fumi_saeki’s blog

物語の試作品をあげています。

MとM

 二人の人物が対峙している。同じ白い洋装,細いメタリック・シルバーのペンを胸にさし,そして口角を頬の端まで吊り上げて。この配置は,アルコール臭がかすかに残る病室には,ひどく不釣り合いだ。むしろ実験的演劇の舞台の方がふさわしい。——

 運良く中山さんに連絡がついた。あるいは,ずっと,自分からの連絡を待っていてくれたのかもしれない。四肢がぐんなりしている佐和子を,薄青い夜というアクアリウムのソファーに寝かせ,すぐに教えてもらったLINEのコードを打ち込んだ。「許可」を待ちながら,部屋を検めていると,「とみえ」から無料通話の申請があった。たぶん,と思い,通話に出た。

 「もしもし佐藤さん。中山です。四谷さん,大丈夫ですか。何ともないですか。あの,その,そういうことは,あの子,してないですよね。」そういうこと。やっぱりか。中山さんも,自分と同じ,「そうあって欲しくない想定」はしていたのだ。

 余計な心配をかけまい,余計な興奮はさせまいと,ごく簡単に状況を説明する。なるべく佐和子の今の状態に話題をとどめた。左腕の傷は,いずれそれと知れるだろう。今わざわざ話す必要はない。それよりも優先すべきことがある。

 「分かりました。そのマンションに直接行って,タクシーを待たせたままで,部屋の番号を押せば良いのですね。ああ,はい,何か消化に良いゼリーか何か買っていきます。」

 何か少しでも口に含ませようと,冷蔵庫を開けてみた。予想通り,空っぽだった。ほぼ尽きようとしている消臭剤が一つ,あとは調味料だけ。ここ一週間,一切口にしていないのだろう。胃からでも成分が摂れる,たしかゼリー状の栄養食品があったはずだ。中山さんは説明の途中で,それと気づいてくれた。

 部屋のインターフォンが鳴るまで,できたことと言えば,寝室から毛布を持ち出し,薄着の佐和子を包み込むことぐらいだった。元からこんなに痩せていたのだろうか。肩の線などからは,決して肉づきの良い身体ではなかったと思うが,これでは拒食症。いや,そうとは言わないまでも,骨と皮ばかりになっている。

 同じ印象は,部屋に入った中山さんも,一目で持ったようだった。暗がりだから,目のくぼみと,頬の影が際立つとはいえ,久しぶりに会う友人の変わりように,声を失っていた。そして,私がおぶるために,二人で身体を起こした時,佐和子を襲った変容を,その軽すぎる体重から実感したようだった。

 救急車を,と急く中山さんに,大事(おおごと)にはしない方がと,タクシーで近くの総合病院を目指した。車内は密林のような,濃くて重たい大気に満たされた。運転手は,ことの異様さを悟ったのか口をつむぎ,中山さんは佐和子の顔を,赤子のように抱きすくめ,私はただうなだれていた。相変わらず,佐和子は焦点がずれた視線を投げていて,一言も口にしなかった。

 このまま空気が次第に圧を増していくと思っていたが,車が信号で止まったとき,不意に中山さんが口火を切った。この時を逃せば忘れてしまう,という切羽詰まった口調だった。

 「佐和子は,あの,事件に,何かの事件に巻き込まれた可能性はないでしょうか。」

 事件。事件とは一体どういう意味ですか。——あの不思議な人物は,「連関を縛るもの」とか言っていた。「連関を縛る」,などという抽象的な物言いが,いや,そもそもあの人物の存在が不確かだ。あれは,事件でも何でもない。幻想か虚像の類だろう。それに,あの人物が佐和子に何かをしたのではない。大丈夫だと保証した,予見したと言うべきか。いずれにせよ。

 「あの,佐和子は,その,お子様を亡くされた佐藤さんのために,「頼りになるかもしれない人物を探し出した」というようなことを,いつか言っていました。訊いても詳しくは教えてくれなかったのですが,その,今回も佐藤さんと関わっている(そう言われたのは,佐藤さん本人です)とすれば,その「人物」がもしかしたら,と思いまして。」

 頼りになるかもしれない人物。そう佐和子が,いえ,四谷さんが言っていたのですか。「頼りになる」とは,どういう意味ででしょう。すでに四谷さんが,十分すぎるほど,私たち家族には尽くしてくれていましたが。前に電話でお話ししたように,四谷さんがいなければ,娘との生活も,ずっと精彩を欠いていたかもしれません。

