fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

悲しみの匣

 気分障害心因性の記憶障害,それが診断だった。——

 新商品の発表に合わせて出先を回る前だったから,たしか六月の初旬だったと思う。広報の中山という女性から,なぜか外線で電話を受けた。その内容に,同姓同名の別人のことではないかと,最初は訝しんだ。

 綾子が亡くなってからというもの,絶えず連絡が来ていた。食事や睡眠の心配に始まり,気晴らしの誘いまで。それが,一週間ほどぱったりと止んだ。何か起きたのかと,こちらから連絡を取ろうとするも,LINEも電話も通じず,ショートメールも届かない。やはり「何か」起きていたのだ。

 受話器からくぐもった声がする。休憩室かどこか,社内から携帯電話でかけているのだろう。

 「もしもし佐藤さんですか,突然すみません。広報の中山と言います。少しだけお時間よろしいですか。四谷さんのことですが,家族ぐるみで親しくされていたとは,本人から聞いています。その四谷さんが——」

 五日前から無断欠勤をしている。すでに人事部が介入し,本人に連絡を取ろうとしている。おそらく懲戒解雇になるのではないか。解雇もそうだが,四谷本人がどうしているのか,どうしても気になる。

 「私,四谷さんと同期で,入社してからずっと,親しくしていました。佐藤さんことも,あの,その,お子様のことも,四谷さんから聞いていました。あんなに心配していたのに,今度は,いえ,佐和子に連絡がつかなくて。もっと前に,佐藤さんにお話しすべきでした。」

 そうでしたか。私の方も,妻や娘のことで大変世話になったので,何度も連絡をしてみたのですが。

 「そうだったんですか。佐藤さんには,何か告げていると,あ,いえ,今回のことで佐藤さんなら,何かご存じかと。どうしましょう。実は——」

 と,さらに声を低めて,中山さんが提案したのは,マンションに行ってみるかどうかだった。思えば,自分も佐和子の住んでいる場所は知らなかった。実家は四国だったと聞いてはいたが。おや,中山さんはもう行ってみたのではないのか。

 言いにくそうに,中山さんが打ち明けたのは,自分も住所は知らなかったこと,そして,人事部の知人に頼んで「密かに」調べてもらったことだった。

 「個人情報ということは承知しています。ですが,事態が事態なので,禁止されていることをしてしまいました。もしバレたとしても,処分は怖くありません。それで,どうしましょう。佐藤さんが行かれますか,それとも,私が行きましょうか。」

 事態が事態とはどういう意味だろう。佐和子に連絡がつかないのは,何かの事情があるのだろうが,たとえば,不意に実家へ帰省した可能性も排除できない。仕事上のストレス,いや,もしかすると,自分に,自分の過去に関わるのに,急に疲れたかもしれない。

 中山さん,事態が事態とは,どういう意味でしょう。

 直接的な問いかけに,しばらく沈黙が続いた。背後で,がちゃりという,何かが落ちる音がした。休憩室の自販機の近くか。

 「四谷さんのパソコンに貼ってある付箋(彼女は,よく用件を付箋でデスク周りに貼っていました)の重なった中に,その,佐藤さんへの伝言のようなものを見つけたのです。内容は,ええと,こう書いてあります。「私は佐藤さんと娘さんを傷つけ,その思い出を汚してしまった。申し訳ありません。」あの,思い当たることはありますか。」

 耳を疑った。「自分と綾子を傷つけ,思い出を汚した」。そんな訳が。あんなに娘に良くしてくれたのに。今度は,予想外の文言に,こちらが沈黙せざるを得なくなった。

 あ,いいえ,まったく思い当たる節がありません。佐和子は,いえ,四谷さんとは,妻の生前からの付き合いで,妻が亡くなった後も,幼かった娘のために,何かと良くしてくれました。汚したどころか,彼女がいてくれなかったら,娘との二人暮らしは,ずいぶん寂しいものになっていたと思います。汚したなどと。

 考えるところがあるのだろうか,私の言葉を受け,少しだけ再び沈黙が訪れた。

 「やはり,そうですか。私が相談を受けていた時も,あの子はアヤちゃんが絵を描いてくれたとか,誕生日を一緒に祝えてよかったなどと,まるで自分の姪のような話しぶりでした。ですから,ですから余計に,こんな伝言を書くあの子が想像できないのです。会社に対する愚痴ならまだわかるのですが,これでは,何かがあったとしか思えません。」

