぶんあそこの仏壇では,冬子さんも,きっと自分の娘の姿を見ているはずだ。

 「ディアー アヤーコー」の部分で,佐藤さんがアヤちゃんを微笑みながら見やる。わざとゆっくり歌って,頬の大きな娘をできるだけ長く見ていたいのだ。もう我慢できないと,アヤちゃんが目をつぶって,ぶうっと溜めた空気を吐く。一度で炎は消えないので,アヤちゃんはムキになる。その姿が笑いを誘う。ようやく三本とも消えて,辺りが暗くなる。

 私の膝の上には,すでに「ウッディ・プティ」の野菜セットが,大きなリボンをかけて準備してある。悩みに悩んで,けっきょく安全な木製で,教育にもなるこれを選んだ。佐藤さんにも,まだ見せていない。どんな風に受け取ってくれるだろう。

 携帯電話でフラッシュをたいた後も明るくならない。そろそろ灯をつけても。佐藤さん,どうしたんですか,電灯つけないのですか。それとも暗がりのなかで,アヤちゃんを抱っこしているんですか。二人の声も聞こえない。と,あれ,ロウソクがまた,それも白く太いロウソクが———ここは,たしか。白布の台を前に私は立っている。私は布の下が何か知っている。ううん,誰なのか知っている。小さな小さな体。

 外回りに持参してもらう広告の打ち合わせで,営業部に寄っていた。そこで佐藤さん宛の電話を聞いてしまった。信じられなかった。信じたくなかった。けれど,気持ちと体はすで病院に向かっていた。半休になろうが,始末書ごとになろうが,どうでも良かった。けれど,それなのに,着いた時にはもう。——付き添った私の背後に,あの暗闇のなかに,ふたたび佐藤さんが座っている。冬子さんの時と同じく,ううん,ずっと濃い暗闇の中に。

 「四谷さん,忙しいのに,すまなかったね。少しでも付き添ってくれて,綾子も嬉しかったと思うよ。ぼくが外回りに出ていなければ,四谷さんに苦労をかけなかったのに。」

 佐藤さん,何も言わないでください。

 「綾子は,本当に四谷さんのこと,慕っていたからね。いつでも「おねえちゃん,おねえちゃん」って,自分の姉のように。いや,冬子を亡くしたことは,まだ理解していなかったようだから,お母さんのつもりだったかもしれない。四谷さんには,感謝しても感謝しきれない。」

 佐藤さん,お願いです。もう何も言わないでください。

 「いずれは,あの子が大きくなって,それでも可愛がってくれるなら,いろいろ任せようと思っていた。男親には分からないことが多いから。ランドセルの色一つも,今は種類が多いし。その前に,卒園式もあったか。ははは。」

 佐藤さん。

 空気が淀んだ。線香の煙が生臭い。ロウソクの炎が細く長くなってゆく。カタカタと音がする。音が出る方を求めると,綾子ちゃんが乗っている台が揺れている。白布がだんだん激しく震える。何,何なんですか,佐藤さん,これは。何が起きているんですか。

 「何でもない。起きるべくして起きたのだよ。すべては。」

 佐藤さん,何を言っているんですか。——佐藤さんの声が,気のせいか軋んでいる。喉に何かが詰まったような感じだ。

 「君は良いね,結局は赤の他人だ。綾子の代わりはいくらでもあるだろう。それに,君はまだまだ若い。こんなことは,いずれ忘れてしまい,新しい楽しい思い出が,その上にすぐに積み重なってゆくのだろう。」

 佐藤さん,どうしたんですか。何を言っているんです。

 「君のこれからの人生にとっては,取るに足らない記憶だ。仕事に趣味に懸命になり,パートナーを見つければ,「そういえば」ぐらいの重みしかなくなる。そうそう,膨大な記憶のわずかな一部にも足らなくなる。埃(ほこり)程度でしかなくなる。」

 佐藤さん,いい加減にしてください。

 「いい加減。何を勝手に。お前が姉代わりだったと,母親代わりだったと。笑わせるな,たかだか同じ大学の後輩で,同じ会社勤めだったくらいで,そんなつながりなど出来るものか。自惚れは,それこそ「いい加減」にしてもらいたい。誰かの代わりなど,所詮人間にはできないのだ。」