 中山さんは,困惑した風に見えた。自分が話すことには,確たる信憑性が欠けている。それを案じているようでもあった。

 「信じてもらえないのを承知で言います。それに,これは佐和子が言っていたことなんです。」

 佐和子が中山さんに話した「頼りになる」の意味とは,冬子と綾子を失った私の悲しみを,「癒せる」可能性がある,ということのようだった。急に大事な人を失くすと,人は思い出すたびに辛く,心が痛くなる。その思い出にまつわる「感情」を,「解放する」。そのような人物がいるかもしれない。いや,いたのだと。

 宗教,めいてはいる。ヒーリング。魂の解放。今では廃れたが,精神世界を生き直す試みは,実際の宗教団体のみか,啓発本などでも謳い文句にされた時期もあった。だが,そのような「シャーマン」を,現代の世界で,佐和子が探していた,というのだろうか。少なくとも,そうした「癒し」を信用しない,私の性格は知っていたはずだが。——

 冬子の四十九日の法要が終わり,「手伝い」に来ていた佐和子は,線香が燃え尽きようとしている仏壇を見ていた。

 「佐藤さん,不躾だと思いますが,私,冬子さんが「まだどこかで」佐藤さんとアヤちゃんを見守っていると思うのです。決して比喩的な意味ではなくて。私は高校生のとき,祖父と祖母を相次いで失くしました。父や母,それに親族が嘆くなか,私だけは違う感覚を持ったのです。」

 ほんのしばらく,と言っても,自分が亡くなるまでの間だけれど,祖父母は「隠れん坊」をするように,ちょっとどこかへ行っただけではないか。姿が見えないだけで,死んだわけではない。死んだわけではないから,悲しまなくても大丈夫。必ずどこかにいて,見守っている。

 冬子の遺骨を拾いながら,「決して二度と会えないことの意味」を,一つ,また一つと重たい分銅のように,心の秤に積んでいた私は,その楽観にすぎる死生観に苦笑を通り越え,怒りさえ覚えた。死ねばすべてが無に帰す。身体は焼かれれば骨になり,骨はもう無機物でしかない。しかし,佐和子は,簡素な仏壇に向かいながら,そんなことを考えている。「やはり他人事か」と,そうは言わなくとも当たったこともあった。

 だが,死生観は人それぞれだ。極言すれば,「死の受け止め方の違い」に他ならない。まだ物心もつかない綾子に,ともすれば母を求める綾子に,「もうすぐお母さん帰ってくるからね,いい子にしていようね」と明るく諭す姿を目の当たりにして,「そういう捉え方もあるのだ」と反省した。佐和子は,もしかするとどこかに,本当に冬子がいると思っていたのかもしれない——

 あの「死生観」が,綾子が亡くなっても,佐和子のなかでは続いていたのか。綾子の死を,ようやく受け入れつつある今,私に必要なのは「癒し」や慰めではない。ましてや,誰か他者によって,そうした「受け入れ」を半ば強要されることでもない。死としっかり向き合い,綾子の思い出が残してくれた,楽しかった数年に目を,心を凝らすこと。

 と,あの人物が残した「連関」という言葉を思い出した。あの人物は,「あなたの記憶と感情の連関を解いた」と口にした。その「連関」は,「思い出せる」とも,「思い出せる」ことが大事だとも。ある記憶とある感情がつながる。辛い思い出が悲しいという感情につながる。それを,別の感情につなげれば,それは「解放」に——そういうことなのだろうか。それが,「頼りになる」。そうなのか。

 私の想念にひと段落がつくのを,タクシーの運転手も中山さんも待っていた。自分でも呆れるほど,考え込んでいたようだ。闇の影がさす白壁に,緊急用の入り口を示す赤い灯が,車のランプに照らし出されていた。中山さんが,無言のまま,その目で佐和子を運ぼうと促している。すでに支払いは終えてくれていた。あとは,マンションの一室での要領で,佐和子の両腕を肩に回してもらい,中山さんは,ドアの上部に二人が頭をぶつけないよう,角に腕を添える。

 出迎えた看護師は,私たちが事情を話す間に,佐和子を一瞥した。その表情から,担当の科をすぐに判断したようだ。「今日の担当医は,専門ではありませんから,明日まで入院していただきます。いえ,「措置入院」ではありません。」みなさん,すぐにそういう処置を思いつかれるようですが,「措置入院」にはそれ相応の手続きが必要なのです。明らかな衰弱が見られるので,「念のために」入院させるという。