 そして,それがどうやら私にも関わっている。伝言を素直に受け取るなら,私の連絡に出るはずがない。あくまで「素直に受け取るなら」という仮定でだが。その仮定そのものが,あり得ないのだ。「事態が事態」,なるほど,これは何かが起きている。もしや,いや,そんな想像はしてはいけない。まずは,本人に問いたださなければ。

 中山さん,彼女の住まいへは,私が行っても宜しいでしょうか。伝言からすると,問題は,私と家族に関わっていると思われます。無断欠勤による懲戒解雇は免れないかもしれませんが,それ以前に,心配しなければならないことが,いえ,何でもありません。

 電話口の向こうで,中山さんが「お任せします」と告げ,本日の会議が終わり次第,住所を書いたメモと例の伝言を持って,営業部へ立ち寄ると約束した。通話を終えて,会うまでは仕事に集中しようとしたが,何か釈然としなかった。

 なぜ,「付箋」などに伝言めいたものを。こちらの住所は知っているのだから,裏書きに名前だけ記して(場合によっては,名前も伏して)送れば済む話ではないか。会社のコンピューターに貼ってあっては,見逃されて,そのまま破棄される恐れもあろうというもの。見つけられればそれで良し,見つけられなければそれまで,ということだろうか。——

 外回りは散々だった。プレゼンは,どちらかと言えば,得意な方だったが,初めて「とちった」。新顔の紹介も兼ねていたのに,後輩の面子を潰してしまった。構いませんと言っていたが,ミスを連発する先輩に,さぞかし肝を冷やしただろう。綾子を失った辛さから,ようやく解放されたのに,まさか反面教師になるミスをやらかすとは。

 帰社すると,部局を仕切っているアクアリウムの前に,「中山」と名札をつけた女性が佇んでいた。後輩を先に戻らせ,例の二つのもの,そしてそれに加えてもう一つメモを手渡しされた。メモには「何か分かりましたら,連絡いただけますか。」と書いてあり,LINEのコードと携帯電話の番号が記されてあった。そそくさと離れたのは,怪しまれないためだろう。

 住所は比較的利便の良い都心の一画,最寄り駅も歩いて数分ほど。近くは営業で回ったこともあり,土地勘が働く場所だった。問題の「付箋」には,急いで書いたのか,自分の見たことのある字よりも,少し乱れているようだった。中山さんが見つけてくれなければ,社内報の人事異動で知るところだ。ともかく仕事を終えて寄ってみるとして,果たしてこのマンションにいるかどうか。

 ふと,付箋に目を戻したときだった。頭のなかで,何かが像を結んだ気がした。白い空間,銀色の細いペン,吊り上がった口角———これは,どこかで見た光景のような。しかし,それも一瞬だった。急上昇する飛行機の座席についているように,耳の奥がぼうとなって,頭痛がした。何だろう,フラッシュバックの類か,にしては,事故とかの場面ではなかった。

 頭痛は,仕事終わりまで続いた。痛みは,頭の芯から波状に頭蓋へ広がる感じだった。このような頭痛は初めてだった。それと知らずに疲れが溜まっていたのだろうか。通りすがりのドラッグストアで,痛み止めと水を買い,すぐに服用したが,佐和子のマンションに着くまで,波状の痛みは治らなかった。むしろ,激しさを次第に増していくようにも思われた。

 ガラス張りの広い玄関ホールで,四谷の住む部屋の番号「四◯八」を,痛みをこらえながら押した。案の定,誰も出ない。二度押したが,出ない。やはり,実家に帰省したものと思われる。念のため最後にと思って,キーをタップしている時,なぜか指が動いて,他の数字もタップしてしまった。頭痛から来る「めまい」のせいだろうか。しかし,それはセキュリティ・ロックを解除する番号だったようだ。

 ずっとここに立っていては怪しまれると思い,広くて明るいエントランスに入った。右手の中ほどにエレベーターが見える。ロックが解除されたのは偶然だとして(そうした説明も,もし佐和子本人が居てくれれば,必要ないだろう),部屋の前まで行って確認するとしよう。インターフォンのコードが抜かれている(抜けている)可能性もある。それで反応があるなら,親族だと思って対応してくれるかもしれない。

 だが,そうした佐藤の推測,ないしは憶測は,まったく無駄だった。四◯八号室の前に,男性とも女性とも判別し難い(洋装からすると,男性だが)人物が立っていた。その服の色は,白大理石を模した壁に吸い込まれそうであったため,もう少し壁よりに居たら,きっと見逃していただろう。その人物は,微笑むというよりは,ほくそ笑むかのように口角を,きっと吊り上げ,佐和子の部屋のドアノブに手をかけた。