 そんな風に私に当たらなくても,佐藤さん,私だって言葉にならないくらい,すごく悲しいんです,信じたくないです——息が上手くできない,肺に酸素が入らない,意識が薄れていく。これは,佐藤さんではない,誰か別の人が,悪意をむき出しにして,私にこんなことを言っている。佐藤さんは,絶対にこんなことは言わない。言わないはず。それとも,本気で。

 オフホワイトの部屋。同じ色のテーブル。ここはどこだろう。先ほどまで病院にいたはずだが。ふと,目をやると,いつそこに座ったのか。空間に溶け込んでしまう色の服を身につけた人物と,向かい合っている。男性のようでもあり,女性のようでもある。中性的な感じだろうか。

 「随分と辛い体験をされたようですね。身近で親しいと思っていた方から,「赤の他人」扱いをされ,自分も身を切る悲しみを感じているのに,その共有を拒まれた。挙句が罵倒です。そんな風にされれば,誰だって深く傷つきます。息も苦しいほど。」

 目の前の人物は,メタリック・シルバーの細いペンを,胸のポケットから出して,しげしげと点検した。この柔らかい白の空間のなかで,唯一そのペンが異物としてギラギラと光る。

 あの,あなたは誰ですか。どうして私の——あれは,現実に「体験」したことだろうか,それとも「夢」だろうか。霊安室で,佐藤さんは……どうしていただろう。たしか遅れて出先から駆けつけたはずだから……

 「お忘れでしょうね。往々にして,記憶や思い出というのは,覚えているように見えて,忘れているものです。この紙のように,何かしらの印があれば,名前をつけ,分類して,いわば記憶の棚に整理しておくのが可能ですが。」

 ペンを置くと,その人物は,おもむろにテーブルの上の紙をこちらへ差し出した。テーブルに紙などなかったはずだけど。その紙を見て,私は驚いて声をあげた。それはアヤちゃんが,いつか描いてくれた,アヤちゃんと私の絵だった。長丸に長い髪,大きな目,それをアヤちゃんは「おねえちゃん」だと説明した。「となりはだあれ」と尋ねると,「アヤ」と小さい丸に小さい目を指差した。その絵がなぜここに。

 「ここにある理由はどうでも良いでしょう。それよりも,この絵です。全体が同じピンク色で描かれています。その子にとっては,その子も,あなたも,その子の家も「分節化」されずに,同等なものなのです。あなたは,それに気づいて,喜んだのではないですか。自分がその子の世界のなかに,違和感なく住んでいることを知って。」

 その人物は,両肘をついて,手を顔の前で組み合わせたので,少し声がくぐもって聞こえた。私は,たしかに,この絵を見せられて喜んだ。同じ色に意味があったのかは知らない。一つの絵のなかに「おねえちゃん」として,入れてくれたのが嬉しかった。涙が溢れてきた。

 「おっと,それに涙を落とされては困ります。借り物ですからね。」

 さっと私の目の間から絵を引っ張って,テーブルの向こうの端に置いた。

 「「その子」「絵」「喜び」。どのように名付け,どこに分類しようとも,これは入れておいた棚から出せるものです。あなたが望んだ記憶ですから。他方で,あの辛い体験に対しては,あなたは名付けも分類も拒みました。ですから,どこにも収められていないのです。まあ,一種の催眠術を用いれば,いくらでも引き出すことはできますがね。」

 両手を組んだまま,右手で持っているのだろうか,銀のペンを振り子のように左右にリズムをつけて振った。その身振りは,お望みなら今からでも,催眠術をかけますが,と言っているようにも思えた。

 私は覚えていなかったのだろうか。アヤちゃんを失った悲しみのあまり。それとも,この人の言うように,記憶が拒んだのだろうか。佐藤さんの——いや,やっぱりどう考えても,佐藤さんが「あんなこと」を言うはずがない。冬子さんが亡くなられた時も,静かに,黙したまま,それだけ深く悲しんでおられるようだった。それともアヤちゃんだから,特別だったのだろうか。

 「良いですか,先ほども申し上げたとおり,名前がつけられず,分類もされていないのです。思い出そうとしても無駄ですよ。あなたは,他の方の死は想起できましたね。「その意味」をお考えください。その死と「その子」の死の違い。その死は,きちんと整理されて,棚の中に入っていたのです。そして,男性の言葉は棚の中に「入っていなかった」。」