 付き添うと譲らない中山さんに後を任せ,一度自宅に戻ることにした。佐和子が,ひとまずは無事だと分かった安心感からか,睡魔が泥濘(ぬかりみ)のように,自分にまつわりついているのに気づいた。リビングのソファーに横になると,身体から一息に力が抜け,目頭に軽い痛みが走り,瞼が重くなっていった。

 冬子が紫色の花弁をつけた,一輪の花を手にしている。端々まで潤っている,摘んだばかりなのだろう。青いグラデーションのワンピースが,時折吹く風にふわふわと揺れる。あの前髪の形は,夏の前のものか。細い足にすがっているのは,あれは綾子だ。足を支えに「立っち」しているが,幼い足が震えている。

 微笑みながら冬子が手を伸ばす。そっと音もなく。ワンピースから細く白い手が伸びている。その手は,すぐそこにありそうで,でもつかめない。最初は悪戯かと笑っていたが,届かないので,次第にイライラしてくる。冬子,もっと手を伸ばして,くれ——と,手が届いた。嬉しくて,つい,その感情を冬子の表情にも確認しようと見ると,その顔は冬子ではなく,佐和子だった。

 目がさめるとLINEに,中山さんからメッセージが入っていた。「病状は安定しました。朝まで点滴をしてもらって,表情も柔らかくなっています。今日はこの後,診察です。仕事終わりに寄ってみてください。」昨晩のお礼と,自分が休めたことを簡単に書き送った。今日はそのまま外回りに行こう。得意先は,自分が税理士のつてで「開拓した」ところだ,課長も勝手をしぶしぶは許してくれよう。

 救急病棟に照会すると,佐和子は精神神経科に移っていると告げられた。中山さんが最後にくれたメッセージは,診察前のものだった。診察のうえで,やはり一時的な入院が必要だと,判断されたようだ。案内を頼りに,二階奥の一般診療病棟から,入院病棟へ入る。病室はすぐに見つかった。真新しいが,かすかにアルコール臭がする。「四谷」の札が,二人病室に一つだけ,右手に入っている。

 カーテンの奥からそっと覗いた。すでに夕食は終わったと見え,佐和子が,寝息も立てずに寝ている。寝顔は,昨夜よりずっと血色が良い。少し安心しながら見守っていると,部屋の入り口に気配がした。誰か親族の方でも来られたのだろうかと,ベッドから少し離れた。しかし,現れたのは,カーテンのベージュに霞んでしまいそうな色の服を着た——あの,マンションの部屋の前にいた人物だった。なぜ,ここが。

 「なぜでしょうね。ともかくも,治療が間に合って良かったです。あのまま,あのようなことを繰り返されていれば,後戻りができなくなりますからね。まあ,申し上げた通り,当分,仕事は無理でしょうね。よく静養されることです。あなたが働いて,この方を支えれば良いのですから。あなたには,それくらいの「義務」はありますよ。」

 別段,あなたにそのように勧められなくとも,この人は私が支えます。あなたは知らないでしょうが,この人には,ずいぶんお世話になりましたからね。それくらいの「義務」など,言われなくても分かっています。——突然に現れて,なに余計なことを言うのだ。

 「その「義務」ではないのですが,まあ,良いでしょう。いずれ分かることです。それよりも——」。その人物は,不意に言葉じりを飲み込み,口角を吊り上げて佐和子を見やった。佐和子のすぐ横,テレビが設置された棚の前に——同じ服装の,同じ顔の——鏡を合わせたように,同一人物が立っていた。いつの間に。私が来た時は,誰もいなかったはずだが。と,佐和子もうっすらと目を開けている。

 佐和子,聞こえるか——その声は,二人の人物のやりとりにかき消されてしまった。

 「これはこれは。「エル・インネルン」のMですか。いずれどこかでお目にかかるとは思っていましたが,わざわざこちらへお越しとは。そこまで,私の邪魔がしたいのですかね。」その人物は,同じように口角を吊り上げて見せた。

 お前は,誰なんだ。佐和子に何をした。

 「あなたが「佐藤さん」ですね。こちらの佐和子さんは,自分の「暗い記憶」を覗き込んでしまったのです。いずれ,このようになることは予想できました。まあ,自ら望んだのですから,私のせいではないですがね。申し遅れました。私は,「シュパイ・ヒェルン」のMです。そこのMと,まあ,日と陰,陰と日のような存在です。」

 二人のMが示し合わせたように,胸のポケットからメタリック・シルバーのペンを抜き,指先で器用にくるくると回した。

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