 待て,あなたは誰なんだ。と声を出すが早いか,佐藤はすでに佐和子の部屋の中に入っていた。玄関にも,その奥にも灯はついていないようだった。それでも奥の部屋まで検討がつくのは,奥の扉の中央に,縦にはめられた磨りガラスから,漏れる青白い光のためだった。カーテンが開けてあるのか。その前に,先の怪しい人物はどこへ行ってしまったのだろう。

 音を立てないように靴を脱いだのは,得体の知れない人影への注意のためか,それとも,奥の部屋に「想定される」恐ろしい出来事への,無言の恐れの表れのためだったかもしれない。靴下のまま,つるりとした床を奥の部屋へ目指す。磨りガラス越しに確認したところでは,室内に動くものは無いようだ。気配もしない。そっとノブに手をかけ,ゆっくりと扉を開いた。そのとき,突如として,辺りは白に染められた。

 「呪わしいですね。まったく。あなたの周囲には,いえ,あなたが他者の悲しみの中心軸になっています。あなたの記憶と感情の連関を解いたのに,さっそくこの始末ですよ。まったく呪わしいことです。今度は,あなたの大事な方たちに良くし,あなたに尽くした人まで巻き込むとは。」

 オフホワイトのテーブル,空間,そしてメタリック・シルバーのペン。ここは来たことがある。だが,はっきりとは覚えていない。なぜここの記憶があるのだろう。夢か何かで眼にしたのだろうか。

 部屋の外に立っていた人物が,向かいの席で口角を吊り上げた。

 「いえ,夢ではありません。現実に,あなたとこうして向かい合いました。まあ,本来であれば,一度きりで済むところですが,この度は事情が違うようです。あなたの連関を解いたのと,直接関係があるかどうかは,今のところ,私にも定かでありません。ただ言えるのは,連関を縛るものが動いている,ということです。」

 連関,連関と言われても,何のことかさっぱり分からない。それに,佐和子は,いや,四谷さんはどうなったのだ。どこにいる。あなたが,あなたが何かしたのか。

 「今度は質問攻めですか。困りましたね。そうですね,結論から言えば,あの方は大丈夫です。それよりも,連関の方ですが,同じ相手に二度も説明するほど,私は暇ではありません。いずれ時期が来れば,「思い出す」かもしれません。ここが大事ですよ,「思い出す」かもしれない。さて,問題は連関を縛るものです。私が,悲しみを楽しみへと「想起させる」とすれば,向こうは楽しみも悲しみも,すべて悲しみへと「上書き」してしまいます。」

 真の絶望とは,悲しみの箱のなかに閉じ込められ,閉じ込められたことも忘れて,うずくまってしまうことです。そう,その人物は,細いペンでテーブルをコツコツと叩きながら,断言した。

 「あなたたちの文化では,「深淵を長く覗き込めば,深淵もまた覗き返す」と言い古されているようですが,要は眼差しを投げる方が,常に主体であり続ける保証はないということです。「悲しむ」とは,主語が人間になりますが,「悲しみがつかむ」と言えば,主語は悲しみになります。」

 その話がどう佐和子とつながるのですか,佐和子は本当に大丈夫なのですか。

 「それはご自分でお確かめください。先にも申し上げたように,彼女は大丈夫です。大丈夫ではありますが,治療が必要ですね。あとで病院にでも連れて行ってあげてください。仕事は,もう当分無理でしょう。今度はあなたが,あの方に尽くすのです。あの方の働きなければ,今のあなたはいなかったでしょうから。」

 白がすうっと,かき消えた。あの青白い光は,外れたカーテンレールから,向かいのビルの灯がはいっていたものだった。佐和子は,カーテンの端をつかんだまま,ソファーの向こうに突っ伏していた。名前を呼び,抱き起こして,あの消えてしまった人物の言ったことが,理解できた。その眼は悲しみに窪み,その身体は悲しみに痩せさらばえていた。

 何度か「試みた」のだろう。左腕に巻いてある血の滲んだ包帯が,痛々しかった。それでも,私と分かると,全身を震わせて,声にならない嗚咽を漏らした。何がこれほど佐和子を追いやったのか,なぜ佐和子は不可解な伝言を残したのか。それをすぐに確認することはできなかった。私に説明する言葉を,そのときの佐和子は失っていたからだ。

 抱きしめた身体は,ようやく温もりを戻しつつあった。私は,あの人物が最後に投げかけた謎めいた言葉を,思い出していた。