 愕然とした。その人物の言うとおりだ。冬子さんのことは覚えている。佐藤さんが悲しんでいた姿も,私が小さいアヤちゃんを胸に抱いていたのも。でも,アヤちゃんの時のことは覚えていない。そんなことがあるのだろうか。では,佐藤さんが私に言った言葉も,本当だったのか。——いや,違う。そうなら,どうして私は思い出すことができたのだ,今になって。

 きっと目をあげて,向かい合った人物を見ると,先ほどの中性的な感じとは違い,完全に女性の容姿をしている。そして,口角が左右とも人間と思えぬほど,吊り上っている。テーブルの大きさが縮んでしまったように,顔を付き合わせる形となったので,思わずのけぞった。

 「そうです。良くお気づきになりました。少し細工をさせていただいたのです。棚から落ちていた記憶を,「その子」「死」「佐藤さん」と名付けて,「その子」の棚に入れておきました。あなたが,「その子」を思い出せば,自然と連なって引き出してしまうように。事実,その通りになりましたね。「その子」の誕生日の記憶から,「その子」の「死」,それから「佐藤さん」へとつながりましたね。」

 まさか。どうして。どうして,そのようなことをしたのです。私はそんな記憶,引き出したくはありません——え,え,ということは,佐藤さんが口にされたのは本当のこと。本当の記憶なの。そんな,そんな仕打ちを,佐藤さんがするわけない。

 「どうやら,ようやく少し理解してもらえたようですね。なぜ引き出してあげたのか。いえ,あえて引き出したのには理由があります。人は辛いことがあると,名付けを拒み,分類を拒みます。それは,ある種の「逃避」であり,ある種の「忘却」です。そうするのが良いこともあります。例えば,自分だけに関わるものであれば,棚なんかに入れない方が良いでしょう。ですが,今回の場合は,今後のあなたと「佐藤さん」に関わってきます。」

 その人物は,打って変わって柔和な表情を見せ,話を続ける。

 整理せずに放置すれば,いずれそれが致命的な問題となって,二人の間に横たわる。歪みを生み出し,二人の関係性を損なう。それが,どういう意味か分かるか。本当の「佐藤さん」を知らずに,「佐藤さん」と深く関わろうとするのか。それは虚偽であり,欺瞞ではないのか。

 私は反論する言葉を失っていた。そして,その人物の言葉は,私の芯を,拳で殴るように揺るがした。

 「もう一つ,あなたが棚に入れていない記憶を見せましょうか。「佐藤さん」にまつわる記憶です。あなたは,決してその子の「姉」に収まるつもりはなかった。「母親代わり」もするつもりはなかった。あなたは,男性としての「佐藤さん」を求めていた。しかし,自分の想いを禁じた。その子に悟られてはいけない。その子はあなたが「佐藤さん」とつながるための「道具」にすぎなかった。」

 私には見えている。佐藤さんのベッドの中で,佐藤さんに舐められ,噛まれ,首からつま先まで,時に激しく愛撫されるのを。そうして身体の奥から,温かいものが太ももを伝わり,佐藤さんが入ってくるのを。揺すられながら,佐藤さんの背中に爪を立て,声にならない声を発するのを。淫らなオレンジ色の光の中で。

 頭に浮かんだ像が,細いメタリック・シルバーの光に消えた。蛇のような目で,その人物は私の頭の中を覗き込む。視線が,眼窩からするりと入り,身体中を駆け巡る。私は思わず自分を抱きすくめた。

 もう,もう,やめてください。本当にやめてください。どうか,お願いしますから。——私は,アヤちゃんを「道具」にして,佐藤さんに近づいたのか。それが,私の本当の意志だったのか。押し殺そうとしただけで,本当は,心の底ではずっとそう願っていたのか。私は,私は——

 「そうですね。まずは,それらの「隠そうとした」記憶を,名付けましょう。「暗い欲望」でも,「暗い衝動」でも構いません。他に良い名前があればご自由に提案なさってください。分類は,そうですね,「性欲」か「支配欲」とでもしておきましょう。かつて,そうした「欲」が一切なかったとは言わせませんからね。そこに一緒くたに放り込んでおけばよろしいでしょう。そうすれば,「性欲」を想起するたびに,淫らな記憶が呼び起こされるわけです。」

 涙にゆがんだその人物は,すうっと引き伸びて行き,持っていたペンのように細くなった。私は,裸のまま汚物に放り込まれたように,なすすべなく,椅子に腰掛けたまま,放心していた。アヤちゃんの思い出も,佐藤さんの思い出も,この汚物の中では引き出すことができなかった。